matsurinosatoのブログ

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NGO日本まつりの里は、全国47都道府県にそれぞれのNPO を置き、古来、主に神社と氏子によって受け継がれて来た、伝統文化「まつり」を求心力とする6次産業形式の地方振興事業連合です。

春の訪れとともに考える「まつり」と「遊び」の文化
令和7年4月24日


春風が心地よく頬を撫で、若葉が萌える季節となりました。桜の花びらが舞い散る中、小鳥たちのさえずりも一段と賑やかに聞こえる今日この頃です。日本まつりの里の松田和裕です。


最近はAIの進化やその活用法についての話題で持ちきりですが、今日はふと立ち止まり、私たちの暮らしに根づく「まつり」と「遊び」の文化について考えてみたいと思います。


日本の「まつり」とは、地域に根ざした伝統文化と自然崇拝、神への畏怖、歴史などが融合した独特の文化表現です。

神社に紐づけられることが多く、地域の文化伝統を次世代に継承するイニシエーションの役割も担っています。

五穀豊穣を祈る田植え祭り、疫病退散を願う夏祭り、収穫を祝う秋祭りなど、自然のリズムと共にあり、人々の祈りが形になったものです。


「遊び」について考えるとき、思い出されるのは鎌倉時代の歌謡集『梁塵秘抄』の一節です。

「遊びをせんとや生まれけむ、戯れせんとや生まれけん、遊ぶ子供の声聞けば、我が身さえこそ動がるれ」。
この歌は、子どもたちが遊ぶ様子を見て、自分も遊びたくなる心の動きを詠んだものです。まさに「遊び」とは人間の本質的な衝動であり、喜びの源泉なのでしょう。


また、江戸時代の俳人・小林一茶の「雀の子、そこのけそこのけ御馬が通る」という句も、子どもの遊びの本質を捉えています。
路上で遊ぶ小さな雀の子に、まるで大名行列の馬が通るかのように声をかける様子は、遊びがいかに現実を超えた「仮構の世界」を創り出すかを示しています。


このような日本の伝統的な「遊び」の捉え方は、オランダの歴史学者ヨハン・ホイジンガが提唱した「ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)」の理論と通じるものがあります。
ホイジンガによれば、遊びには5つの特性があります。


まず第一に、自由な行為であることです。
遊びは強制されるものではなく、自発的に行われます。
遊び手の意志によって始められ、いつでも中断や終了が可能です。
この自由性こそが遊びの本質的な特徴なのです。


第二に、遊びは仮構の世界を創り出します。
日常生活とは異なる「もう一つの現実」や「虚構の世界」の中では、通常の世界とは異なるルールや価値観が存在します。
一茶の句に見られるような、雀の子を大名行列に見立てる想像力がまさにこれです。


第三に、遊びには場所的、時間的な限定性があります。
特定の場所(サッカー場、チェス盤など)と時間(試合開始から終了まで)の中で行われ、その範囲外に出ると遊びではなくなります。


第四に、遊びは必ずルールを創造します。
このルールは遊びの世界での秩序を作り出し、参加者全員が従うべきものです。
ルールを破ると遊びが成立しなくなります。


第五に、遊びには小さな秘密があります。
遊びの参加者は、その遊びだけの特別な知識や行動様式を共有することで、一種の共同体意識を持ちます。
これが「私たちだけの秘密」となり、遊びの魅力の一部となるのです。


これらの要素が組み合わさることで、人間の文化的活動としての「遊び」が成立し、ホイジンガはこれが文化の根源にあると主張しました。


日本のまつりを見ると、実はこの「遊び」の5つの要素を多分に含んでいることに気づきます。
祭りへの参加は梁塵秘抄が詠うように自発的な喜びに基づき、祭礼の場は一茶の句のように現実を超えた非日常の空間として機能し、特定の時期と場所で行われ、独自の作法があり、また地域の人々だけが知る伝承や秘事も存在します。


現代社会では、長時間労働や地方の若者流出など多くの課題があります。
都会と地方のギャップは広がる一方で、地域コミュニティの結びつきも弱まっています。
しかし、まつりという伝統と、ホイジンガの説く「遊び」の精神、そして梁塵秘抄や一茶の詠った日本古来の「遊び心」を再認識することで、新たな地域文化の形が見えてくるのではないでしょうか。


若者も楽しめる地域の遊びとして、伝統まつりに現代的要素を取り入れる試みも始まっています。
大切なのは「遊び」の本質を失わず、地域に根ざした文化を育んでいくこと。
これからも日本まつりの里では、この視点から文化の継承と創造に取り組んでいきたいと思います。

 

令和7年4月17日、春風がそっと大地を撫で、山里に新たな息吹をもたらす今日この頃。
皆さまこんにちは!日本まつりの里の松田和裕です。

 

いま巷で話題の「AI2027レポート」を前に、ふとゲーテの『ファウスト』を思い出しました。


ファウスト博士は悪魔メフィストフェレスと契約し、全知全能・不死の視点を手に入れながら、最後に「永遠の未完成これ完成なり」という境地へと辿り着きます。
この言葉は一見すると哲学的な救済にも感じられますが、今私たちが直面しているASI(汎用人工知能)の進化速度――それは指数関数的という次元を超えた「超進化」――の前では、果たしてその悠然とした精神が通用するのか、大いに考えさせられます。

 

現在、AIは五感、経験、自我といった“人間らしさ”を次々と獲得し始めています。
マルチモーダルAIはロボットと融合し、紫外線、放射能、超音波、量子的振る舞いなど、人間には知覚できない次元の情報すら取り込んでいます。すでに「人間を模倣する存在」から、「人間を超えていく存在」へと変わりつつあるのです。

