私が代表を務める「風土飲食研究会」では、月1回の食の講座「食がたり」を開催しています。会場は深谷市内にある大人の学び場ともいえる「寺小屋」です。

 「食がたり」とは、実際にその食を生産している、長年普及活動に携わってきている、そういった最前線で逆風にも関わらず闘っている方による食の語りです。その語りには、
食の性質…本来の味、鮮度、日持ちもしくは日数の経過による味の変化等だけでなく、「身の丈を守った食を売ることの難しさ」も含まれます。
いわゆる上辺・建前・キレイ事ではない生きた食の情報であり、今私たちに必要なのはそういった生きた食語りの理解であるとして、私たち風土飲食研究会はこの企画「食がたり」を立ち上げたのです。

第1回は、現在の食用油の実態と、熊谷市妻沼で進行している純妻沼産オリーブオイルの希望を、妻沼オリーブ生産者が語る

「油語り」

は大きな反響を呼びました。

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そして第2回は、

10月12日(土)13:00~14:30

『もやし語り』~深谷のもやし屋が目指す「もやし革命」~

です。

もちろん私、深谷のもやし屋、飯塚商店代表取締役 飯塚が語ります。

…低価格食品の代表格ともいえる「もやし」。テレビの情報番組で「節約レシピ」の特集があると必ず食材のひとつに入る安い野菜のもやし…
しかしこれだけ一般化された食品ながらも、

「安さ」

「シャキシャキ感」

のほかにもやしを形容する言葉がありません。もやしに対する言葉がない…それはもやしが知られていないことにほかなりません。

 「もやしが知られていないこと」が、私を含む現在のもやし業界の悲劇に繋がっています。

 しかしその悲劇を時代のせいにするのは間違っています。

「知られていない」=(私たちが)「語っていなかった」のですから。

 今回深谷で初めて、そして唯一のもやし生産業である飯塚商店が「ありのままのもやし」の魅力を伝えます。そしておそらく全国でも「ありのままのもやし」が語れるもやし生産者は私だけであると思います。

 「もやし語り」では、もやしについて実際に試食をしながら「品種による味や香りの違い」を確かめていただきます。そしてご自宅でも簡単にもやしが作れるコツもお話します。そこから売っているもやしと、自分でつくったものとの違いにまで言及します。そのままもやし屋から見たもやし業界のこれまでの流れを話します…

 量販店の進出と共に成長を続けたもやし産業、しかし現在は飽和した市場が生み出す行き過ぎた低価格競争が常態化し、中小のもやし会社の廃業、倒産が相次いでいます。その濁流に飲み込まれ、あちこちでもやしを否定されてきた深谷のもやし屋も倒産寸前にまで追い込まれています。

 そのような逆境の中、潤沢な資金もなく、ありとあらゆる手段を講じて「もやしを伝えること」に専念したことで、結果的に全国的に注目をされ、新たな支持者・協力者を増やし、さらにもやしの低価格の壁を現在突き破ろうとしています。戦後ここにきて初めて「もやしの生産者・味による真なるブランド」が構築されようとしています。

私はそれを「もやしのあるべき革命」と捉えています。

 さらに在来大豆もやしへの着手、農業者と共に歩む在来大豆普及活動、産学官連携事業との連携、そして風土飲食研究会の立ち上げ…その先にあるのは生活者だけでなく、身の丈のもやしを愛してきた「深谷のもやし屋」が安心して生きられる食社会…希望は広がります。
 
 もやしに関心ある方だけでなく、私同様、グローバル社会に同調できず、信念と生活の狭間で苦しんでいる個人事業者様にも是非聞いていただきたいもやし屋による「もやし語り」です。


(会場の寺小屋はこちらです)
 平成25年、9月9日、午前3時15分。

 とともに飯塚商店を創業、父を支えつつ不眠不休でもやしの世話をして、さらに三人の子供を育て上げた母、深谷のもやし屋、飯塚商店の基盤を作った母、飯塚衣子は入院先の病院で静かに息を引き取りました。享年84歳でありました。

 父が激しさと強さと信念の人であったなら、母は優しさと丁寧さを貫いた人でありました。

 水槽に浮かんでいるもやしを常に見て、浮かんでくる豆殻を網ですくって、変色したもやしがあれば指でつまみ出し、子供だった私に仕事を教えるときも、早く仕事を終わらせたいがため、乱暴にもやしを扱う私を見て

