一昨日、取引先である量販店の青果部長様とバイヤー様が商談にお見えになりました。

 商談といってもそれは実質的な「最終的な値下げ交渉」でありました。先月から続いている案件でしたが、お互いの主張は変わらず平行線のまま、そして私のほうから

「もう無理せずに私どものより安いモヤシを使ってください」

とお願いをし、そして部長様が、

「ではこれで取引の終わりと言うことで…」

とおっしゃり、この量販店創業以来、30年以上に渡る取引にピリオドが打たれました。

 どちらの言い分もこの時代においては正しいと思います。ただ私としては交渉の間、量販店様からは一度たりとも現在扱っている私どもの「もやしの評価」について言及されなかったことに違和感が残りました。量販店にとって話の中心にあるのは「飯塚商店のもやし」でなく、単なる「モヤシ」であったかのようでした。

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 80年代半ば、当時もやし業界に新風を巻き起こした高付加価値を持った「緑豆太もやし」を私が購入して、軽く炒めて両親に食べさせたことがあります。いろんな意見が飛び交う中、当時社長であった父親の発した一言、

「これはウチじゃ作れない」

がいつまでも心に残っています。それは技術的な話でなく、ありのままのもやしの力強い成長、それを作り、食べていただく価値を知っているからこそ出てきた発言であったと思うのです。

 そして飯塚商店は一度たりとも緑豆太もやしの流れに乗ることなく、その後開発された第二の高付加価値もやし「根きりもやし」にも手をつけず、あくまでも昔ながらの考えでもやしを生産、販売していきました。…結局その判断が経営悪化の道を進むことになりましたが、それでもその時の意志を曲げることなく、ここまで己の信じるものを貫き通してきました。

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「もやしをすぐ捨てるんじゃねぇ!」

 ある日の深夜のもやしの収穫、洗浄作業の中、雷のように父が怒鳴りました。もやしの場合、1週間後の注文量を予測して見込みで原料を仕込むわけですが、欠品となるとお客様に迷惑をかけますのでどうしても多めに仕込むことになります。で、様々な原因で時にはもやしが出来すぎてしまう大半は破棄されるわけですが、そんな時に父が怒ったのです。

 第2次大戦中、日本軍の無謀さにより多くの病死者、餓死者を生んだ地獄の「インパール作戦」の生き残りである父にとって、自分の命を繋いだ食べ物を粗末にするのがどれほど愚かしいことなのか、理屈ぬきで許しがたいことであったのでしょう。父は食べ物の専門家ではありませんが、食べ物に対する敬意は非常に強い人でありました。

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「もやしが折れちゃうよ!もっと丁寧にやりな!!」

小学生の時から私は、人手が足らない時は作業場に呼ばれてもやしの仕事を手伝うことになりました。現場監督の母は、私が早く仕事を済ませようとしてもやしを乱暴に握り袋に突っ込む動作をみて、しばしばこういって私を叱りつけたものです。その頃の私はただ母の丁寧さを過剰と思い、面倒くさがり、叱られても不貞腐れていました。

・・・そして今自分が「深谷もやし」を作る立場になって

「沢山」「早く」「効率」

よりも、

「丁寧」

を望んだ母は正しかったと、実感をしています。
現在の激しいもやしの低価格競争のなか、販路拡大が進んでいるのは丁寧に仕上げた「深谷もやし」だけなのですから。

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量販店に対して方向性が違えば、こちらから取引をお断りをする。

 父と母の食への思いを強く受け継いだ「深谷のもやし屋」にとっては当たり前の成り行きでありました。