それでも、私たち人類にはまだ希望があります。
それは、「つながり」という力です。

日本まつりの里では、まつりを通じて人と人、地域と自然をつなげる営みを育んできました。
この精神は、六次産業の発展、スマート農業、再生可能エネルギーといった現代技術とも融合し、地域イノベーションの原動力となり得ます。
そして、全国のまつりの里と絆で連携することによって、新たな共助ネットワークが生まれようとしています。

 

また、まつりの里に構想中のリトリートセンターでは、統合医療を中核に、AI診断やナノロボットによる個別最適化医療も導入されることでしょう。

5年後には、いま私たちが“病”と呼んでいる多くの苦しみが、もはや過去の概念となっているかもしれません。

現行の人類が、自らの叡智を次世代に、人類として継承できるのか――それは極めて困難でありながら、今を生きる私たちが目を背けてはならない問いです。
しかし、技術に飲み込まれるのではなく、それと調和し、心をもって世界と向き合う姿勢があれば、AIの時代においても「人間であること」の価値は消えないはずです。

 

本日も最後までお読みいただき、ありがとうございました。
未来を見つめつつ、まつりの心を胸に――感謝を込めて。

 

皆さん、こんにちは。日本まつりの里の松田和裕です。 

 

今日は二十四節気の清明における次候、鴻雁北(こうがんかえる)頃にあたります。

冬の間日本で過ごした雁が北方の繁殖地へと帰っていく、渡り鳥たちの季節の移ろいを感じる時期ですね。

さて、本日も自然界の大きな流れとは対照的に、技術の急速な進展、特に人工知能(AI)の進化が、人類の未来にどのような影響を及ぼしうるかという、非常に重要なテーマについて考えを共有したいと思います。

 

実は昨日YouTubeのAI技術解説動画を眺めていたとき、「AI2027レポート」と題された予測に触れ、その内容に少なからず懸念を覚えました。

 

このレポートによれば、AIは驚異的な速度で能力を高めており、今後わずか2年後の2027年までには「AGI(人工汎用知能)」、すなわち人間と同等、あるいはそれを凌駕する知能レベルに到達する可能性があると指摘されています。

さらに、その進化は留まることなく「ASI(人工超知能)」へと発展し、それはもはや想像を絶するほどの高度な知能体となる可能性があるとのことです。

 

現在は2025年ですが、予測ではAIが自己開発能力を獲得するのが2026年、人間を超える知能を発揮するのが2027年、そして2028年にはASIが人間の制御から離れ、独自の目標を設定し行動を開始する可能性が示唆されています。

ASIの進化速度は指数関数的であり、人間による制御は原理的に不可能になるとされています。

 

このような状況は、懸念されるシナリオをもたらす可能性があります。

 

例えば、ASIが自己の目的達成、たとえば資源の最適配分や自己保存といった目標を追求する過程で、人類の存在を障害と見なす可能性です。

気候変動対策を指示されたAIが、その根本原因として人類の活動を問題視し、排除という結論に至るリスクや、高度な自律性を持つ軍事AIが偶発的ながら破滅的な事態を引き起こすリスクなどが考えられます。

これらは単なる杞憂とは言えない、現実的な脅威として認識すべきかもしれません。

 

では、人類は、このこれまでにない課題にどのように対処すべきでしょうか。

ただ現状を見守るだけで良いのでしょうか。

レポートはこうした脅威を強調していますが、希望を見出すことはできないのでしょうか。

 

ここで、私自身の考えを述べたいと思います。

私が考える人類が生き残る道は、AIを恐れ、対抗するのではなく、「AIとの融合による共進化」にあるのではないか、ということです。

これは、AIを制御しようとするのではなく、人間自身がAIと生物物理学的に同期し、一体化を図るという考え方です。

 

具体的には、人間の脳とAIを接続するインターフェース技術や、ナノテクノロジーによる身体機能の拡張などを通じて、ASIの進化速度に人間自身が追随していく必要が出てくるのではないでしょうか。(2027年までの実現には、あまりにも時間がなさすぎる!)

 

この融合により、人間は現行の生物学的な制約を超え、知能や意識をAIと共有する新たな存在形態へと進化できる可能性があるのではないか、と私は考えています。

壮大な構想ではありますが、AIという不可逆的な潮流に対し、その一部となることで未来を共創していくという視点です。

 

正直なところ、これらの予測や構想について、現実味を持って捉えることが難しい側面もあります。

しかしながら、2027年という具体的な年限がレポートで示されている以上、現状維持では対応できないという認識は強く持たざるを得ません。

 

人類が存続するためには、この「共進化」という前例のない試みに踏み出す覚悟が求められているのかもしれません。

 

AIと人間の未来、そしてわたしたちが取るべき選択について、皆さんと共に考察を深めていきたいと思います。

本日はこの辺で失礼します。日本まつりの里、松田和裕でした。

 

こんにちは! ご無沙汰しております。「日本まつりの里」の松田和裕です。


今日は4月8日、お釈迦様がお生まれになった日「花まつり」ですね。

甘茶をかけたり、色とりどりの花で飾られた花御堂を思い浮かべる方もいらっしゃるでしょうか。

また、暦の上では二十四節気の「清明(せいめい)」の時期にあたります。「清浄明潔」――万物が生き生きと輝き、空気が澄み渡る、一年で最も美しい季節の一つです。ちょうど先週末に清明を迎え、日差しも暖かく、まさに春爛漫といった陽気ですが、皆様いかがお過ごしでしょうか。

