本日から、「『赤旗』をどう改革するのか」の結論編、4回連載の開始予定でしたが、明日からにします。いえ、書く内容に困っているのではなく、本日、どうしても書いておきたいことがあるので。

 

 昨日、お知らせしていましたように、神戸で「松竹伸幸さんとの対話集会──なぜそれほど共産党を愛しているのか!?」が開かれました。「対話集会」と銘打ちながら対話にならなかった集会のことも話題になっていたので、「真の」対話集会にすべく関係者が努力してくださいました。

 

 うれしかったのは、終了後、何人もが私のところにやってきて、「僕は来年1月の党大会代議員になりたいと思っています」「私もです。除名の再審査をくつがえしましょう」と言ってくださったことです。びっくりです。

 

 一方、その問題を党内でつよく主張すると、反発されて代議員に選ばれないかもしれない。そんな不安な気持ちもお伺いしました。そうでしょうね。そこがいちばん難しいところです。

 

 でも、まず、私の再審査にどういう態度をとるかは、大会の場で決めればいいと思うのです。党大会で、私の弁明を聞いたり、再審査請求書を読んだり、同時にそれに対する党指導部の反論を聞いたりして、その上で代議員一人ひとりが判断すべき問題です。代議員をえらぶ時点で踏み絵にしていい問題ではない。そんなやり方は規約上の最高機関である大会での議論を軽視することであり、規約を貶めることです。

 

 それに、50年問題の際の宮本顕治氏の態度は参考になります。あの時、コミンフォルムの論評をめぐって、党は徳田球一らの主流派(所感派)と宮本顕治らの国際派に分裂し、宮本は九州地方委員会に左遷されます。そして主流派が4全協(51年2月)で軍事方針を決めるわけです。

 

 しかしその後、コミンフォルムが主流派の軍事方針を支持し、国際派を「分派」として批判します(51年8月)。それを受けて、宮本氏を中心とする国際派は総崩れになり、自己批判して主流派に結集する状況がつくりだされます。

 

 そして、5全協(51年10月)で、武装闘争方針を明確にした51年綱領が採択されることになります。宮本氏は、復帰したとはいえもう指導者ではなく、心の中で51年綱領をどう評価していたかはうかがい知れませんが、少なくとも51年綱領に反対したという事実は証拠として残されていません。

 

 けれども、55年になって主流派の中心にいた徳田球一の死亡が公表され、旧所感派の志田重男と旧国際派の宮本氏が中心になって党の団結を固める道に踏みだしていく。最終的に51年綱領を否定し、61年綱領をつくりあげていくわけです。

 

 つまり、現在の党指導部の方針に反対していたとしても、当時の宮本氏のように、必ずしも明確に反対すると言わないやり方もある。そして、必要な時と場所で、堂々と態度を明確にすればいいということです。宮本氏のやり方に倣って。

 

 兵庫県で数名ということは、全国で100名は超えるかも。いまから楽しみです。