医療は間違っている | キセキを紡ぐ Rut of hope

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こちらから転載させていただきます。

 


 新型コロナ大騒動でも、本来、ワクチン接種よりも、はるかに上位に来るべき、「感染しないための自己免疫強化」が軽視され、ワクチン接種が効果を持たなかったことによる「感染後の医療体制の崩壊」の嘆きばかりが繰り返された。
 病気になってからの医療体制の問題ばかりが問題にされ、病気にならないための視点と対策は、ワクチンや消毒、換気、マスクくらいしか問題にされなかった。

 私は、最初からワクチンを信用していなかったので、何よりも日光を浴びながら山中を5Km以上歩くことにより、体液の循環を良くして、ビタミンDを活性化するため乾燥キノコを食べ、ぐっすり寝て、体温を上げる入浴に心がけた。
 だが、行政は、森林浴のための公園施設を「コロナ感染防止」を口実に立入禁止にするという信じがたいほど馬鹿げた「対策」を行った。
 医学界から、公園立入禁止を批判する声は聞こえなかったように思う。

 私は、それを無視して歩き続けたおかげで、騒動後も今のところ感染発病はしていない。私には間質性肺炎の持病があるが、ワクチン接種は拒絶している。医療も行政も信用していないので、仮に発病しても医療に頼るつもりはない。「死んだ方がマシ」なのだ。

 私が医療を信用できない最大の理由は、医療の主題が、「診断・投薬・手術」に偏り過ぎていることにある。
 明治維新にドイツ医学が導入されたせいで、それまでの東洋医学の主題だった「患者の自己修復機能」であるホメオステーシス=恒常性維持機能が軽視されるようになり、医師が医学の権威を背景に、患者の自然治癒を否定し、論理分析による医学の力を見せつけ、患者を支配したがるようになった。
 医師は、自分の腕を見せつけることを最優先しているように見える。

 診断できなければ医療プロトコルが成立しない。診断のために、患者を傷つける数十ミリシーベルトもの被曝をもたらす放射線診断や、太い針を内臓に突き立てて検査の目的で組織を採取する穿刺細胞診などが行われるようになり、権威を振りかざして「医療被曝は被曝ではない」と決めつけるようになった。
 診断のために、患者を傷つけることが正当化されるようになったのである。
 その結果、患者がサイトカインストームを誘発して死亡しても、「お気の毒です、手を尽くしましたが……」で済ませてしまう。

 その理由は、医師が、患者に自分の「存在価値」を見せつけたいという欲求だけで患者を支配し、「患者の良き人生に寄与したい」という利他的精神が大きく不足していることにある。もちろん、すべての医師がそうだとはいわないが。
 これは「資本主義と競争主義」という、社会体制の本質的矛盾から来ている問題であって、もちろん医学界だけの問題ではない。

 資本主義は、医療にあっても「採算性」あるいは「利益」を強要する体制であり、患者の命や良き人生に奉仕するのは、その後の問題になる。 
 「病院はそういうものだ」と決めつけ、医療全体の哲学、方針の誤りによって、莫大な医療費が経済を脅かしている本質に目が向けられていない。
 医療が利益を追求することによって、医療費が際限なく膨れ上がってゆく自己再生産性が生じてくるのだ。そりゃ、患者が増えるほど医者が儲かる仕組みなのだから。

 それらの根底に、人間のホメオステーシスを軽視する誤った発想があると思う。ドイツ式論理医学という看板を絶対視するあまり、「治療」というものに対する哲学が不足し、矮小なのである。
 医師たちは、自分の待遇、社会的地位の優越性を満たすそうとするあまり、どんどん患者を増やすそうとする無意識的欲求に支配されるようになる。
 病人を減らして、自分の存在理由を小さくしようとは誰も思わないのである。

 例えば、資本主義の「金儲け要求」に従って、あらゆる利便性がダシにされる。歩くことを「不便」と決めつけ、歩かないで自動車を利用することが優越的ステータスであると思い込まされる。「楽をすることが正義だ」と、人々が洗脳されている。

 だが、「歩くこと」は、健康の基本中の基本である。歩けば体液の循環が活性化し、健康になる。歩かなければ体液が停滞して病気になるのである。
 我々の健康は、何よりも「体液の循環」に規程されている。生きるために歩かなければならないようにプログラムされているのだ。

 だから、国家財政を圧迫し、崩壊に至らしめる医療費を圧倒的に削減し、健全化するのは実に簡単だ。国民が歩くように仕向ければ良いだけなのだ。
 現在の車利用を半減させようとするなら、自転車道・歩道をネットワークで整備すれば簡単だ。それも日本海と太平洋を結ぶような長距離サイクリングロードだ。
 市街地の大半に「自転車歩道」が整備されたなら、人々は車に頼らず、歩行や自転車に頼るようになる。ふくらはぎの運動は、体液を循環させ、あらゆる病気を追放するだろう。

 そうなれば、医療費は半額以下に削減されるはずだ。簡単な理屈なのに、なぜやらない?
 それは、そんなことをすれば自動車が売れなくなると業界が政府に圧力をかけるからだ。それが「資本の論理」というものであり、病人が減れば医療業界も困るので、自転車歩道の整備には前向きにならないだろう。
 「楽をすることが正義」と思い込まされている人々の意識改革は、はるかに遠い。

 もし医学界が本当の利他思想に依って立っているなら、医療費を削減し、人々が健康のために歩くことを推奨するはずだ。
 だが、医師たちは、自分の権威や金儲けに役立たないことはしない。
 相変わらず、検査・投薬・手術だけが医療だと頑なに思い込み、治療よりもワクチンよりも、はるかに大切なホメオステーシスと予防医学に目を向けようとしない。リハビリも軽視したままだ。

 もしも私に大金があって、医療施設を経営するとすれば、どのような病院を作るだろう?
 それは、何よりも体液を循環させ、免疫力を高めるための施設を作る。それは、診断・投薬・手術以外に、温泉と歩行施設を優先して考える。一日数回も患者を湯治させ、歩かせるための施設だ。
 下呂のような温泉地が望ましいが、温泉が出なければ、下呂でも草津からでもタンクローリーで持ってくればいい。

 体を温めて、体液を循環させることが免疫力を高め、壊れた自分の組織を修復するのだ。
 歩くルートとしては、まずは森林浴を考え、日光を浴びて汗をかけるようなコースを作る。幸い、日本は森林王国だから、ほとんど無限に森林浴コースを作ることができる。
 可能ならプールも作りたい。

 これによって、医療が、「診断・投薬・手術」の一辺倒から、はるかに総合的なライフスタイルに直結したものに変化してゆくだろう。
 それは、「治療医学」から「予防医学」に変化する流れだ。医療と行政施策が一体化してゆく流れなのだ。

 それは、人々が健康の基礎、病気治療の基礎が「体液の循環」によるホメオステーシスであることを理解するところから始まると考える。
 人間は歩かなければ病気になる。歩いて疲労し、ぐっすりと眠って疲労を回復させるサイクルが、筋力、体力を維持し、脳内に溜まったベータアミロイド、タウ蛋白、レビー小体といった認知症発症物質を除去し、心身ともに健全性を維持できる。

 医療は、旧来の「治療医学」から、はるかに大きなライフスタイル全体を制御できる健康維持思想に変化してゆかなければならない。
 何よりも、脳の老化を防ぎ、体液を循環させ、免疫力を高め、認知症尾物質を除去することが最大の課題にならなければならない、と私は思う。

参考情報
  日本の医者が「ムダな薬と手術」をやめられない理由
 https://gendai.media/articles/-/49129