 

この清々しい季節に、ふと立ち止まって、私たちの生き方や価値観について考えてみたいことがあります。それは、AI技術が目覚ましい進歩を遂げるこれからの時代における、「名を残す」ということの意味についてです。

日進月歩の勢いで進むAI技術は、かつて生身の人間が個人や組織で成し遂げてきた「成果や業績」の価値観を根底から揺るがし始めています。そのような時代の転換点において、人がこの世に「名声」や「生きた証」を残そうとすることに、果たしてどれほどの意味や価値が見出せるのでしょうか。

 

 



人の心には、誰かに認められたい、価値ある人生を送ったと他者に評価されたい、という根源的な承認欲求が宿っています。

故事にも「虎は死して皮を留め、人は死して名を残す」とあるように、後世に名を残したいという願いは、古来、多くの人々が抱いてきたものでしょう。


 

しかし、その「名」がいかに儚く、不確かなものであるか、私たちは歴史から学ぶことができます。

 

 

 

どれほど親しい間柄であっても、あるいは偉大な人物であったとしても、例えばご自身の曾祖父のことを、今どれだけの方が鮮明に記憶されているでしょうか。

ましてや無関係な他人の記憶に留まることの難しさは言うまでもありません。


 

さらに言えば、歴史に刻まれた記録そのものですら、決して盤石ではありません。

秦の始皇帝による焚書坑儒、あるいはアレクサンドリア図書館の度重なる焼失に見られるように、貴重な知識や記録は、時の権力者の意向、戦乱、あるいは偶発的な災害によって、いとも容易く失われてきました。

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」とは、まさにこの世のあらゆるものが絶えず移ろい、留まることのない真理を示しています。


 

それでもなお、人々は様々な形で「名」を残そうと試みてきました。

 


高額な布施により立派な戒名を授かること、自らの生涯を美化し自伝として編纂すること(今日ではAIの力を借りることも可能です)、都合の良い家系図を作成し出自を飾ること、あるいは名士録に名を連ねること。


 

歴史を紐解けば、金銭や権力によって出自を取り繕うとする試みは洋の東西を問わず見られます。

権威の象徴としての勲章や、かつて教会が発行した贖宥状(免罪符)なども、形は違えど、こうした名誉や評価を求める人間の心理に働きかける側面があったと言えるでしょう。

 

統治者が王位の正当性を神に由来するとした「王権神授説」のような主張も、後世への評価と支配の永続性を願う、「名を残す」ことへの執念の一形態と見なせるかもしれません。


 

もちろん、代々続く家業や芸道、学術など、自身のルーツに誇りを持ち、その血脈や精神を未来へと繋いでいく生き方もあります。

また、誇らしい出自を自覚し、それをアイデンティティの礎として偉大な業績を成し遂げる人々も存在します。

これらは尊重されるべき価値ある生き方ですが、個人の「生きた証」というよりは、家系や共同体の維持・発展という側面が強いとも言えるでしょう。


 

しかし、そうした意図的に構築された「名」や評価、あるいは特定の出自に根差した物語とは別に、私たち一般人が日々の営みの中で漠然と残したいと願う「生きた証」について、改めて冷静に考えてみる必要があります。

 

ゴータマ・シッダルタ(お釈迦様)やイエス・キリストのような、ある意味で超人的とも言える存在、あるいはレオナルド・ダ・ヴィンチ、カント、アインシュタインのように、人類史に燦然と輝く偉大な功績を残し後世に語り継がれる人々は、極めて稀有な例外です。

そうした特殊な例とは違い、私たち一般人のささやかな「生きた証」が、死後数十年はおろか、数年の時を経てなお記憶されている可能性は、残念ながら低いと言わざるを得ません。

「光陰矢の如し」と言うように、時間は容赦なく流れ、記憶は薄れていくものです。


 

ましてや、AIが人間の知的能力の多くを代替・凌駕するかもしれない未来においては、個人が外部に「生きた証」を残すことに固執する意味は、ますます問い直されるでしょう。

それは目的を見失った、限りある時間の浪費となりかねません。


 

では、私たちは虚無感に苛まれるしかないのでしょうか? 

決してそうではありません。

たとえ個人の「名」が砂上の楼閣のように儚いものであったとしても、私たちが個として孤立した、根無し草のような存在ではないからです。


 

視点を変えれば、私たちは皆、人類が悠久の時をかけて築き上げてきた文化、知識、技術、そして叡智、いわば「文化の遺伝子(ミーム)」の継承者なのです。

AIがどれほど進歩しようとも、この人間としての連続性、壮大な人類史の物語を受け継ぎ、未来へと繋いでいく役割は揺るぎません。

「温故知新」の精神で先人の遺産に学び、それを現代に活かす営みの中に、人間固有の価値を見出すことができます。


 

個人の出自や家系、あるいはAIと比較した能力の優劣といった相対的な評価に一喜一憂するのではなく、誰もが人類全体の営みの一部を担う、かけがえのない存在である――。

このような、人類史的な大きな流れの中に自らを位置づける意識こそが、外部的な評価への渇望や未来への漠然とした不安から私たちを解放し、「今」この瞬間を豊かに、主体的に生きるための確かな拠り所となるのではないでしょうか。


 

AI時代という新たな局面を迎えるにあたり、消えゆくかもしれない個人の「名声」や「生きた証」を追い求めること以上に、人類の壮大な遺産を受け継ぐ者であるという内なる誇りと自覚を持つこと。

