J.ブリュア著「コミューン解釈」(その1) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

J.ブリュア著「コミューン解釈」(その1)

Jean Bruhat, Les Interprétations de la Commune dans La Nouvelle Critique, Numéro spécial: expériences et language de la Commune de Paris, mars 1971.

p.45 

 愛国的表明、籠城の熱気、共和主義的叛乱、プロレタリア社会主義的革命の黎明、巨大祭典、マルク主主義者によって鍛錬された物語となった状況の事件か? コミューンをめぐる諸解釈の周りに1世紀前から極端に刺々しいイデオロギー闘争が展開されてきた。

 

 コミューン事件とその影響の間には歪みがある。それを個別的に、かつそれ自体として考察すれば、その事件は空間と時間において要約される拡がりをもつ。空間的にいえば、地方の幾つかの都市の叛乱から離れて敢行され、首都の攻囲を粉砕するためにコミュナールがなした努力を考慮すれば、コミューンは何よりもまずまったくパリ的な一事件である。時間的というのは、コミューンは72日間しか続かなかった。それにもかかわらず、コミューンの範囲は少なからざるものがあった。

 まず、短期的影響力。コミューンについて反省なくして、人は第三共和政の船出を理解することができないだろう。コミューンは鎮圧された。しかし、他の多くの影響のなかでコミューンは首都「人民」の国家の共和政体への執着を明るみに曝した。明らかにコミュナールはこの共和政体に対し、オポルチュニストの共和政のそれとはまったく異なる社会的中身を与えた。だが、コミューンの存在そのものが王政復古の発展の挫折に大いに貢献した。以上がジョレスの見解である。

 「今まで類例がないほどにエネルギーが消尽されたとき、共和政を救ったのは、滅びるよう判決を受け、しかも英雄的なこのコミューンであった。」

 

 この解釈を深めるべく多くの関心が寄せられたが、研究の現段階においてはこの解釈は、私の見るところ、正確とはいえない。いずれにせよ、1897年に『ラ・ルヴュ・ブランシ La Revue Blanche』誌によってなされた「コミューン調査Enquête sur la Commune」から引きだされた見解がこれである。ルイ・フィオー(Louis Fiaux)を例外として、尋問を受けたすべてのコミューンと同時代の人々は次のように評価する。すなわち、ジョルジュ・ルナール(Georges Renard)の公式によれば、コミューンの第一の結果はフランスで「共和政体を維持し課すことであった。この政体は空っぽの4分の3において、真に民主主義的中身を約束し促すという利点があった。」これはロシュフォール(Rochefort)、アルフォンス・アンベール(Alfonse Humbert)、ラン(Ranc)、エドゥアール・ロックロワ(Edouard Lockroy)、ルイ・リュシピ(Louis Lucipid)、シャンピー(Champy)、ブリュネル(Brunel)、レア・メリエ(Lêa Meliet)等々が導きだした結論である。一方、短期間活動したのは1879年以降(マルセーユ大会)、フランスの労働運動が新しい状況下で、新しい指針をもって前進をとり戻すのはコミューンの経験のせいであった。コミューンとマルセーユ大会の結論の間に直接的な関係あろうとなかろうと、ロンドンに亡命中のコミュナールによってマルセーユに送られた檄文にその証拠を見出しうる。というのは、コミューン以後8年そこらの短期間にコミューンで活躍した人々がその事件に興味深い意味を、もっと正確な言い方をすれば本質的な意義づけを与えたことを確認するのはすばらしいことであるからだ。

 「コミューンの運動はそれに先行する運動になおまだ多くの性格を提供した。その解放の敵によって最も不都合な時に人民によって課されたこの革命はなおまだその細部においては状況の所産、即興劇であった。全体的に、かつその思想において考察すれば、コミューンは巨大な影響力をもつ歴史的事件を構成する。それは労働者階級の政治権力への就任である。勝利あるいは敗北のいずれも何ものにも代えがたい。各人は知っている。労働者は自らを解放するために経済的従属の表現であるブルジョア政治機関に手をつけるだけでなく、それを完全に変えることが必要である。ブルジョア的見地からすれば、すなわち、経済的現状および大衆の恒久的な従属の見地からすれば、これ以上に合法的なものは何もない。そのことに十分注意せよ。何人も思いちがいをしてはいけない。つまり、世界中でプロレタリアはコミューンを宣言し、特権的諸階級はそれを呪うのだ。」

 

 上掲の宣言の一語一語に注釈を入れるに値する。この宣言全体を通してすでにマルクスの分析『フランスの内乱』のインパクトを評価することができるだろう。一般に世論はコミューン前夜にはマルクス思想をほとんどまったく知らなかったのだ。

p.116  要するに、コミューンの影はほとんどすべての綱領と共和政初期の歴史を支配しているのだ。コミュナールへの恩赦のためのキャンペーンは政治的キャンペーンである。

