J.ブリュア著「コミューン解釈」(その2) | matsui michiakiのブログ

matsui michiakiのブログ

横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

J.ブリュア著「コミューン解釈」(その2)

 

大天使の剣

 このテーマに正反対のテーマが対峙する。すなわち、果敢な英雄としてヴェルサイユの兵士を称揚することがそれである。コミューンは野蛮な行為として、また、自発的騒乱はヴェルサイユ派の諸新聞につねにあらわれる社会的混乱の企図であるため、p.117、すべての手段が利用されねばならなかった。そして、勝利をおさめた軍隊は血の1週間から「偉大となって」出てくるはずだ。かくて、ヴェルサイユ軍はプロイセン軍から蒙った敗北を贖うことになった。

 われわれの第一の思想とは、自己犠牲をもつのと同等に雄々しい単純さをもって、その義務を履行したこの軍のために報いを施さねばならなかった。

 ティエールは正当にもしばらく時間をおいた。なぜというに、彼にとってはビスマルクの援助を得てこの軍隊を再編成するためには時間を要したからだ。軍隊が借用されたとき、

 「それは徐々に謀反を火と鉄のサークルで囲み、一瞬さえ逸らすことなくその大胆不敵さを所定目標に向かって進撃させることができた。そして、このことは、『それらをコミューンの最後の残党がわが兵士らの勝利を呼び込む銃撃下で息を引き取ることになるペール=ラシェーズの死の砦』にまで続く。われわれはこの作戦 ― 慎重であるとともに英雄主義をもって実行され、必要であると同時に痛ましくもあるこの作戦 ― においてわが諸将を、わが兵士たちを、最後にわがフランス軍を見出さねばならないのだ。」

 スダン、メッスののち、軍隊がパリで見出されたのはじっさい、こうした思想のもとであった。「わが軍はちに再発見された」1871年6月15日の『通信』は以下の文を掲載した。「スダンとメッスでの投降後、われわれが言うことを許されなかった事がらを今日言うことができる。すなわち、フランス軍が実在するということを。」『通信』の同じ号はカミーユ・ド・モー(Camille de Meaux)子爵の発言を引用する。つまり、「軍隊は国際的デマゴギーに対するヨーロッパ的秩序の戦争と一戦交え、これに勝利した。」以上のことはまた、ジュール・フェリー(Jules Ferry)の見解でもあった。彼は1871年6月2日に書いている。

 「私はそれを目撃した。復讐熱に燃えたつ兵士の良き秩序 ― 自由主義的で、合法的で、共和主義的な秩序 ― に祖国愛に燃える農民の復讐を目撃した。私はこの目でこれらのものを見た。私は、自分が天使の剣を見ているかのような想いにとらわれた。」

 ブルターニュで一つの不満が渦巻いていた。「マクマオン大公、マジャンタ侯、仏軍元帥の生涯の真実の物語」ブルトン語における文学はすべて吹聴されたが、それは反コミューン的かつ反共和主義的プロパガンダを暴露するものだった。そのプロパガンダを通じて人々はブルターニュの農民を「サタン、つまり連盟兵の将軍」に向かって突進するよう促す。ピア・ド・サン=タンリ(Pia de Saint-Henri)公爵夫人はいま一度書く。「フランスの首都を未曽有の忌まわしい体制から解放のためにやってきたわが軍にどれほどの賛辞を捧げたらよいか知りたいものだ。したがって、その勇敢な指揮官に対する名誉を与えたまえ! 大胆不敵な兵士に対して名誉を授けられんことを!」

 パリ人民に対する軍隊のこうした干渉において、そこでなされた賛辞において、労働者側からこの反軍国主義の起源の一つが存在する。「新兵卒提要Nouveau Manuel du Soldat」において、株式取引所の秘書局のペルティエ(Pelloutier)の後継者イヴトー(Yvetot)は1903年に思い出す。「プロレタリアートが幾千となく秩序の擁護者の銃撃を受けて転がった1800年、1848年、1871年の大殺戮を。」

 

陰謀のテーマ

 3番目のテーマは陰謀である。それは軍法会議の裁判長アポール(Apport)将軍が推進した。

 「(コミューンの)倫理的要因はこうだ。労働人民は秘密結社、すなわちインターナショナルとジャコバン主義に結びつけられた雑多な党派のプロパガンダにより堕落させられた精神をもつ。私が思うに、社会的底辺の諸階級は彼らが仰ぎ見る物質的享受の所有に行き着こうと欲した。堕落したこの精神はデマゴギー党派のメンバーにより籠城期間中に利用された。私にとって確かなことは、これらはインターナショナルと、この叛乱に火を放ったジャコバン派の陰謀家である。」