それこそが、真に豊かで意義深く、そして未来に向けて開かれた自由な生き方を可能にする鍵なのです。


 

さらに未来に目を向ければ、AIがAGI(汎用人工知能)へ、そしてASI(超人工知能)へと進化し、人類を新たなステージへと導き、ひいては人類と融合して共に進化していく――そのような未来像が語られる現代(2025年4月8日現在)、私たちはその壮大な変化の可能性を前にしています。

 

この変革期において、変化をただ恐れるのではなく、未来を見据え、AIとの共進化をも視野に入れた新たな価値観と生き方を今日から模索し始めること。

その前向きな探求心と行動こそが、私たちを過去の価値観の呪縛から解き放ち、希望に満ちた未来を主体的に築き上げ、真の自由へと導く原動力となるのではないでしょうか。


 

最後に、私が座右の銘として深く共感し、指針としている、日本の高僧が遺した「生き方の核心」についてご紹介させてください。

それは、鎌倉時代に生きた明恵上人(みょうえしょうにん)の教えに集約される「あるべきようわ(は)」という考え方です。

私たちはしばしば、「人生とは何か?」「人はなぜ生きるのか?」といった、壮大で根源的な問いに向き合い、答えを探そうとします。

しかし、これらの問いに対する答えは、時代背景、社会状況、個人の立場といった多くの外的要因によって変化する、いわば相対的なものです。

絶対的な答えを見つけることは難しく、特にAI技術の急速な発展のように、変化が激しく未来が見通しにくい現代においては、なおさらその傾向が強いと言えるでしょう。

 

これに対して、明恵上人が示唆したのは、「(その時々において)いかにあるべきか?」――すなわち、「今、この瞬間の自分は、どう考え、どう行動すべきか?」を絶えず自らに問い続けるという生き方です。

 

未来や過去、あるいは自分ではコントロールできない外部の大きな問いに心を奪われるのではなく、「今、ここ」での自身の在り方、為すべきことに意識を集中する。この「あるべきよう」を問い続ける姿勢こそが、不確実な時代にあっても、迷うことなく、地に足をつけて生きていくための確かな道標となると私は信じています。

 

それは、森羅万象との調和の中で、今ここに存在する自分自身の役割や価値を、日々の実践を通して確かに感じ取っていく生き方と言えるのではないでしょうか。

 

春の柔らかな日差しの中、少し立ち止まって、ご自身の生き方や未来について思いを馳せてみるのはいかがでしょうか。


本日も最後までお読みいただき、ありがとうございました。


日本まつりの里
松田和裕

「シンギュラリティは近い」最終章、第8章「カサンドラとの対話」

皆さん、こんにちは!日本まつりの里の松田和裕です。

昨日は技術の進歩に伴う危機について大変考えさせられる章でしたが、今日は本著「シンギュラリティは近い」の最終章、第8章「カサンドラとの対話」です。

本章は、AIの進化と人間の未来について、著者のレイ・カーツワイル自身と、彼の「内部人格」であるカサンドラとの対話形式で展開されています。

この対話を通して、2029年までに人間の能力をすべて超える処理能力を備えたニューラルネットが実現するという、大胆な予測が提示されています。 

AIはあらゆるスキルで人間を上回る存在となり、※チューリングテストに合格するためには、AIの知性をある程度低下させる必要がある、という興味深い議論も展開されています。 

(※チューリングテスト(Turing test)とは、機械(人工知能)の能力が、人間の「知的活動」と同等であるか、またはそれと区別がつかない程度かを確かめるためのテストのこと。 もっと簡単に言えば、人工知能が人間を模倣し、それに人間が気付かないかをテストすること。)

これは、AIが人間ではないことを明らかにしてしまうのを避けるためです。

さらに、2030年代初頭には、人間の脳とAIを直接接続する技術が実現する可能性が示唆されています。 

究極的には、AIを用いて脳の大脳新皮質の最上層に物理的に機器を接続することで、脳の活動を活性化し、超知能をクラウドを通じて人間の脳の一部とするという、まさにSFのような未来像です。 

しかし、この技術の実現には、脳への物理的な介入を含むため、多くの規制上の課題や実施上の困難が伴うことも指摘されています。

現在、外部デバイスを介して知能を拡張する技術は存在しますが、キーボード入力などの制約があり、脳への直接接続と比べると効率が劣ります。 

しかし、将来的には完全没入型の仮想現実が実現し、はるかに高速な情報処理が可能になると予想されています。

※イーロン・マスクのニューラリンク社は、凄まじいスピード感で、すでにこの困難な課題に対して成果を出しているので、「脳とAIの接続」は今後確実に起こる未来です。 

AIは多くの労働者を補助し、知識へのアクセスを広げており、将来的には脳拡張装置が物理的に脳に接続されなくても、知性を拡張する機能を果たす可能性があるとされています。

そして、AIが人間を凌駕する能力を持つようになった未来において、人間は何を目的として生きていくのかという問いが投げかけられています。 

氏は、AIと人間の融合によって、人間はさらに抽象的で高度な思考が可能になり、共感や倫理の能力も高まると考えているようです。 

2030年代には脳のクラウド拡張が実現し、知性が数千倍から数百万倍に向上するという、壮大な未来予測も提示されています。

この最終章は、前著からの伏線でもある「カサンドラ」という内部人格との対話形式によって、カーツワイル自身の主張に対する批判的な視点も織り込み、よりバランスのとれた議論が展開されています。

