もやし屋の私はとうぜんですが、ほぼ毎日もやしを触っています。
発芽したばかりのもやしの熱を測るときや、収穫した時の張りを確かめるために触ります。
2日前、深谷もやしを作るときに触ったもやしに違和感がありました。
「少し水っぽいかもしれない…」
ムロ(栽培室)の室温は変わらず24~26度。遣り水の温度も17.5度で同じです。しかし育つもやしがやや水っぽいとなると答えは一つです。「ムロの湿度が上がってる」ということです。一応ムロには簡単な湿度計がありますが、年間通じて大体60~70%ほどで大きな変化はありません。それでも不思議なことにもやしは変化するわけです。
私どものムロにはエアコンなどという高尚な設備はありません。じゃあどうすればもやしの水っぽさを減らすことが出来ると思いますか?それは…
「水遣りの回数を減らす」
ことです。昨年の11月に一日5回の水遣りを、2日前から4回にしました。そしてさきほど触ったもやしは早くも効果が出ていてパリッとしていました。これが深谷のもやし屋のもやし作りです。
一方20年ほど前から、国内もやし用機械メーカーがもやし栽培のデータ化に力をいれ、そして開発されたのが「もやし栽培装置」です。この普及により最近はいちいち触らずとも安定してもやしが作れるようになりました。日量何十トン以上の大量生産が対応できる大手もやし屋さんを中心に導入が進み、今はモニターが映し出す数値だけを見て、あとは各装置のチェックを怠らないことがもやし屋の仕事になっています。
現在、私のようにもやしを触って、もやしの状態を見てから環境を動かすような作り手はもうごく僅かになっていることでしょう。確かに機械が人の代わりにもやしを見てくれれば、より一層の効率化、品質の安定が図られ、たとえ初期設備投資が莫大でも大量のもやしを捌ける販路が確保できれば、正しい経営手法といえましょう。
ただ食の多様ゆえ、と申しましょうか私のような触って育てる旧い栽培法も良い部分はあるようで、ここ最近各方面で高い評価を受けているだけでなく、昨年NHKの「うまいッ」という番組で郡山大学で成分を調べた時は、同じ原料のブラックマッペを育てた私どものもやしと他社のそれと比べて、
・・・・・・・・
「まあそうだろうな」
と納得です。それはこれまで自分の信じてきたことの再確認でしかありませんでした。
この値の違いは、使っている原料は同じ、もやしに肥料はいらないので、そうなると水か育て方によるものでしょう。私が言いたいのは「ウチのもやしは栄養満点だぞ」と自慢したいのではありません。たとえ原料である種子は同じ畑の作物であっても、
その栽培地の風土や作り手の感性の影響により、すべてのもやしは同じではない、それこそがもやしの「身の丈」、
ということなのです。そしてこれはもやしだけでなく他の農作物にも通じる気がします。自分の生産物を売って生活の糧にしている生産者、それも利益優先に囚われず常に食べる人のことを考えつつ自分の納得する作物を送り出す、そのかなり難しい道を進む生産者ならば感じる感覚であると断言します。
どれもが違う、違うのが当たり前であることが作物の身の丈
その当たり前に気づいている人は実はとても少ない、というのが私の感じていることですし、この当たり前を尊重せず「どれも同じにしなけならない」というのは生命の蔑視であるような気がするのです。
私が常日頃、食にもっとも近い生産者の言葉が一番強く、その言葉を基準にしなければならないと言っているのは、生産者は食の「身の丈」を感性で気づいているからなのです。
これも当たり前ですが、この世で人間だけになったら私達は生きてはいけません。植物や他の動物との共存できなければ私達も存在はできないのです。食の尊重とはズバリ「身の丈」を認めることであり、それを突き詰めれば「命への敬意」になると思います。
食の身の丈を認めないのは、命の蔑視とも言えないでしょうか。
もう一つ言わせてください。私どものもやし栽培室(ムロ)には沢山の人が見学に訪れます。私は見学者をそのまま入れてしまいます。これは大手量販店や、コンビニの品質管理担当者から見ればとんでもないことでしょう。時には「え?このままでいいんですか?」と驚く方もいます。私は
「別に人が土足で入ったって、触ったって、もやしはダメになりませんよ」
と答えます。さらに「もやしも人と一緒の世界に住んでますから」と付け加えます。見学者の中には「このムロの中は心地よい」と言う人もたくさんいます。それも当たり前で
「もやしが元気に育つ部屋が、同じ世界に居る人にとって居づらいはずはない」
のです。
いろんなことを取り留めのないほど述べてきましたが、これらはずっと数値ではなく感性でもやしを育ててきた私が気づいたことです。そして肩書きの立派な人が何を言おうが、これは生産者として気づいた正しさであると信じています。
発芽したばかりのもやしの熱を測るときや、収穫した時の張りを確かめるために触ります。
