J.メートロン編「フランス労働運動人名辞典 第4巻」第2部 はしがき (その2) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

J.メートロン編「フランス労働運動人名辞典 第4巻」第2部 はしがき (その2)

 

p.17

 本報告の起筆以後におけるわれわれの野心はインターナショナルとコミューンのスタッフの全体を示すことだった。インターナショナルについては説明した。地方とパリのコミューンの問題が残されている。次いで、コミューンのスタッフについて述べるが、それに関してはいかなる基準を用いるべきなのか? 

 地方については地方の謀反に参加したゆえに有罪判決を受けるか、あるいはこれこれの資格で首都への連帯を表明したゆえに有罪判決を受けた者のすべての名をわれわれはつかんでいる。

 パリについては第一の基準は有罪判決者のそれを採用した。そして、放免もしくは公訴棄却された者は原則として(公訴棄却が死亡に因る場合は除)は『辞典』から削除した。コミューン運動の際に異なった場所に住んだ脱走者、同時にコミューンに対し同調者であったとされる一般法の有罪者も同じく除外した。後者の例はいずれの場合も幾つかのポイントすなわち10ポイント以下の問題である。

 これら有罪者を再発見のために、われわれが使用した重要な史料は次のとおりである。インターナショナルについて既述の史料からの抜粋。われわれは12,000件もの書類を体系的かつ完全に分析した。

 国立古文書館BB24、BB27、Série H(植民地の流刑者)。

 軍法会議(欠席裁判)で表明されたコミュナールの個人調書15,000件。国民衛兵中央委員会。大隊とクラブに関する史料を含む数百個の段ボール箱。さらに、徹底的な研究がなく新たにやろうとすれば解析に数年はかかるような史料、また、非常にしばしばすでにBB14に分類された史料に再び出くわすこともあったため、われわれは欠席裁判の検討のみに限定した。

 これらを整理するに際し、われわれは、パリ警視庁古文書部が保存する「インターナショナル」の箱と個人調書の整理をつけ加えた。

 最後に、コミューンのある特殊グループをリスト化するようつとめた。これらグループはインターナショナルの外に同業組合(corporation),フリーメーソン団、外国人である。M.ラコテ(Lacotté)のおかげでわれわれは、国立図書館が所蔵するフリーメーソン団史料を参照できた。この史料はわれわれに、1871年5月5日のパリ・コミューンへの参加声明に署名した同業組合とフリーメーソン団のリストを知らせた。p.18 ベルギーでは外務省古文書部の文書119—Ⅱのおかげで、パリ蜂起に参加したかどでフランスで有罪判決を受けたベルギー人を枚挙できた。他のケース、たとえばポーランド人やルクセンブルク人についてはM.ウィクザンスカ(Wyczanska)の既発表の業績『1871年のパリ・コミューンの政治』やJ.ソレル(Sorel)の『ルクセンブルクとコミューン』の業績を利用した。最後に、スイスでわれわれはM.ヴィヨーミエ(Vuillaumier)の貴重な協力を受けた。彼はその国でのコミューン追放者についての博士論文を作成している。これらすべての同業組合員とフリーメーソン団員、外国人(ベルギー人、ポーランド人、スイス人、その他)はカテゴリー別に分類されている。

 要するに、既述の協力者やストライキ推進者の外に、1万人の有罪判決者と3,300人の欠席裁判による有罪者 ― 1875年におけるアペール将軍の報告 ― がいる。彼らはすべて労働運動に関与したのか? 可能な場合、われわれはブランキ崇拝者、プルードンの弟子、通常「ジャコバン」といわれる者を示した。コミューン多数派と少数派は双方とも労働条件の改善のために働いた。幾つかのケースではそれは複雑である。H.ロシュフォール(Rochefort)は民主主義者・社会主義者であると自称していた。しかし、彼はその問題について「消防夫と放火犯を混同」しなかったか? 彼の行為、書きもの、判決理由はわれわれのリストに彼を入れている。今日、ビセートル要塞にほど遠くないところの街路がブノワ・マロンとドレクリューズの名をもつ。ポール・ラファルグはそこではバブーフと隣りあっている。しかし、そこにはまたロッセルがいる。ロッセルはその生命をコミューンに捧げたが、しかし、就中、彼の態度は国の仇討ちしようとする愛国者の態度であった。指導者たちの移動が複雑な場合、政治的確信もなく30スーを獲得するために発砲した国民衛兵、ドイツ軍の出現で動揺したパリ市民、1944年の夏の間に起きたことに倣い、一つの「集団的」感情による参加者をどのように区別したらよいか?