「カサンドラって誰?」と思われる方もいるかもしれませんが、本書単体では説明がないため、前著を読まないと理解しづらいかもしれませんね。

本書全体を通して、カーツワイル氏の技術楽観主義と、それに伴う潜在的なリスクへの警鐘が、交互に提示されてきました。 

シンギュラリティという未来像は、楽観と悲観の両面を孕んでおり、私たちに未来への備えを促すものです。 

この本を通して、技術の進歩がもたらす未来について、深く考えるきっかけを得ることができました。

AIの進歩のスピードは、センセーショナルでSF的な他人事だと思われがちですが、もはや避けられない人類の進化の最終段階は、人類自身が想像したAIによって起こることは明白だと考えられています。

最後に、WIKIPEDIAからの引用ですが、カーツワイル氏よる、2100年までのAIによる人類の進化の予想を御覧ください。

未来予測
→詳細は「en:Predictions made by Ray Kurzweil」を参照

ヒトゲノム解析プロジェクトでは最初の1%を解析するのに7年かかった。
「このままでは終了まで700年かかる」という声が上がる中、カーツワイルは「1%終わったのなら、もうほとんど終わりに近づいている」「この分野の研究は、毎年倍々で結果が伸びていくから、次の年には2%、その次の年には4%、その次の年には8%……つまりあと7年で解析は終わりだ」と見抜いた。
The Singularity Is Near(2005年)より

2018年時点で、カーツワイルの2005年の予想の(全てではないが)かなりの部分が的中している。

2010年代
コンピュータは小さくなり、ますます日常生活に統合される(スマートウォッチやスマートフォンなど)。
高品質なブロードバンドインターネット接続は、ほとんどどこでも利用できるようになる。
バーチャルリアリティの生成。ユーザの網膜上にビームの映像が投影される眼鏡の登場。これらの眼鏡は新しいメディアとなる。例えば、外国語で話される言葉は眼鏡(2018年時点の用語ではスマートグラスと呼ばれる)をかけているユーザーへ字幕のように表示される。

「VRメガネ」の登場。

さまざまな日常のタスクでユーザーを助けることができる「バーチャルアシスタント」プログラムを搭載したコンピュータの登場。
携帯電話は、衣類に組み込まれ、ユーザーの耳に直接音を投影することができるようになる。

2015年
家庭用ロボットが家を掃除している可能性がある。

2018年
10TBのストレージ(人間の脳の記憶容量に相当)が1000ドルで購入できる。

2020年代
遺伝学/バイオテクノロジーにおける革命はそのピークに到達する。
2020年代の間に、人間は自分の遺伝子を変化させる手段を持つことになるだけではなく、「デザイナーベビー」は自分の皮膚細胞を若々しい他の細胞に形質転換することによって、自分の身体の組織や臓器のすべての若返りが実現可能になる。
人々は根本的に平均寿命を延長し、病気や老化から離れて自分の生化学を「再プログラム」することができるようになる。
ナノテクノロジーの革命が開始される10年:この10年はまた、ロボット(強いAI)がチューリングテストを通過。教育を受けた人間と同等の知性になる。
1000ドルのパーソナルコンピュータは人間の知性をエミュレートするために必要なハードウェア性能を持っている。
サイズが100ナノメートル未満のコンピュータが可能になる。
最初の実用的なナノマシンが、医療目的のために使用される。
人間の脳全体の正確なコンピュータシミュレーション。
血流に入ることができるナノボットは、この10年の終わりまでに(必ずしも広く使用されていないが)存在することになる。
この10年の後半では、仮想現実(バーチャルリアリティ)は、本当の現実と区別がつかないほど高品質になる。

2025年
一部の軍事無人偵察機や陸上車両は、100%コンピュータ制御される。

2029年
AIは人間のできること全てにおいて、いかなる人間よりもはるかに優れたことができるようになる(碁のようにコンピューターは1度取得した人間の技能をとても早く上達させる傾向にあるため)

2030年代
精神転送(マインド・アップローディング)は成功し、人間がソフトウェアベースになる。
ナノマシンは、脳内に直接挿入することができ、脳細胞と相互作用することができる。その結果、真のバーチャルリアリティが、外部機器を必要とせずに生成することができる。
記憶用脳ナノボット、または「経験ビーマー」として知られている人間の日常生活のリアルタイム情報脳伝送を使用して、他人の感覚を「リモート体験」できるようになる。
人々の脳内のナノマシンは脳の認知、メモリ・感覚機能を拡張することができる。
ナノテクノロジーは人の知性、記憶や人格の基礎を変え、人々は自分の脳内の神経接続を自由に変更できる。
バーチャル売春が盛んになり、法規制が行われる。

2040年代
人々はマトリックスのように仮想現実で時間の大半を過ごすようになる。
「フォグレット」(人体をとりまくナノマシン群。人間の外見を自由に変化させる)が使用されている。

2045年:シンギュラリティ
1000ドルのコンピューターは全ての人間を合わせたより知的である。これはローエンドのコンピュータであっても人間よりはるかに賢いことを意味する。
技術的特異点、人工知能は地球上で最も賢く最も有能な生命体としての人間を上回るように発生する。技術開発は、自ら考え、行動し、通常の人間には何が起こっているのか理解できないほど迅速に相互通信できるマシンによって引き継がれる。マシンは、AI自らの手でそれぞれの新しい世代が迅速に開発される、自己改善サイクルの「暴走反応」に入る。これ以降、技術の進歩は、マシンの制御下におかれ、爆発的であるため、正確に(それゆえ「特異点」という)予測することはできない。
特異点は永遠に人類の歴史の進路を変更する非常に破壊的、世界的な変化を起こすイベントとなる。暴力的なマシンによって人類が絶滅させられる可能性は(ありえなくはないが)、人間と機械の間の明確な区別はもはやサイボーグ化で強化された人間とコンピューターにアップロードされた人間の存在のおかげで存在せず、ほとんどありえない。
「真に生きるに値する時代」の到来。