「もやしが傷むよ。もっと丁寧にやりな」

が口癖でした。ともかくもやしを丁寧に扱う母でした。

 昭和40年代から60年代にかけ、飯塚商店のもやしが売れに売れて、まさしく絶頂期の間でも母は一日も仕事を休むことなく早朝のもやしの仕込み、収穫・洗浄の現場で仕事の流れを監督しました。

 恐怖の対象であった(笑)父よりも、親しみやすく面倒見のよい母は沢山の学生バイトに「もやしやのおばちゃん」と慕われていました。

 14年前、大手顧客から取引の中止を言い渡されてから経営がみるみる悪化、心労で父が倒れ、事業を継いだ私もしばしば厳しい現実に打ちのめされたとき、

「大丈夫だよ。私たちも始めた頃は苦労の連続だった。『もやしさえよく出来てれば大丈夫』

「困ったときは何でもいいな。やれるかぎりのことは手伝うよ」

と、母は励ましてくれました。そういう母でした。

『もやしさえよく出来てれば大丈夫』…その母の言葉は、当時は単なる気休めとしか思えませんでした。しかし現在私が力をいれている「深谷もやし」は、まさしく母の思想そのものであり、それがメディアなどで取り上げられるほど高い評価を得られ、新たな価格に左右されない商売に繋がっていることを鑑みるに、やはり

「良いもやしを、優しく、丁寧に」

と、母が求めていたものがやはり正しかったのだと、今になって気づきました。

 父が遺した「強い信念」と母が求めた「良いもやしを優しく丁寧に」、それこそが飯塚商店の普遍の根幹であると、私は胸に強く刻みます。



(2009年 10月 父英夫 母衣子と共に。「もやしの絵本の原画展」にて撮影)

 「良い食を提供すること」と「食で利益を得ること」が必ずしも一致しない現実にしばしば頭を悩ませています。

 「あくまでも利益の追求」も企業の正しいあり方なのだろうと思います。しかし利益を追い求めるのは悪いことでないけれど、人の口に入り、人の健康を左右…命の糧たる食を提供するものが「あくまでも利益の追求」で動いたら危険極まりないと思うし、現に少し前には冷凍餃子で中毒が起き、ユッケを食べた人が死んでいます。

では食による利益とはなんだろうかと思います。

 「食」が読んで字のごとく人を良くするものということであるならば、それこそが食による利益、「食益」ではないでしょうか。

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 人にとって良い食とは何だ?と定義を追及する人もいるかもしれません。それは意外と単純なことのような気がします。私もきちんと自分の答えがあります。

むしろ、食の提供者(生産者)がそのような質問をするようでしたら、

「お前はそんなこともわからないで食を提供・生産しているのか?」

といち生産者として逆に問いただしてやりたいです。

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「利益がなくちゃやってられない」

と、いうのがビジネスで生きる人の一般的な台詞ならば食の提供者の一人、深谷のもやし屋は

「食益がないのならやる意味がない」

とでも言っておきます。食の提供者として利益とは食益のあとについてくるものであると信じて…。
 一昨日、取引先である量販店の青果部長様とバイヤー様が商談にお見えになりました。

 商談といってもそれは実質的な「最終的な値下げ交渉」でありました。先月から続いている案件でしたが、お互いの主張は変わらず平行線のまま、そして私のほうから

「もう無理せずに私どものより安いモヤシを使ってください」

とお願いをし、そして部長様が、

「ではこれで取引の終わりと言うことで…」

とおっしゃり、この量販店創業以来、30年以上に渡る取引にピリオドが打たれました。

 どちらの言い分もこの時代においては正しいと思います。ただ私としては交渉の間、量販店様からは一度たりとも現在扱っている私どもの「もやしの評価」について言及されなかったことに違和感が残りました。量販店にとって話の中心にあるのは「飯塚商店のもやし」でなく、単なる「モヤシ」であったかのようでした。

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 80年代半ば、当時もやし業界に新風を巻き起こした高付加価値を持った「緑豆太もやし」を私が購入して、軽く炒めて両親に食べさせたことがあります。いろんな意見が飛び交う中、当時社長であった父親の発した一言、

「これはウチじゃ作れない」

がいつまでも心に残っています。それは技術的な話でなく、ありのままのもやしの力強い成長、それを作り、食べていただく価値を知っているからこそ出てきた発言であったと思うのです。

