マンガ全部読んできましたぁ。
ヾ(o´∀`o)ノワァーィ♪
面白かったー
ヾ(o´∀`o)ノワァーィ♪
明日は午前中に打ち合わせがあるのだけど、
今から少し気が重い(え?
ちょいと違う意見とか言ったら「すぐ反論する!」とキレだすのだ。
は・・反論?
Σ(゚Д゚)
詳しくは書かないけど・・・
会社では仏のマツジュンと言われているくらいなので、
いちいち怒ったりはしないけどね。
キレやすい人、怒りっぽい人、イライラカリカリしている人は、
いつも何か足りないと思っているのかな?
そこに意識を向けたくない。
欲しいものはいつか手元に届くように出来ている。
たぶん・・・
無事に打ち合わせが進みますようにー
ちゅーことで、
チヒロサトさんのFacebookより転載させて頂きます。
いつもありがとうございます。
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【実りのある議論のために】
公開セミナーで頭頂チャクラを開けるワークをやったあとで、これまで私たちは正しさにこだわることでどれだけ知的能力を無駄に使ってきたのかに気がついた。
議論となると、私たちは自分の考えが正しいことを相手に認めさせようとして、多くの言葉を費やし、相手を批判したり、攻撃したりする。もちろん、自分が納得していることを説明するのは必要なのだけれど、それよりも相手に勝つことの方に意識が向いていて、とにかく相手をやっつけようと、言葉を重ねていることが多い。こう言われたらこう返そう、ああ言われたらこう言ってやろう、と自分の本心からも離れていって、勝つための戦いのようになっている。
本来、議論というものは、どちらが正しいかの決着をつけるための戦いではなく、多様な観点から検討して、最上の答えを引き出すためのものだと思う。たとえ正反対の見解で議論をしていたとしても、どちらかが勝つためにするべきものではなく、双方が納得するような第三の答えを見つけ出すためにするものなのだと思う。
そういう議論をするためには、どちらの側も自分の見解を変えていく柔軟さがなくてはならないのだけれど、それが多くの人にはとても難しいらしい。それぞれの見解というのも、あくまで仮説にすぎないということを認めなければ、本当に実りのある議論にはならない。反論が出されたときに、自分の仮説がそれを含み込める幅広さを持っているかどうかを、確かめる必要がある。もし持っていないなら、組み換えていかなければならない。知的能力とは、そもそもそうした検証や組み換えのために使うべきものだと思う。
スレッドのやり取りでも、自分の視点から一歩でも譲るまいとして、相手の話を聞かずに同じことを何度も繰り返している人をよく見かける。相手の反論を理解しようとするのではなく、ただ言葉に言葉を返していて、自分の見解はまったく変わらない。相手を言いくるめるために、筋が通らない論理を持ち出してきたり、前に言ったことと矛盾したことを言い出したりもする。こうなるともう明らかに頭とハートが一致していなくて、自分の本心からも離れていると思うのだけれど、そんなことは問題ではなく、ただ勝つか負けるかだけが問題みたいになっている。
多くの場合、私たちはそういう勝ち負けにものすごいエネルギーを使っていて、実りのある創造的な議論のために頭を使うということが少なくなってしまっていたと思う。
学校教育でも、一方的に何が正しいということを教わるのがほとんどなので、実りのある議論の仕方などはろくに習ってきていない。先生だって、筋の通らない規則を押しつけさせられたりしているような具合なので、生徒にこれはおかしいんじゃないですかと言われても、ちゃんと答えることすらできない。それでほとんどの人は、いつも上から正しさを押しつけられるのが現実だという意識を植えつけられて、学校を出ることになる。
そもそもちゃんとした議論を行うべき政府や議会だって、勝ち負けに終始しているような具合なのだ。政党政治というものは、あらゆる人々の立場を考えに入れて、すべての人にいいような決定をするために本来はあるはずなのだけれど、現実に起きていることはそんなことではない。どの党もたがいに勝ち負けで争って一歩も譲らず、しまいに多数決で勝った方の案が決まるのだ。何が公正なのかとか、何がいいのかということではない。どっちの側が人数が多いかというだけのことで、創造的な議論など行われてはいない。
この頃はジャーナリズムでさえ、一方的な考えを押しつけてくるようになった。一つだけの正しさを押しつけて、そうでないのはおかしいとかデマだとかプロパガンダだとかいう。こういう一方的な報道は、もはやジャーナリズムではない。これこそはプロパガンダというものなのに。
とりわけこの奇妙なパンデミックが始まってからは、政府もメディアも一方的なプロパガンダしか言わなくなってしまった。その一方で、抗議する人たちの中に、非常に論理的で実証的かつ建設的な議論をしている人たちがいるのがまさに対照的だ。オーストリアの憲法学者で弁護士のブルンナー博士は、テレビのインタビューでしつこく挑発的な質問をされながらも、ものすごい肚の据え方で冷静に鋭く、しかしやんわりと答え続けていた。ドイツのコロナ調査委員会のヒュルミヒ弁護士は、毎週5−6時間にも渡る事情聴取を2年以上も続けてきて、膨大な情報を処理しては、見解を発表し続けている。知的能力とは、本来このようなことのために使うべきものだと思う。
政治もメディアも議会も、司法さえもがプロパガンダになってしまった今、駆け引きや勝ち負けではもはや対抗することができないのだ。そうなったときに、ただ普遍的な真理に達している論理で人の心に訴え続けるしかない。正義も公正さも消えてしまったような世界の中で、真実に生きようとする人たちが、これまでなかったような輝きを見せている。あくまでも平和的に、公正に、論理的な整合性をもって語ることこそが、本当の力を持つからだ。
今の腐敗し切った構造は遅かれ早かれ崩壊していくことになるのだと思う。そうして政府も経済も司法も機能しなくなったとき、新しい社会を作っていけるのは、こういう公正さの感覚を持つ人たちだと思う。勝ち負けや利権のためではなく、公正さで語ることができる人たちだと思う。
これまで政治とは、利権をより多く得るための争いの場のようなものだったのだ。つまるところそれが腐敗を招いて、今やグローバリストのお金ですっかり買い取られてしまったようなありさまだ。だけど、この腐敗した権力構造が崩壊したとき、もはや勝ち負けではなく、皆にとって最上の解決策を出すことが求められることになると思う。
これまで数千年続いてきたピラミッド型支配の世界は終わり、循環する調和の世界へ移行するのだと言われている。今の世界もここまで崩壊があからさまになってきたからには、もう長くは続かないだろう。ピラミッド型支配の世界こそは、勝ち負けでできあがる世界だ。どっちが勝つかで、どっちが上なのかが決まる。だけど、こうした上下関係でできた世界が終わっていったときに、私たちは勝ち負けのためではなく、双方にとっていいような第三の案を見つけ出すために、私たちの頭を使うことになる。見解が右と左に分かれたら、どちらも納得できるような第三の道を探すのだ。私たち人間が授かった知的能力とは、本来まさにそうしたことのためにあるのだから。