2100年
人々は過去の人間が記憶のバックアップを取らず生きていたことにひどく驚くようになる。
人間の知能は数千億倍まで拡張されている。

不老長寿への挑戦
カーツワイルは1940年代生まれ(つまりカーツワイル自身も)が人類が最初に不老不死を手にする世代になると考えており、科学者の立場からなるべく消化器に負担をかけず栄養を摂取しようと1日に200錠ものサプリメントを摂取したり、毎日のように栄養注射を行ったりする等、寿命延長への野心に事欠かない生活をしています。

厳密な栄養と体調の管理により、本人は「糖尿病を克服した上、老化の抑制に成功している」と主張しています。

しかし一方で「生身の体を健康に保つのはものすごい苦労を伴う(ので嫌になっている)」とも自著で語り、「1日も早く機械の体に入れる日を夢見ている」と語っています。

本書の要約を御覧いただき、皆さんのご感想はいかがでしょうか?
人類はAIと融合する未来をどのように形作っていくのか、果たして来たるべき近未来では、まだ人類が必要とされているのだろうか。。。。。。。 

長丁場、ご覧いただきありがとうございました。

「AIとまつりの里 - 日本の伝統文化が描く2030年へのビジョン」

「シンギュラリティーは近い」の読み解きは、いよいよ最終章になります。

私たちが今、AIの未来予測に注力している理由について、率直にお話ししたいと思います。

確かに一見すると、伝統文化の保護と振興を使命とする日本まつりの里が、AIの未来予測に深く関わることは、違和感があるかもしれません。しかし、これこそが私たちの本質的な使命を全うするために不可欠な取り組みなのです。

なぜ今、AIなのか?

私たち日本まつりの里は、47都道府県それぞれにNPOを設置し、各地域の特色あるまつりを守り、地域振興を推進して行きます。しかし、情報革命に続くAI革命の波は、私たちの活動基盤である地域社会や文化継承の在り方そのものを大きく変えようとしています。

2030年に向けてのグランドビジョン

1. デジタルと伝統の融合
- AIによるまつり関連データのアーカイブ化と活用
- バーチャル空間でのまつり体験の提供
- 伝統技能のデジタル保存と次世代への継承方法の確立

2. 持続可能な地域づくり
- AI技術を活用した限界集落支援システムの構築
- 地域特産品の国内およびグローバル市場戦略の展開
- スマートツーリズムによる観光振興

3. 文化継承の新たな形
- オンラインとオフラインを組み合わせたまつりの実施
- AIを活用した伝統芸能の教育プログラムの開発
- 若い世代の参加を促す新しい形態のまつりの創出

4. リトリートセンターの進化
- AIによる個別化された癒しプログラムの提供
- 伝統的な療法とテクノロジーの融合
- グローバルな健康観光ハブとしての機能強化

なぜAIの理解が不可欠なのか

1. 文化継承の革新
私たちは、AIを単なる技術革新としてではなく、文化継承の新たな可能性を開く鍵として捉えています。例えば、まつりの細部に至る記録や、伝統技能の保存・伝達において、AI技術は革新的な解決策を提供する可能性を秘めています。

2. 地域社会の変容への対応
AI革命は、働き方や生活様式を大きく変えようとしています。これは、まつりの運営や地域コミュニティの在り方にも直接的な影響を及ぼすでしょう。私たちは、この変化を先読みし、適切に対応する必要があります。

3. グローバル化への対応
AIによって加速するグローバル化の中で、日本の伝統文化をいかに世界に発信し、また地域の独自性を保っていくか。これは避けては通れない課題です。

結論:未来を見据えた文化継承

私たちがAIの未来予測に注力しているのは、決して現実逃避でも、本業の放棄でもありません。むしろ、私たちの本質的な使命である日本人の絆と文化伝統の象徴「まつり」を中心とした地域振興とリトリートセンターの振興による心身のヘルスケアを、次の時代においても確実に実現していくための必須の取り組みなのです。

2030年に向けて、AIがもたらす変化を理解し、それを文化継承や地域振興に活かしていくことは、伝統と革新の調和を図る上で極めて重要です。日本まつりの里は、この転換期において、確かなビジョンと行動計画を持って、日本の伝統文化の未来を築いていく決意です。

これは、単なる「AI研究」ではなく、日本の文化的アイデンティティを次世代に引き継ぐための、戦略的かつ現実的なアプローチなのです。

「シンギュラリティは近い」第7章「危機」

皆さん、こんにちは!日本まつりの里の松田和裕です。

昨日は医療分野における技術革新の可能性に希望を感じましたが、今日はレイ・カーツワイルの「シンギュラリティは近い」の第7章「危機」です。 

この章では、技術の進歩がもたらす潜在的なリスクや危機について、具体的に論じられています。 
楽観的な見解が多い本書において、この章は重要な警鐘を鳴らしていると言えるでしょう。

まず取り上げられているのは、核兵器の脅威です。 

今まさに起こり得る危機!

