この問題、YouTube動画はすでにアップしていて、本日夜、2回目もアップ予定である。だけど、高齢者の多いわがブログ読者のなかには、YouTube動画に慣れていない人もいるだろうから、後追いになるが論じておこう。

 

 さて、「赤旗」(12.1)に掲載された土方氏の文書「除名処分された人物による党大会かく乱策動について」であるが、当初、「論文」と呼んでいたのだけれど、「違うだろう」という声が多かった。確かに、「大辞林」を見ると、論文はこう定義されている。

 

① ある事物について理論的な筋道を立てて説かれた文章。

② 学術的な研究成果を理論的に述べた文章。

 

 どちらでもないので、「文書」と呼ばせてもらう。共産党が「51年綱領」を「51年文書」と呼ぶようになったこととも関係するので、ちょうど良かろう。土方氏自身、これを「論文」と言われると、「いやいや」と恥ずかしがると思うし。

 

 この文書、全文を読んでもらうことがいちばんの反論になるという、きわめて貴重なものである。だから私は先日のブログで全文をそのまま紹介した。

 

 逆に、党と「赤旗」にとっては、なるべく読んでほしくない文書のようである。だって、党のHPで「土方」で検索しても何も出てこない。大々的に発表することで党大会前に党員の引き締めをやりたいが、一方、こういうことをやっていることを国民に知られると党勢拡大に悪影響が出るとして、そのジレンマでがんじがらめになっているのがよく分かる対応だ。

 

 内容の問題に入る前に一つ。この文書は論文の資格である「理論的な筋道」という要件を満たしていない。その問題について、まず言及しておく。

 

 不破さんがよく言っていたことだが、理論的な批判というのは、相手の論理の全体をよく飲み込んで、その論理の筋道にそって批判をするものである。他方、政治的な批判というのは、必ずしも相手の論理とかみ合っている必要はなく、何が相手に打撃を与えることになるかを最優先にして、自分なりの論理を組立てればいいというものであった。

 

 その点では、土方氏は、「政治的な批判」を狙ったのだろう。私の7月10日付のブログ記事「党大会代議員予定候補者が結集!?」を取り上げたのだが、その論理にはいっさい踏み込まず、「松竹氏は“自分の本心を隠して党大会代議員になり、大会の場で公然と批判せよ”という工作を行っている」と問題にしている。

 

 私は「本心を隠して」などとどこでも言っていないのだが、いつの間にか“”の間が私の言葉であるかのように引用しているわけだ。まあ、「」で括っていないのは、良心のかけらが残っているというか、裁判で争点になったとき、「あれは引用ではない」という言い訳をしたいからなのだろうけれど。

 

 しかし、「本心を隠して」と私が言っているように見せかけるため(そう私が言っているとすれば政治的に打撃を与えられると思ったのだろう)、私が実際に書いた言葉も引用している。けれども、それが小細工というか卑劣というか、政治的な批判をしようとしたが、批判の資格がないことのあらわれでもある。

 

 まず、土方文書における私の記事の引用を紹介する。その下の段にあるのが正確な記事の内容である。

 

「現在の党指導部の方針に反対していたとしても、必ずしも明確に反対すると言わないやり方もある」

 

「現在の党指導部の方針に反対していたとしても、当時の宮本氏のように、必ずしも明確に反対すると言わないやり方もある。そして、必要な時と場所で、堂々と態度を明確にすればいいということです。宮本氏のやり方に倣って。」

 

 そう。「当時の宮本氏のように」という言葉など、宮本顕治氏の行動を紹介したブログ記事であることが意図的に削除されているのである。普通、論文を書くに際して引用する場合、削除した箇所は明示する。「……」などとするのである。ところが土方さんは、削除したことすら知らせないようにしている(だから論文の資格はないわけだが)。そこに、この文書の問題は象徴的にあらわれている。(続)