副題: 商業振興・通貨(1)


モンゴル政権は商業を盛んにするべく様々な努力をした形跡がある。

すでに述べたように陸上・水上の交通網整備に力を入れた。

南宋を倒してからは、華中・華南の海港都市を手に入れ、海上交通へのアクセスも得た。貿易は盛んになった。

ムスリムの進出は著しかった。陸路からはイラン系の者たちが大勢東にやってきた。海路からはアラビア系の者がやってきた。モンゴル政権の官僚機構には彼らムスリムが多数抱え込まれた。

彼らムスリムを中心に、旧ウイグル遺民、漢人たちを仲間に引き込んだ「オルトク」と呼ばれた民間企業組織が多数活動した。商業活動は陸上海上を問わず盛んになった。

クビライ治下の元朝支配地域のみならず、西方のトルキスタン・イラン高原・アナトリア高原・メソポタミア・ヨーロッパロシアまで商業活動網が連続した。後の時代、西方のモンゴル諸政権と元朝との交流が安定してくるが、その時代になると特に盛んになった。

こうした経済活動を支える通貨制度において、モンゴル政権は当時としては先進的だった。

FT.com が中国欄を新設した。

というわけで、これからより詳しく調べられる。

ちなみに、1月8日(日)テレビ東京「日高義樹のワシントン・レポート」では、Henry Kissinger が今年中のCNY切り上げを予想していた。

副題:南宋攻略作戦(2)

籠城していた南宋軍をモンゴル軍は自軍に組み入れた。クビライ太っ腹だった。

① 籠城軍の指揮官に漢水流域(湖北省・河南省南西部)の軍事指揮権を与えた。

② 籠城軍をまるごとクビライ直属の親衛部隊(侍衛親軍)に配属した。

昨日までの敵にものすごい厚遇を与えた。これは次の効果を生んだ。

(a) 旧南宋側籠城軍をモンゴル側になびかせることに成功した。南宋側は一度援軍を差し向けたが、それが失敗に終わった後は籠城軍を事実上見捨てていたことが背景にある。

(b) 籠城軍の指揮官、呂文煥を中心に、南宋側に対して諜報工作を仕掛けることができるようになった。

(c) 南宋は事実上軍閥が割拠した上に乗っかった政権だったが、クビライの籠城軍に与えた厚遇が知れ渡るにつれ、(b)の内通工作が効果を発揮し、諸軍閥がモンゴル側に降伏するようになった。

これ以後ほとんど戦闘らしい戦闘無しにモンゴル軍は長江を下った。3年後の1276年、南宋政府は降伏し、首都「臨安」(註)を無血開城した。

その後3年ほどの間に南宋の残党を制圧し、モンゴル政権は華中・華南を手中に収めた。

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註: 現在の杭州市。地図でいうと、上海市の左下にある。

副題:南宋攻略作戦(1)

今回からしばらく副題をつける。

クビライは1268年、南宋攻略作戦を開始した。

騎馬部隊はごく少数とし、華北のシナ社会出身者を中心に部隊を編成し、漢水中流域の襄陽地区(現在の河南省南西部~湖北省北部)を攻撃した。

南宋側も襄陽都市内に大部隊を置いて備えていた。

モンゴル側は都市を取り囲む土塁・濠・見張り用櫓などを建設した。大土木工事だった。

この土木工事を支えるため、(現河南省の)開封を起点とする兵站ルートも設置された。

南宋側は完全に囲まれてしまった。

3年後の1271年、南宋側は事態を打開するため大水軍を派遣した。しかし、事前に漢水沿いに陣地を設置し水軍も用意していたモンゴル側にはじき返されてしまった。

1273年、モンゴル側はさらに新兵器「マンジャニーク」(註)を投入した。大きな石を飛ばすカタパルトのような機械だ。空から降ってくる石が籠城する宋軍を諦めさせた。

籠城する南宋軍はモンゴル軍に降伏した。

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註: この語はペルシャ語だそうだが、英語の"machine"と同語源らしい。

中国国内に所在する銀行に限定されているとはいえ、相対取引が導入されると、一つ疑問がでてくる。

「1日あたり±0.3%以内に為替レートの変動幅を限定する」という、昨年7月21日中国人民銀行が発表した方針を今後も維持できるかどうかだ。理論上は限定できなくなってしまうはずだからだ。

もちろん、中国共産党・財務部(※)・中国人民銀行などの監視を受けることになるから、相対取引する銀行も自発的に注意するだろうとは思う。

そこで、中国人民銀行のウェブサイトを見てみた。

(1) 外貨取引センターでの仲値に対して±0.3%という制限は変わらない

(2) 相対取引における、USD/CNYレート仲値の制限値幅は±1%

(3) 相対取引における、対顧客 bid/ask spread は4%(mattの読む限り、±4%)

(4) この改革は、為替レートの変動を大幅なものにしないためのもの

こう書かれている。

mattの注目点は、

(a) 市中銀行(とその客)が投機に走るかどうか

(b) 市中銀行(とその客)が通貨投機するとして、投機を抑えこめるのかどうか

この2つだ。

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※ 日本語風に表現すると「財務省」。

NIKKEI NET 1月3日記事
http://www.nikkei.co.jp/news/main/20060103STXKC018403012006.html

中国でも「インターバンク市場」ができるとのこと。これまでは事実上の「取引所における取引」だったが、ようやく相対取引が国内で可能になった。

外資系銀行の参加が認められているのかどうかを知りたいところだ。

これがCNYの offshore 売買へ向けての、段階的な制度変更だと言い切れるか? 個人的にはそう見ているのだが...