 一方、もしコミューンの長期にわたる影響力をもっていなかったと仮定すると、コミューン百年祭に際して、人がなおまだその意義について幾ばくかの情熱を込めて論じる事実をどう理解したよいか? 人々が語る「モデル」について正しいにせよまちがっているにせよ、一つの時代において人々は「モデル」としてパリ・コミューンを呼び覚ます事実をどう説明したらよいか? 20世紀の最初の4半世紀中にレーニンは革命的経験に対するあれこれの関心をはらったことをどう説明したらよいか? 結局のところ、その経験は彼の生誕とほとんど同じ頃に生起した事件であった。われわれが今日、あらゆる方位での「回復」の試みに直面しているのをどう説明したらよいか? したがって、ルネ・レモン(René Rémond)が次のように書いたのは正当であった。

 「その十分な偉大さが諸世代に課した大革命からなされた例外としていかなる人民蜂起もこれほどに深遠にして、これほど長続きする足跡を残してはいない。オルレアン派の終焉の栄光の3日間も、力の実験の短かさのゆえに48年の2月さえも、6月の戦闘もまた、1871年の出来事に匹敵することができない。」

 このようでないならば、フランス大革命の修史上の諸問題がじっさいそうであるように、コミューン修史の諸問題は存在しなかったであろう。1世紀間、コミューンの問題に先行した幾つかの追憶があるのはこのような関心からである。

 

ヴェルサイユ派による解釈

 コミューン期とコミューン直後にまず最初にヴェルサイユ政府による解釈が先行した。幾つかのテーマは周知であるが、それらを想起する必要がある。なぜならば、それらのテーマは異なったかたちのもとに再現しうるからである。

 第一に、山賊のどん底の人々の表面への登場のテーマがある。『両世界評論Revue du Deux Monde』誌と『通信Correpondant』誌の立派な編集主幹により使い古された語彙を参照するだけで十分である。

 「邪悪は無頼漢」「頭の狂った奴」「憤激において十分に明快な融通の利かないバカ」「70日間のお祭り騒ぎ」「民衆扇動的な蝮」「陰気なカーニバル」「残酷さと同程度におどけた天啓」「パリは野蛮人から3度救われた」

 3度だって? 最初はロベスピエールの失脚、2度目は1848年6月のパリ労働者の弾圧。革命的継続(すなわち一種の血統)への意図せざる賛辞! 「野蛮人」だって? ヴェルサイユ派は1831年11月のリヨン職工カニュについて使い古された言葉を復活させた。真実の野蛮人は今後、わが町の内部に所在することになる。『政治通信』紙のいつもの編集主幹シャルル・ド・マザード(Charles de Mazade)は1871年6月1日に『両世界』誌にこう書いた。

 「けっして、けっして、人類が社会に生きるようになって以来、このような大破局は世に轟くことはなかった。罪によって組織化された小川のEcrostratesの妄想〔?〕は陰気な蛮行のこれほどまでに行くことはなかろう。彼らは3月18日の殺人行為によって事を起こし、恐怖の横領によって統治する。2か月もの間彼らはパリをあらゆる飢えから生まれる邪悪な行為の、あらゆる恥辱の獲物に群がるヨーロッパ中のあらゆる冒険家が寄り集まる場所としたのだ。」

 このテーマは階級的憎悪と階級的恐怖を滲出させる。それは1871年に始まるのではない。そのテーマはそうした感情が表れて以来、労働者階級を危険な階級と同一視する者の振る舞いとしてあらわれる。

 「ブルジョア住民の労働する階級に対する態度は、その性質の大部分を町に属さない者としてあらゆる罪、あらゆる伝染病、あらゆる害悪、あらゆる暴力の容疑者と見なされる人民に対する古い態度から借り受けたのだ。」

 そのとおりだ。この労働人民は悪く言われない。なぜというに、彼らは多かれ少なかれ最近町に「移住し」てきたからだ。階級闘争を一つの場所に定住した流浪民の対決と取りちがえしないようにしよう。社会的分離は当時、客観的条件である。人々はそれを不道徳と秩序の考察によって正当化することを主張する。植民地的現象を引きずる白色の人種差別主義は人種の不平等理論によって白の黒に対する支配を正当化する。

 このジャンルの主要な作品は1871年11月10日に掲載された。だが、日付は3月3日の『コレスポンダン』紙に掲載されたヴィクトル・フルネル(Victor Fournel)の「詩」である。コミューンが間借り人に対し家賃3期分の繰り延べ支払いを決定し、ヴェルサイユ軍のクールブヴォワ(Courbevoie)の円形広場の方角に斥候を派遣したその日のことである。その「詩」から幾つかの抜粋を以下に掲げておく。

これらならず者はどこから、どんな穴、どんな洞窟から来るのか?

 どんな地獄がこれらの餓鬼を吐き出すのか?

 胴まで血の海に浸かる悪の徒刑囚

 悪徳により鎖に繋がれた罪!

 おお! 卑しい下層民、貪欲なペテン師、吸血鬼

 フルジア帽を被った奴

 プルードンが「譫言をいう悪党」と名づけた汝

 そして、プルードンが熟知している奴

 魚、血、ぶどう酒、泥の沈殿物

 これら出来損ないの群れは罪の破裂によって

 無の状態から免れるものと信じている

 

 明らかに1971年、ヴィクトル・フルネル以上に人々はコミュナールについて語る。が、影の一瞬を引きだしたにすぎないのだが。しかし、ここではヴィクトル・フルネルという人物のみが問題なのではない。最も著名な著作家たちでさえ、コミュナールについてこのように語ってということだ。