海への出入り口よりも前から、陸上交通網も整備されてきていた。もとから存在する街道・通り道に沿って、「ジャムチ」と呼ばれる駅伝制度が設置され、中央政府との情報伝達を改善した。(註1)

当然内陸ユーラシアとの連絡も活発になった。単に連絡をとるだけでなく、中央アジアからの文化導入・移住もあった。

大都には、ヒンドゥー・ティベット系の建築物もしばしば見られたらしい。

海陸の交通網整備といい、文化導入といい、当時の知識人を集めて行われたものだ。「知識人」もユーラシアの広い地域から招聘した者たちだった。

別にシナ農耕社会の人々をとりたてて差別したわけではなかった。それどころか積極的に登用している。漢人で登用された者の中には「モンゴル」の範疇に含められた者もいた。

例えば、大都と海をつなぐ運河工事は、郭守敬という漢人が登用された。大都と天津(直沽)を結ぶ運河工事は難工事だった。

現在北京の東郊に「通州」という都市がある。運河はこの都市を経由している。大都-通州間は37mの高低差があり、十箇所の閘門(水門)があった。(註2)

漢人社会の工学的知識の持ち主を迷わず登用したわけだ。ちなみに郭守敬は天体観測にも動員されている。

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註1: 駅伝制度は「遼」朝=キタン政権に始まったらしい。

註2: 運河を水門で堰きとめ、その周りに半円形の水路を作ったもの。