2日前、深谷もやしを作るときに触ったもやしに違和感がありました。
「少し水っぽいかもしれない…」
ムロ(栽培室)の室温は変わらず24~26度。遣り水の温度も17.5度で同じです。しかし育つもやしがやや水っぽいとなると答えは一つです。「ムロの湿度が上がってる」ということです。一応ムロには簡単な湿度計がありますが、年間通じて大体60~70%ほどで大きな変化はありません。それでも不思議なことにもやしは変化するわけです。
私どものムロにはエアコンなどという高尚な設備はありません。じゃあどうすればもやしの水っぽさを減らすことが出来ると思いますか?それは…
「水遣りの回数を減らす」
ことです。昨年の11月に一日5回の水遣りを、2日前から4回にしました。そしてさきほど触ったもやしは早くも効果が出ていてパリッとしていました。これが深谷のもやし屋のもやし作りです。
一方20年ほど前から、国内もやし用機械メーカーがもやし栽培のデータ化に力をいれ、そして開発されたのが「もやし栽培装置」です。この普及により最近はいちいち触らずとも安定してもやしが作れるようになりました。日量何十トン以上の大量生産が対応できる大手もやし屋さんを中心に導入が進み、今はモニターが映し出す数値だけを見て、あとは各装置のチェックを怠らないことがもやし屋の仕事になっています。
現在、私のようにもやしを触って、もやしの状態を見てから環境を動かすような作り手はもうごく僅かになっていることでしょう。確かに機械が人の代わりにもやしを見てくれれば、より一層の効率化、品質の安定が図られ、たとえ初期設備投資が莫大でも大量のもやしを捌ける販路が確保できれば、正しい経営手法といえましょう。
ただ食の多様ゆえ、と申しましょうか私のような触って育てる旧い栽培法も良い部分はあるようで、ここ最近各方面で高い評価を受けているだけでなく、昨年NHKの「うまいッ」という番組で郡山大学で成分を調べた時は、同じ原料のブラックマッペを育てた私どものもやしと他社のそれと比べて、
・・・・・・・・
総アミノ酸 グルタミン酸 糖度 アルギニン ギャバ 分枝鎖アミノ酸
他社 100 100 100 100 100 100
深谷もやし 158 254 118 124 833 185
・・・・・・・
「まあそうだろうな」
と納得です。それはこれまで自分の信じてきたことの再確認でしかありませんでした。
この値の違いは、使っている原料は同じ、もやしに肥料はいらないので、そうなると水か育て方によるものでしょう。私が言いたいのは「ウチのもやしは栄養満点だぞ」と自慢したいのではありません。たとえ原料である種子は同じ畑の作物であっても、
その栽培地の風土や作り手の感性の影響により、すべてのもやしは同じではない、それこそがもやしの「身の丈」、
ということなのです。そしてこれはもやしだけでなく他の農作物にも通じる気がします。自分の生産物を売って生活の糧にしている生産者、それも利益優先に囚われず常に食べる人のことを考えつつ自分の納得する作物を送り出す、そのかなり難しい道を進む生産者ならば感じる感覚であると断言します。
どれもが違う、違うのが当たり前であることが作物の身の丈
その当たり前に気づいている人は実はとても少ない、というのが私の感じていることですし、この当たり前を尊重せず「どれも同じにしなけならない」というのは生命の蔑視であるような気がするのです。
私が常日頃、食にもっとも近い生産者の言葉が一番強く、その言葉を基準にしなければならないと言っているのは、生産者は食の「身の丈」を感性で気づいているからなのです。
これも当たり前ですが、この世で人間だけになったら私達は生きてはいけません。植物や他の動物との共存できなければ私達も存在はできないのです。食の尊重とはズバリ「身の丈」を認めることであり、それを突き詰めれば「命への敬意」になると思います。
食の身の丈を認めないのは、命の蔑視とも言えないでしょうか。
もう一つ言わせてください。私どものもやし栽培室(ムロ)には沢山の人が見学に訪れます。私は見学者をそのまま入れてしまいます。これは大手量販店や、コンビニの品質管理担当者から見ればとんでもないことでしょう。時には「え?このままでいいんですか?」と驚く方もいます。私は
「別に人が土足で入ったって、触ったって、もやしはダメになりませんよ」
と答えます。さらに「もやしも人と一緒の世界に住んでますから」と付け加えます。見学者の中には「このムロの中は心地よい」と言う人もたくさんいます。それも当たり前で
「もやしが元気に育つ部屋が、同じ世界に居る人にとって居づらいはずはない」
のです。
いろんなことを取り留めのないほど述べてきましたが、これらはずっと数値ではなく感性でもやしを育ててきた私が気づいたことです。そして肩書きの立派な人が何を言おうが、これは生産者として気づいた正しさであると信じています。