【何のための報道なのか?】 | キセキを紡ぐ Rut of hope

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ちゅーことで、

チヒロサトさんのFacebookより転載させていただきます。

いつもありがとうございます。

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【何のための報道なのか?】

 

報道というものは、もともと現実をなるべく精確に伝えることで、人々が事態に適切に対処できるようにするためにあるはずだ。だから、災害だとか事故だとか、疫病だとか犯罪だとかがある場合、何が危険で、何が危険でないのか、どの程度の危険があるのか、どうすれば危険を回避することができるのか、といったことを、なるべく精確に人々が知るようにするべきなのだ。

どんなに危険な状況があるとしても、私たち人間には、その危険の中で助け合って生き延びていく力がある。本来報道というものは、その力が使えるように、精確な情報を伝えるためにあるはずだ。

 

メディアが真実を伝えないということは、以前からあったけれど、それがはっきりと目に見えるように現れたのは、4年前に奇妙なパンデミックが始まった頃からだった。危険な疫病が流行っているようなときには、何がどの程度に危険で、どのような場合には危険がないのかということを、適確に伝えるべきなのに、報道はただ感染者数何人、死者何人、ということばかりを言うようになり、パニックを掻き立てるようなものの言い方をするようになった。本来ならば、住人何人中何人が感染して、何人が重症で、何人が風邪程度の症状なのか、通常のインフルエンザと比べてどの程度の危険度なのかということを伝えるべきなのに、だ。

 

ジャーナリズムの原則は、中立公正に伝えることなので、何があろうと物事の両面を伝えるべきであり、それも冷静に中立に伝えるべきだ。それなのに、その原則がまったく守られなくなった。どこから来た情報なのかも言っていなかったし、まるで確定した事実であるかのように言っていた。本来ならば、XXの報告によれば、とか、今の時点で判明しているかぎりでは、とかいう言い方をするべきところなのに、そうした原則も守られていなかった。その時点で、これは中立公正な報道ではなく、パニックを煽るためにやっていることだというのは、私にとってはかなりはっきりしたことだった。

 

報道がこういう風にパニックを煽るようなものの言い方をしている場合、報道されていることが、そもそも事実なのかどうかを疑う必要がある。少なくとも、どこかに歪曲や誇張がある可能性があるということは、考えに入れなければならない。報道がそのままに信じられたら、どんなにいいかと思うけれど、残念ながら、私たちは報道が信頼できるような国、そのような時代には生きていないのだ。

 

今回の震災の報道でも、現実の被害よりも、ニュースの報道に多くの人がパニックになっていたということを言っていた人が何人もいた。実際に揺れを感じているときに、数分おきに、ニュースキャスターがヒステリックに叫ぶので、その声を聞いているだけで、多くの人がパニックで思考停止状態になり、冷静に避難できるような精神状態ではなかったというのだ。

現実に災害があるようなときには、何よりも人々が落ち着いて適確な行動を取れるようにするべきなのに、明らかにその逆をやっていたようだ。地震のときには、あわてて逃げようとするのが、一番危ないということもよく言われている。火を消して、ドアが開かなくならないように開けておき、しっかりとしたテーブルの下に入って、揺れが落ち着いてから脱出する、というのが原則だ。それを、ただ大変です、大変です、では何の役にも立たない。どうすれば安全に避難できるのかを、伝えるべきところなのに。

 

津波の危険があるときは、すぐに逃げるべきだけれど、その場合も、ただ逃げてくださいではなくて、どの地域の人たちは、どこへ逃げてください、とか伝えるのでなければ、報道の意味がない。どの地域にどの程度の津波の危険があるのかとか、どこへ行けば安全なのかとか、避難所への道はどこが通れるのかとか、そういうことをできるかぎり精確に伝えて、人々がそれぞれに判断して行動するようにするべきなのだ。

 

この震災の情報では、現実の被災者の証言もあり、やらせらしい証言もあり、両方が入り混じっていたようだ。そうしたものも、人間心理を知っていたら、割と容易にどちらなのかは見当がつくのだけれど、被害者の言うことを疑うのは失礼だという意識が働くので、そうした判断が使えなくなっていることが多いのだと思う。本当の被災者だったら、疑うなんて失礼だ。しかし、まさにそうした心理につけ込んで、パニックを煽るようなことをしているというのが現実なのだ。

 

こうしたことは、コロナのときにもウクライナのときにも経験してきた。それで、おかしいと思えることがあっても、こんなことを言ったら失礼だと思って黙っているうちに、多くの人々が思考停止状態になるまでパニックに陥って、信じ込んでしまった。そうなってしまうと、もう何を言っても受けつけない状態になってしまう。それを見てきたからこそ、疑うなんて失礼だと思っても、おかしいと思えることは、やはりおかしいと言うべきなのじゃないかと、私は思っている。

 

