初日は、河口湖に沿って、3時間も散歩しました。
雪化粧の富士山を顧みて眺めたり、富士山が隠されたらひたすら歩いたりして、東京から離れた空気は綺麗な気がします。
紅葉が、過ぎていたようだったが、久しぶりに一本一本の紅色を目にしたら、嬉しくなっている女性陣のパワーを感じました。
次の朝、富士山のある方向が霧に囲まれて、恰も私たちの運のよさを語っていたようでした。
<軽井沢睡鳩荘>
ほぼ移動の二日目の記録を除いて、三日目の朝は、母親の要望に応えて、二年ぶりに中軽井沢の塩沢湖に来ました。一昨年の夏に、母親と二人で訪れた場所でした。
まだ記憶に残っている空間だが、人混み具合は一昨年の夏と比べて、大差ありました。今回は私たちしか、入館者がいませんでした。
館員さんが母親たちに声をかけてくれたらしい。そこで、まだ玄関で色んな説明にさまよった私が、中へ呼ばれ、お話を聞いたら、ご親切に軽井沢彫について説明してくれるところだったそうです。
いつの間にか、叔母さんの質問に誘導され、玄関で出たヴォーリズの名前と朝吹家の関係を明らかにしようとなり、まずはヴォーリズその人から説明が入りました。
宣教師で建築家を目指したヴォーリズ氏について説明してくれた時に、ヴォーリズが設計したいくつか現存の建物を紹介してくれました。
同志社大学の校舎、心斎橋にある大丸百貨店など、写真でプチ旅をさせてもらいました。
この睡鳩荘も、福沢諭吉一族と関わりのあり、三越呉服店常務に歴任した朝吹常吉から、ヴォーリズ氏に依頼して建てた軽井沢別荘でした。
二階にある4つの部屋の間取りから、ゆったり軽井沢生活を過ごしたことは、想像できます。
2011年に朝吹常吉の曾孫である朝吹真理子が芥川文学賞を受賞したことで、今でも話題の一族です。
朝吹真理子の祖父も父も、慶応義塾大学のフランス文学者でした。
私に興味深いことのもう一つは、「睡鳩荘」その名の由来です。茶の湯で親しまれている牧谿の「眠り鳩」という掛け軸と関連があったらしいです。
西洋と東洋の境い目で生み出された睡鳩荘のことは、いかにもあの時代の日本を代表できる気がします。
<軽井沢高原文庫>
本館に面して、右側にある野上弥生子の書斎が興味をそそられました。
書斎も、茶室も、大本が似ていると思えば、実際、この空間は書斎兼茶室だそうです。
野上弥生子の『秀吉と利休』はいつか読んでみたいと思っています。遊び真っ盛りの大学時代にでも、一年間をかけて野上弥生子の随筆を精読していたことは、まだ忘れられません。
氏が明治女学院に入った前に、若くして絵に興味を持ったことは、心の底に静かに沈んでいるようです。
野上弥生子を紹介してくださった恩師のことも、懐かしく思いました。
7月の奈良で先生に会った時、勉強しろと言われた言葉も、また昨日のように思い浮かびます。
この空間とは、もっともっと、野上弥生子の文章を触れてみたいと思わせた再会です。
二年前にここに来て、まだ茶の道へ進むと決まらなかった自分と照らし合わせて、恥ずかしくも嬉しい成長の軌跡が見えてきました。
本館に入りました。
二階の展示室では、有島武郎と川端康成の直筆書簡が見られるほか、特に興味深く感じたのは、70代の野上弥生子と40代の大江健三郎の対談が載せていた朝日新聞の記事でした。
茶に集中して、現代文学に遠ざかっていく一方ですが、貴重な資料を目に触れられることだけで、久々の文芸三昧でも満足な時間でした。