安定した支配には、各地域の権力機構の整備も欠かせない。

クビライはモンゴル高原周辺の各地に遊牧集団を配置した。

・マンチュリア西部の興安嶺山脈
・内モンゴルの黄河に沿った陰山山脈
・甘粛省の南部に沿う祇連山

等々、遊牧騎馬集団の族長・有力者が率いる地方政権が置かれた。

彼らはクビライのやり方にならって、夏営地・冬営地に小型の都市を築き、季節移動した。(註1)

クビライはまた、自らの息子たちを「副王」として起用した。現在の北京周辺や西安周辺など、華北要地の統治を任された。

ある者はモンゴル高原中央部の騎馬民集団の長となった(註2)。

ある者はチベット高原の北東端を、またある者は雲貴高原を任された。

上述した、クビライの息子たちや遊牧集団の長たちは、行政の具体的な部分には携わらなかった。行政機構は別に整備されたが、その上から軍事的に睨みを効かせる存在となった。

純粋「モンゴル」、すなわち「騎馬民モンゴル」たちは軍事および政治的意志決定を担当していたと言える。

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註1: 現在参照している文献にはこういう書き方はしていないが、mattはこのやり方を「騎馬部隊をクビライが掌握し続けるため」に行ったのだと考えている。

モンゴル政権以前の騎馬民諸政権は、契丹を例外として、騎馬民こぞって華北の農耕地帯に移り住むことが多かった。歴史を概観すると、それは長期的には騎馬戦力の弱体化を招いている。

上述の興安嶺・陰山・祇連山はいずれも草原地帯でありながら農耕地帯に隣接する山脈だ。「草原の豊富で夏でも気温の低い山地を夏営地とし、冬になると山を降りて農耕地帯に入り込む」という生活を送るのが、遊牧民のライフスタイルを維持しつつ農耕社会に権力を行使することができる「生活形態」だった、と考えている。

註2: 抜け目無く、最良の遊牧地を自分の息子に押さえさせ、騎馬部隊を掌握している。

海への出入り口よりも前から、陸上交通網も整備されてきていた。もとから存在する街道・通り道に沿って、「ジャムチ」と呼ばれる駅伝制度が設置され、中央政府との情報伝達を改善した。(註1)

当然内陸ユーラシアとの連絡も活発になった。単に連絡をとるだけでなく、中央アジアからの文化導入・移住もあった。

大都には、ヒンドゥー・ティベット系の建築物もしばしば見られたらしい。

海陸の交通網整備といい、文化導入といい、当時の知識人を集めて行われたものだ。「知識人」もユーラシアの広い地域から招聘した者たちだった。

別にシナ農耕社会の人々をとりたてて差別したわけではなかった。それどころか積極的に登用している。漢人で登用された者の中には「モンゴル」の範疇に含められた者もいた。

例えば、大都と海をつなぐ運河工事は、郭守敬という漢人が登用された。大都と天津(直沽)を結ぶ運河工事は難工事だった。

現在北京の東郊に「通州」という都市がある。運河はこの都市を経由している。大都-通州間は37mの高低差があり、十箇所の閘門(水門)があった。(註2)

漢人社会の工学的知識の持ち主を迷わず登用したわけだ。ちなみに郭守敬は天体観測にも動員されている。

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註1: 駅伝制度は「遼」朝=キタン政権に始まったらしい。

註2: 運河を水門で堰きとめ、その周りに半円形の水路を作ったもの。

クビライが建設させた「首都圏」には大きな特徴があった。海への出入り口が作られた。

現在でも天津から北京へと河川をさかのぼることができる。この河川は北京市内に入ると「中南海」、「北海公園」という2つの有名な場所につながる。

実はこの2箇所、クビライの都市計画が出発点になっている。

クビライは大都市内に港を作った。その痕跡が中南海・北海公園(註1)として残っている。

大きく見るとこういう工事をしたわけだ。

① 北京の北西部から流れ出ている川を大都(北京)まで引き込む。

② 大都市内の港湾機能を持つ池につなぐ。

③ さらにそれを天津へと流れる川へと下流側でつなぐ。

④ 天津には海港(直沽)を置く。

こうして、遊牧民政権モンゴルは、海への道を得た。

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(投稿後に一部書き直した)

註1: 今日の、「故宮・中南海~景山公園~北海公園」近辺が、この「池」近辺に相当する。もともと金の首都「中都」の北東にあったこの地はクビライたちの越冬放牧地になっていたらしい。その場所が現在の景山公園~故宮付近に相当する。この地に皇宮を建設するとともにその周囲に緑地帯をわざわざ設定し、そこを遊牧民政権の越冬地とした。

こういうことを見ると、モンゴルが「農耕地帯に進出する遊牧民政権」としてかなり高い完成度に達していると考えざるを得ない。「季節によって移牧し、草地にテントを張る」遊牧民のライフスタイルを、君主一族にいたるまで農耕地帯の中でも維持し続けたわけだ。

遊牧民のライフスタイルを守ることになぜこだわったのか? モンゴル政権について書き終わる段階でひとまずの総括をしようと思っているので、そのとき書こうと思う。一つの理由としては、軍事力 - 騎馬部隊を把握することが挙げられると思う。

註2: 首都圏整備がすぐに終わったわけではない。1260年頃から三十年ほどかかっている。