 これらの流動を知り判断することは不可能であるばかりでなく、これらの人々はすべてコミューンを「おこない」、コミューンのために、また、コミューンゆえに災難を受けた。すべての有罪者を心に留めおくことは、ひとつの易しい基準を選択することにとどまらない。そのことは、その人たちによってコミューンが事後に労働運動の軸の象徴となったすべての者に位置を与える試みとなる。

 

 だが、ヴェルサイユ軍による銃殺者の問題が解明されないままに残っている。彼らの数はいくらか? 2万人か、2万5千人か? だれもそれを知らない。しかし、彼らの数はおそらく1万7千人は超していたと思われる。この1万7千という数字はパリ市議会が支払った葬儀費用に相当する。これら死者をどのようにして再発見するのか? 明らかに幾人かの人物は知られている。p.19  ヴァルラン(Varlin)、リゴー(Rigault)、ミリエール(Milière)、トニー・モワラン(Tony Moilin)…らが含まれる。しかし、これらは特殊ケースにすぎない。コミューン崩壊後10年間、外国のどこでもその痕跡が見出されない欠席裁判による有罪者は明らかに血の1週間で死んだものと見なすことができる。われわれは彼らを忘れないようにしよう。最後に、可能なかぎり、幾千もの戦士のこの消滅を言いつくろうために、われわれは『コミューン官報』と『政治ポスター集成 Murailles politiques』を紐解いて、たとえ無名の者であってもコミューンの72日間に紙上に掲載され、かつ有罪判決者中に含まれないすべての者の名を浮上させた。彼らは裁判なしで銃殺されたことは疑いない。地位あるコミュナールのケースに終始し、彼らは多数いるが、その名は新聞やポスターの下部にけっして出てこない。これら無名のコミュナールは本『辞典』から抜け落ちている。そして、その理由のために第1巻の冒頭の匿名の大衆について若干の記述がなされているのだ。

 

 『辞典』第5巻でくり拡げられる肖像のこのギャラリーの提示の結果、インターナショナルとコミュナールのどんなイメージが引きだされるのか? われわれは予断をもちたくなかった。われわれは、単に利用された史料の10分の9が警察の出所であり、かつ反インターナショナル、反コミューンの性格をもつことを明らかにしておきたい。注意深い読者はその多数の例を見出すであろう。一つの例に限って示せば、われわれはなぜ暴行罪による罪刑がコミュナールの犯罪記録に登録される例が非常に多いかを理解できなかった。知名度の高い、あるいは有力なミリタンの評判を悪くするための試みなのか? この当時の表現の特殊な価値および穏やかな価値のせいか? われわれは疑問を発するだけで甘んじよう。

 

 われわれは野心を述べたので、今度は同時に意図の限界を細かく述べてみよう。

 じっさい、新たな発見があったとしても、われわれが提示する表を根本的に変えるものではないとしても、コミューンに関するのと同様、インターナショナルに関して、そして、外国では明らかに新しい要素がもたらされるであろうことは確実である。第一インターナショナル・フランス支部の歴史、パリ・コミューン史、地方コミューン史は(表現が歴史である意味をもつ範囲内で)集団的探究が国際的範囲にもたらされたのち初めて、決定的に言いうる方法で実現されるであろう。このことが本『辞典』の第一の限界を規定する。

p.20   しかし、別の留保もある。われわれは明らかにわが人名辞典に精確さを付与するために大きな努力をはらった。しかし、それで言っておかねばならないことがある。たとえば、われわれは当該区役所への手紙により、18,000件もの戸籍を確認することができた。弾圧の時代におこなわれた調査の結果、幾人かのコミュナールはその過去を偽るために偽りの宣言をしていたのだ。

 人名の単純な綴りはわれわれに永続的な問題を投げかける。『コミューン官報』ないしは『議会査問録』… 新聞一般またはテステュ(Testut)の著作、ましては諸々の国の警察によって作成されたコミュナールのリストをひも解く人はなんとまあ、多くの綴りで表記されているかを悟ることだろう。『辞典』を引くことを最大限容易ならしめるために、われわれはこれらの各種のものの転写を増やした。われわれは敢えて主張しようとは思わない。例示してみよう。Baudoin,  Baudoint,  Beaudoins,  Beaudouin, … 第1巻でわれわれがChampeauxと綴ったのをChampseixと訂正したように、同様の例は幾つもあるだろう。

 

 結論としてわれわれは本コレクションの「はしがき」で記したように、いま一度、これがわれわれが辿る最初の足跡であることを主張しておきたい。意図された作品をよくするために、われわれのうちの幾人かは多年の類例なき努力を惜しまないことに同意した。彼らが『辞典』の利用者側の理解を望むとしても、彼らは寛容さを要求せず、建設的な批判を提示し、すでに出版された巻の誤謬および脱漏を訂正した人たち、さらにいつの日かそれをなすであろう人たちに対して感謝を垂れるものである。本巻の冒頭にその名が想起される者たちは地方のために、『辞典』に優れた豊富化をもたらした。われわれは彼らに心底からの謝意を表したい。Edition ouvrières社 の編集者、そしてこの仕事の編集のために喜んで協力していただいた同出版社のすべての人々にも感謝を捧げたい。

J. Maitron et M.Egrot

 

終わり】