春の訪れとともに考える「まつり」と「遊び」の文化
令和7年4月24日
春風が心地よく頬を撫で、若葉が萌える季節となりました。桜の花びらが舞い散る中、小鳥たちのさえずりも一段と賑やかに聞こえる今日この頃です。日本まつりの里の松田和裕です。
最近はAIの進化やその活用法についての話題で持ちきりですが、今日はふと立ち止まり、私たちの暮らしに根づく「まつり」と「遊び」の文化について考えてみたいと思います。
日本の「まつり」とは、地域に根ざした伝統文化と自然崇拝、神への畏怖、歴史などが融合した独特の文化表現です。
神社に紐づけられることが多く、地域の文化伝統を次世代に継承するイニシエーションの役割も担っています。
五穀豊穣を祈る田植え祭り、疫病退散を願う夏祭り、収穫を祝う秋祭りなど、自然のリズムと共にあり、人々の祈りが形になったものです。

「遊び」について考えるとき、思い出されるのは鎌倉時代の歌謡集『梁塵秘抄』の一節です。
「遊びをせんとや生まれけむ、戯れせんとや生まれけん、遊ぶ子供の声聞けば、我が身さえこそ動がるれ」。
この歌は、子どもたちが遊ぶ様子を見て、自分も遊びたくなる心の動きを詠んだものです。まさに「遊び」とは人間の本質的な衝動であり、喜びの源泉なのでしょう。
また、江戸時代の俳人・小林一茶の「雀の子、そこのけそこのけ御馬が通る」という句も、子どもの遊びの本質を捉えています。
路上で遊ぶ小さな雀の子に、まるで大名行列の馬が通るかのように声をかける様子は、遊びがいかに現実を超えた「仮構の世界」を創り出すかを示しています。
このような日本の伝統的な「遊び」の捉え方は、オランダの歴史学者ヨハン・ホイジンガが提唱した「ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)」の理論と通じるものがあります。
ホイジンガによれば、遊びには5つの特性があります。
まず第一に、自由な行為であることです。
遊びは強制されるものではなく、自発的に行われます。
遊び手の意志によって始められ、いつでも中断や終了が可能です。
この自由性こそが遊びの本質的な特徴なのです。
第二に、遊びは仮構の世界を創り出します。
日常生活とは異なる「もう一つの現実」や「虚構の世界」の中では、通常の世界とは異なるルールや価値観が存在します。
一茶の句に見られるような、雀の子を大名行列に見立てる想像力がまさにこれです。
第三に、遊びには場所的、時間的な限定性があります。
特定の場所(サッカー場、チェス盤など)と時間(試合開始から終了まで)の中で行われ、その範囲外に出ると遊びではなくなります。
第四に、遊びは必ずルールを創造します。
このルールは遊びの世界での秩序を作り出し、参加者全員が従うべきものです。
ルールを破ると遊びが成立しなくなります。
第五に、遊びには小さな秘密があります。
遊びの参加者は、その遊びだけの特別な知識や行動様式を共有することで、一種の共同体意識を持ちます。
これが「私たちだけの秘密」となり、遊びの魅力の一部となるのです。
これらの要素が組み合わさることで、人間の文化的活動としての「遊び」が成立し、ホイジンガはこれが文化の根源にあると主張しました。
日本のまつりを見ると、実はこの「遊び」の5つの要素を多分に含んでいることに気づきます。
祭りへの参加は梁塵秘抄が詠うように自発的な喜びに基づき、祭礼の場は一茶の句のように現実を超えた非日常の空間として機能し、特定の時期と場所で行われ、独自の作法があり、また地域の人々だけが知る伝承や秘事も存在します。
現代社会では、長時間労働や地方の若者流出など多くの課題があります。
都会と地方のギャップは広がる一方で、地域コミュニティの結びつきも弱まっています。
しかし、まつりという伝統と、ホイジンガの説く「遊び」の精神、そして梁塵秘抄や一茶の詠った日本古来の「遊び心」を再認識することで、新たな地域文化の形が見えてくるのではないでしょうか。
若者も楽しめる地域の遊びとして、伝統まつりに現代的要素を取り入れる試みも始まっています。
大切なのは「遊び」の本質を失わず、地域に根ざした文化を育んでいくこと。
これからも日本まつりの里では、この視点から文化の継承と創造に取り組んでいきたいと思います。