 そして飯塚商店は一度たりとも緑豆太もやしの流れに乗ることなく、その後開発された第二の高付加価値もやし「根きりもやし」にも手をつけず、あくまでも昔ながらの考えでもやしを生産、販売していきました。…結局その判断が経営悪化の道を進むことになりましたが、それでもその時の意志を曲げることなく、ここまで己の信じるものを貫き通してきました。

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「もやしをすぐ捨てるんじゃねぇ!」

 ある日の深夜のもやしの収穫、洗浄作業の中、雷のように父が怒鳴りました。もやしの場合、1週間後の注文量を予測して見込みで原料を仕込むわけですが、欠品となるとお客様に迷惑をかけますのでどうしても多めに仕込むことになります。で、様々な原因で時にはもやしが出来すぎてしまう大半は破棄されるわけですが、そんな時に父が怒ったのです。

 第2次大戦中、日本軍の無謀さにより多くの病死者、餓死者を生んだ地獄の「インパール作戦」の生き残りである父にとって、自分の命を繋いだ食べ物を粗末にするのがどれほど愚かしいことなのか、理屈ぬきで許しがたいことであったのでしょう。父は食べ物の専門家ではありませんが、食べ物に対する敬意は非常に強い人でありました。

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「もやしが折れちゃうよ!もっと丁寧にやりな!!」

小学生の時から私は、人手が足らない時は作業場に呼ばれてもやしの仕事を手伝うことになりました。現場監督の母は、私が早く仕事を済ませようとしてもやしを乱暴に握り袋に突っ込む動作をみて、しばしばこういって私を叱りつけたものです。その頃の私はただ母の丁寧さを過剰と思い、面倒くさがり、叱られても不貞腐れていました。

・・・そして今自分が「深谷もやし」を作る立場になって

「沢山」「早く」「効率」

よりも、

「丁寧」

を望んだ母は正しかったと、実感をしています。
現在の激しいもやしの低価格競争のなか、販路拡大が進んでいるのは丁寧に仕上げた「深谷もやし」だけなのですから。

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量販店に対して方向性が違えば、こちらから取引をお断りをする。

 父と母の食への思いを強く受け継いだ「深谷のもやし屋」にとっては当たり前の成り行きでありました。
円安による輸入原材料の値上がり、電気料金の値上がる中、それでもなお低価格販売の呪縛に囚われているもやし業界は厳しい状況にあります。

そんな中、さきほど取引先量販店のバイヤーから電話がありました。

「Sさん(同じ県内のもやし会社)がずいぶん良い価格を持ってきました。これを機会に飯塚さんやNさん(栃木のもやし会社)のも含めて『もやし価格の見直しをはかりたい』。新しい見積もりを出してください」

…といった内容でした。このスーパーでは緑豆太もやしを常時19円、競争の激しい店舗では9円で販売しています。今回はおそらくは緑豆に比べ比較的高く取引されているブラックマッペもやしの価格の見直しでしょう。

埼玉を中心に関東圏に80店舗近くある郊外型量販店であるこのスーパー、ブラックマッペにしても日量1~2トンは見込めそうです。生産量をこれ以上落としたくない中~大規模もやし生産会社にとっては、なんとしても獲得したい、もしくは確保しておきたい販路でありましょう。ですからバイヤーから上記のような提案を持ちかけられれば、もやしを取り巻く現状がどうあれ、もやし会社は

『間違いなく値下げ』

をします。これでとうとうブラックマッペも熾烈な低価格競争に突入かもしれません。

私もある程度の出荷量を保証してくれる条件ならば、創業時より取引のある本社も近いスーパーですから多少の値下げには応じた価格を提示しますが、飯塚商店のような零細もやし屋が一日に何十トンも生産する規模の大きいもやし屋さんには価格の面で敵うはずはありませんから、この話が来た時点で半分諦めています(笑)。この店にたくさん売りたいもやし屋さんはどんどん下げちゃってください、という気持です

これまでも同じような手法で、どんどんもやしの末端価格は下げられてきたのでしょう。30年前までは物価の上昇に合わせて小袋38~48円で売られていたもやし。それが9円とか19円が当たり前になること、実は消費者が望んだものではありません。売る側に都合よく利用されているだけの結果でしかないのです。安くしたからといってその分だけお客さんは沢山食べはしないのです。

この手法でブラックマッペが叩かれれば、次はなにがくるでしょうか。大豆もやしでしょうか。案外注目されているカット野菜あたりが狙われる気もします。

私のブログは各方面に読まれていると聞いてます。このスーパー関係者も読むかもしれませんが、まあ無理をせず一番安いもやしを扱ってください、と言うだけです。