こうしたことは、どちらが本当なのかというような、白か黒かを決めるようなことではない。何が現実なのかは、結局のところ、誰にもこうとはっきり言えるようなものでもないのだ。しかし、メディアの言うことをすべて信じるのでもなく、また逆にすべて否定するのでもなく、真実はどの辺にあるのかを柔軟な精神で探究していくというスタンスが必要とされるのじゃないかと思う。犯罪捜査のときのように、新しい証拠が出てくるたびに、それが信頼できるものなのか、だとしたら、推理をどのように変えるべきなのか、という風にだ。先にも言ったけれど、残念ながら、私たちはメディアの報道をそのままに信頼できるような時代に生きてはいないのだ。

 

現実の被災者の発言というのは、ただ恐かったとか、死ぬかと思った、とかいうのではなくて、何が起きて、どう危険だったのか、どうやって逃げてきたのか、といったことが、ちゃんと入っているし、そこに人間心理として理解できるものがある。どこに来て助かったと思って安心したとか、まわりの人が親切だったとか、そういうこともだ。そうしたことは、とても強烈な体験なのだから、そうした人の言葉には、その体験の重みのようなものが感じられる。

 

だけど、そういう詳細がなくて、ただ恐かったとか言っていたり、状況を説明してはいても、そこにその人の体験の重みのようなものが感じられなかったりする場合は、やらせでやっている可能性がある。これは、犯罪捜査で証言者の証言を、証拠として使えるかどうかを判定するのと、同じようなことだ。言っていることに矛盾があったり、他の人の証言と食い違っていたり、人間心理としておかしいような場合には、その証言は証拠として使うことはできない。

 

残念ながら、日本も含めて西側諸国の大手メディアは、すべてグローバルエリートに操作されていて、国民を一定の方向に誘導していくようにされている。そのために、相当な資金を投入して、被害者の演技をさせたり、CGで災害の場面が作られていたりする。こうしたことは、この4年ほどで、さんざん見せられてきた。こんなことまでするのかと思うような大がかりなことまで、行われていた。

 

今回の震災については、不自然な画像が多く、現状がどうなのかについて、まだ謎が多い。かなりの地震があったことも確かで、被害があったことも確かなのだけれど、どう見ても現実とは思えない画像が多いのだ。輪島の一帯は大規模な火災で200棟が焼失したというのだけれど、その焼け跡が映っているライブ画像には、人々がのんびりした様子で、ときどき写真を撮ったりしながら、歩いていくのが映っているばかりだった。家がこんな状態になっているというのに、救出作業の人たちも警察もいない。瓦礫から何かを掘り出そうとしている人もいない。一時間ほども、ずっとそんな風だった。

 

その地点から、数百メートル離れているところで、被災者のために炊き出しをしている光景が映っている映像があったのだけれど、その背景にある家は、焼けた風でも崩れた風でもなかった。場所が離れているから、被害を受けなかったのかもしれないけれど、しかし、数百メートル先に一面の瓦礫があるとはとても思えないような、のどかな空気があった。炊き出しを受けに来ている人たちも、服もきちんとしていて、あまり困っているようにも見えなかった。ドンバスやガザの画像で、食糧配給は何度も見たけれど、それとはあまりに違う空気があった。

 

電気も水道も止まっている地域があるので、食糧配給があるのはわかる。炊き出しに来ていたのは、家は壊れなかったけれど、水が出ないし、電気もなく、商店も復旧していないので、食糧を得るために来ていた人たちなのだろう。避難所の人にインタビューしている動画では、その人は電気も水道も止まっているし、余震が恐いから、まだ家には帰れない、と言っていた。だから、その人の家が倒壊したり焼失したわけではないらしい。

 

メディアの報道が事実を誇張しているとしたら、どんな目的でそんなことをしているのだろう? とにかく、人をパニックに陥らせると、思考停止状態になって、どんな筋の通らないことでも、信じるようになってしまうというのが事実で、メディア操作をしている人たちは、まさにそれを狙って、パニックを煽る報道をするのだ。

 

しかし、どんなにひどい現実であっても、現実であるかぎりは、私たちは危機を乗り越えていく力、判断力をちゃんと持っている。たとえどこをどう通っていったかわからなくても、ちゃんと安全な道を通って逃げてきたりもする。ドンバスやガザの人たちが、戦乱の中でも、それぞれにできることをして、助け合って生きていっているようにだ。作られたパニックで思考停止にされていないかぎりは、私たちは危機にあえばあうほど、生き延びていく直感力や判断力がとぎすまされもする。

 

リアルな現実とは、そうしたものなのだ。あまりに虚構の多いメディアの世界で、多くの人々はそのリアルな現実の感触さえも忘れているのかもしれないけれど、今私たちは、生き延びていくために、その感覚を取り戻すことが必要になってきているのじゃないかと思う。

 

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画像は、中島心也真也さん撮影の富士。

 

地平線、記念碑、たそがれの画像のようです

 

コメント欄より↓↓

こちらは、火災のあった輪島のライブ画像。人々がただ歩いていくだけで、やはり救出活動や撤去作業の人たちが映っていないです。

 

火災のあった輪島の地域をドローンで撮影したという画像。ここにも、救出活動の人たちが映っていない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

表紙と挿絵を描かせていただきました↓↓

 

 

 

表紙と挿絵を描かせていただきました↓↓

 

表紙と挿絵を描かせていただきました↓↓

 

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