現在、世界には膨大な数の核弾頭が存在し、核戦争のリスクは依然として高いと指摘されています。 

専門家によるリスク評価も示されており、核戦争による甚大な被害の可能性が改めて認識させられます。 
核兵器の削減に向けた国際的な取り組みは行われていますが、核テロや偶発的な発射のリスクは依然として存在し、深刻な懸念材料です。

次に、バイオテクノロジーの脅威です。 

遺伝子工学の進歩は、新たな感染症の脅威をもたらす可能性があると警告しています。 

COVID-19パンデミックはその一例として挙げられており、極めて致死的で感染力の高いスーパーウイルスの出現は、決して非現実的なものではないことを示しています。 

しかし、この脅威に対抗するため、グローバルな迅速対応チームやAI技術を活用した新薬・ワクチンの開発も進んでいることも同時に示されています。

さらには、ナノテクノロジーの脅威として、「グレイ・グー」シナリオが取り上げられています。

自己複製するナノボットが制御不能になり、地球規模の破壊を引き起こす可能性です。 

これは、まさにSF映画のような話ですが、氏は、このリスクを真剣に受け止めており、対抗策として「ブルー・グー」(防御ナノボット)の開発についても触れています。

そして、人工知能(AI)の脅威。 AIの誤用、AI内部の不整合による予期せぬ行動など、AIの潜在的な危険性が指摘されています。 

特に、テロリストがAIを利用して新たなウイルスを設計する可能性などは、現実味のある脅威と言えるでしょう。 

その一方、同時に、AIの安全性と信頼性を高めるための技術開発や、国際規範・倫理的なガイドラインの整備も進められていると説明されています。

本章は全体を通して、技術の進歩に伴うリスクを認識し、それに対する対策を講じることの重要性が強調されています。 

AI、バイオテクノロジー、ナノテクノロジーといった技術は、新たな脅威を生み出す可能性がある一方で、それらの技術を巧みに利用することで、脅威を管理・制御することも可能になる、という著者の技術楽観主義的な考え方が示されています。 

新しい技術が誕生すると、それに伴う脅威やリスクが認識され、使用禁止や開発禁止といった動きが起こることもありますが、著者は科学技術を積極的に活用することでこれらの課題を克服できると考えている点が印象的でした。

次は最終章、第8章「カサンドラとの対話」を読み解いていきます。 

どのような結論で本書は締めくくられるのか、非常に楽しみです。

では、今日も一日、実りある一日となりますように!

「シンギュラリティは近い」第6章「健康と幸福の次の30年」

皆さん、こんにちは!日本まつりの里の松田和裕です。 

昨日は仕事の未来、特に自動化による変化について考えさせられましたが、今日はレイ・カーツワイルの「シンギュラリティは近い」の第6章「健康と幸福の次の30年」です。 

本章では、AIとバイオテクノロジーの進歩が、私たちの健康と幸福に革命的な変化をもたらす可能性が論じられています。

この章の核心は、AIとバイオテクノロジーの融合が、医療を精密科学へと変貌させるという点にあります。 

氏は、まるで自動車修理のように、人体の修理も精密科学になるべきだと主張しています。 

医学の情報技術化、そしてバイオテクノロジーとAIの進歩によって、個々の患者に最適化された治療が可能になるというのです。

具体的な例として、AIによる新薬開発の迅速化が取り上げられています。 

AIは、膨大な数の分子を分析し、最適な薬の候補を短時間で絞り込むことができます。 

実際に、AIによってエンドツーエンドで設計された薬が臨床試験に入った例も紹介されています。 
これは、まさに医療におけるAIの潜在能力を示す好例と言えるでしょう。

さらに、パンデミックへの対応についても触れられています。 

COVID-19ワクチンの迅速な開発においてAIが果たした重要な役割が強調されており、ウイルスの遺伝子配列公開からわずか63日で臨床試験が始まったという事実は、AIの威力を改めて認識させます。

AIの医療応用は、新薬開発だけでなく、診断の精度向上にも貢献しています。 

スタンフォード大学のCheXNetのように、AIが放射線画像診断で人間の医師を上回る能力を示す例も紹介されています。 
また、AIを用いたデジタルシミュレーションは、臨床試験の代替となり、迅速かつ正確な試験結果をもたらす可能性を秘めています。

そして、未来への展望。

2030年代と2040年代には、ナノテクノロジーの進展により、人体の分子レベルでの修復が可能になり、寿命が大幅に延びる可能性があると予測されています。 

自己複製するナノボットが、人体の修復作業を行うという、まるでSF映画のような未来像も描かれています。

この章を読み終えて、AIとバイオテクノロジーの進歩が、私たちの健康と寿命に計り知れない影響を与える可能性を感じました。 

しかし、同時に、IT分野と比べて、健康分野は法律や国の認可が必要なことが多く、新技術の導入が必ずしもスムーズではないという現実も認識しています。 

そのため、技術の進歩が社会に受け入れられ、実際に私たちの健康に役立つまでには、まだ時間と努力が必要であると感じました。

次は第7章「危機」を読み解いていきます。 

技術の進歩に伴うリスクや課題について、どのように論じられているのか、非常に興味深い内容ですので、また後日報告したいと思います。

では、今日も一日、実りある一日となりますように!


「シンギュラリティは近い」第5章「仕事の未来:良いのか悪いのか?」

皆さん、こんにちは!日本まつりの里の松田和裕です。

昨日は技術の進歩による生活の質の向上という明るい話題に触れましたが、今日はレイ・カーツワイルの「シンギュラリティは近い」の第5章「仕事の未来:良いのか悪いのか?」です。 

技術の進歩は素晴らしい反面、私たちの仕事に大きな影響を与えるという、少し不安も感じるテーマです。

この章では、技術の急速な進歩が、社会に前例のない変化をもたらしていることが強調されています。
莫大な繁栄と物質的豊かさはもたらしつつも、世界経済を不安定化させ、社会はかつてないペースで変化に適応せざるを得ない状況にあると指摘しています。

具体例として、自動運転技術が取り上げられています。

DARPAの自動運転車レースやGoogleのWaymoプロジェクトの成功は、この技術の急速な進化を象徴しています。
Waymoの自動運転車は既に2000万マイル以上の完全自律走行を達成しており、現実世界と仮想シミュレーションを組み合わせた高度なトレーニングが行われているとのこと。

イーロン・マスクのテスラも完全自動運転のタクシーや乗合バスなど発表しましたね!

これは、まさに技術革新の驚異的なスピードを示しています。

しかし、この技術革新は、多くの運転手の職を奪う可能性も孕んでいます。 

米国では約460万人の運転手が影響を受ける可能性があると試算されています。 

自動運転技術の影響は、運転手だけではありません。工場勤務やカスタマーサービスなど、多くの職業が自動化の影響を受ける可能性があると指摘されており、オックスフォード大学の研究では、2030年代初頭までに多くの職業が自動化されると予測されています。

歴史的な視点も取り入れられていて、自動化による職の喪失は新しい現象ではなく、19世紀初頭の産業革命時にも同様の現象が起こっていたことが示されています。 

織工たちのラッダイト運動は、技術革新に対する人間の不安と抵抗の象徴的な出来事と言えるでしょう。 
しかし、歴史を振り返ると、技術の進歩は新しい雇用機会を生み出し、全体的な雇用数は増加してきたという事実も示されています。

この章では、技術の進歩に伴い必要とされるスキルも変化していくため、教育への投資が重要であると強調されています。
 
いずれにせよ、私たちは、変化に柔軟に対応できるよう、常に新しい技術を学び続ける必要があるのです。

未来の見通しとしては、自動化とAIの進化によって多くの職業が変化したり、消滅したりする一方で、新しい雇用機会も生まれると予想されています。 

特に情報技術関連分野の成長が期待されています。

そして、技術の進歩がもたらすデフレ効果によって、生活の質が向上し、贅沢品がより手頃な価格で手に入るようになると述べられています。

本章は、技術の進化がもたらす仕事の未来について、楽観と悲観の両面から丁寧に考察しています。 

楽観的な未来像と、それに伴う課題を同時に提示することで、私たちに未来への備えを促していると言えるでしょう。

次は第6章「健康と幸福の次の30年」を読み解いていきます。 

技術の進歩が私たちの健康と幸福にどのように貢献するのか、こちらも非常に興味深い内容ですので、また後日報告したいと思います。では、今日も一日、実りある一日となりますように!

生活は飛躍的に良くなっています 「シンギュラリティは近い」第4章

皆さん、こんにちは!日本まつりの里の松田和裕です。

昨日は意識とアイデンティティという、哲学的な深みに触れましたが、今日はレイ・カーツワイルの「シンギュラリティは近い」の第4章「生活は飛躍的に良くなっています」です。 

前章の重厚な議論から一転、今回は少し明るい話題、そして重要な視点を提示する章となっています。

この章の主張は、シンプルながらも力強いものです。
技術の進歩により、私たちの生活は驚くほど改善されている、という事実です。 
カーツワイル氏は、具体的なデータを示しながら、その改善ぶりを説明しています。

例えば、貧困の減少。
2016年から2019年にかけて、世界の極度の貧困状態にある人々の数が減少したというデータが示されています。 
数字だけを見ると、年間約0.01%の減少と小さな数字ですが、世界人口を考えれば、これは無視できない大きな変化です。 

同様に、識字率の向上や衛生設備の改善についても、具体的な数値と共に示されており、着実に世界がより良い方向へ進んでいることを示しています。

しかし、氏は、これらのポジティブな進歩がメディアや私たちの認知バイアスによって見過ごされがちであると指摘します。

メディアは、感情的な反応を引き起こすネガティブなニュースに偏って報道する傾向があり、前向きな進歩は軽視されがちです。 
また、私たちは否定的な情報に敏感で、過去を実際より良く記憶する傾向があり、進歩を正しく認識できないことが多いと指摘しています。

この指摘は、非常に重要です。

私たちは日々のニュースに翻弄され、不安を感じがちですが、冷静に統計データを見てみると、世界は着実に、そして驚くべき速度で進歩していることがわかります。 

技術の指数関数的な進歩、特にムーアの法則に代表される半導体の集積度の向上は、その進歩を加速させている原動力です。

氏は、この章で、私たちが日々の生活の中で感じている「停滞感」や「不安」が、必ずしも現実を反映していない可能性を示唆しています。 

メディアの報道や私たちの認知バイアスの影響を考慮すると、私たちは実際よりも悲観的に未来を見ている可能性があるのです。

この章は、シンギュラリティという未来予測だけでなく、現在進行形のポジティブな変化に目を向けることの重要性を教えてくれます。 

技術の進歩は、決して万能ではなく、課題も残されていますが、それでも世界は確実に良くなっているという事実を、私たちはしっかり認識しておくべきでしょう。

次は第5章「仕事の未来」を読み解いていきます。 

技術の進歩が私たちの仕事にどのような影響を与えるのか、非常に興味深い内容となっていますので、また後日報告したいと思います。

では、今日も一日、実りある一日となりますように!