 以上のことはF.ド・ラジュヌヴェ(De Lagenevais)という名の人物の見解である。『両世界評論』誌の1871年4月1日号は述べる。

 「すべてが善に向かう。いたる処で生活を再興し、労働は再び活力を取り戻し、台地が肥沃さを約束する最初の太陽光線の下で開かれ、精気が精力的かつ豊かに迸る。だが、インターナショナル・クラブの場合は苛立つパリと用心深い地方がこの機会を狙い3月18日の襲撃を企てるのだ。」

 もしもっと慎重なティエールが陰謀の実在を公言するまでいかないまでも、彼はインターナショナルを「無秩序の補助者とか、もっと頻繁に無秩序の扇動者とかで」非難する。インターナショナル勢力の過大評価や、結局のところ、プロイセン政府とこのインターナショナルの間に何らかの密計が存在したとの仄めかしである。なぜなら、1906年になってもなおグブリエル・アノトー(Gabriel Hanotaux)は3月18日蜂起に関する査問会の陳述で書いている。「インターナショナルはドイツにおいて広範囲な関係を、おそらくはいかなる手段も無視しなかったビスマルクの取り巻き連とも関係をもっていた」、と。

 

籠城の熱狂

 もう一つのテーマは籠城の熱狂である。その論調は議会査問会における陳述によってジュール・フェリーが提供した。

 「蜂起の決定的要因が数あるなかで、私はまず第一にパリ住民の精神状態を挙げたい。私は自身でそれを『籠城の錯乱』と名づける。」

 これこそ、その後を生き永らえた解釈である。その解釈は非常に純粋なかたちでシャルル・セニョボス(Charles Seignobos)において再び見出される。じっさい、『フランス現代史』(刊行は1921年)第4巻は次のように述べる。

 「籠城末期のパリ住民は目撃者により『道徳的泥酔』『精神錯乱』「籠城の錯乱」と呼ばれる尋常ではない状態におかれていた。幽閉、無為、栄養失調、アルコール中毒、愛国的落胆、統治者への苛立ちが生じさせた病的状態がこれである。」

 セニョボスがこの「精神状態」を特徴づけるために用いた要素のそれぞれは注釈と反証を必要とする。然り。幽閉の無為は確実に存在した。だが、いったいだれが出撃戦を怠ったのか? 然り。食糧は不十分だった。だが、1871年1月6日以降、共和主義中央委員会は割当配給の民主主義的組織を要求しなかったのか? 通常より強度のアルコール飲酒がおこなわれた。p.118 然り。だが、国民衛兵の無為懶惰についてだれが責任をもつか? 他方、これらの過度の飲酒によってコミューンの全体の運動を説明することはできるのか? また、大きな革命的諸決議に関して同じような議論をほとんど進めることがなかったか? 世論のあるところ、セニョボスは以下の2つの政治的説明のみを認めている。すなわち、「愛国的落胆」と「統治者への苛立ち」の2つだ。ところで、マニュアルの著者たちの世代は半世紀前からセニョボスのこのページを引き写してきたのである。

 

カティリーナ(Catilina)からヴァルラン(Varlin)へ ― エティエンヌ・マルセル(Etienne Marcel)を通して ―

 もう一つのヴェルサイユ派のテーマが生まれた。歴史は「下層民」の奮起により一時代を画す。カティリーナの陰謀へ遡及すること。コミューンは「嫉妬と改良された破壊的処置によってカティリーナの陰謀のひ孫」である。古代ローマの言語でいえば、「ローマの執政官が監視するCaveant consultes!」この言明は現代的公式をもって代替しなければならない。「正直な人々が監視するCaveant omnes loni!」 カティリーナは文字どおり、この反動的であるとともにラテン的「素養」をもつ知識人に煩くつきまとう。証拠にマルシアル・デルピ(Martial Delit)報告そのものもサルティウス(Sallute)〔訳注:古代ローマの執政官、後に歴史家〕を引用して結論づける。「3月18日蜂起を特徴づけるために」ローマの歴史以外に説明しようがない。他の著作家たちは1588年におけるパリ・コミューンのような、さほど遠くない陰謀を呼び起す。

 「大胆な少数の人々は首都の権力を奪取するために戦争がつくりだした状況や外国の存在を利用しようとした。… これらすべては16世紀末にすでに存在していた。」

 1872年に刊行された著作中でエドガー・ブルロトン(Edgar Bourloton)とエドモン・ロベール(Edmond Robert)は時代を貫くコミューンに憤慨した長い歴史物語を示す。

 「パリ・コミューンによって3月20日に諸県に宛てられた檄文はただひとえにエティエンヌ・マルセルの書簡を想起させる。」

 ここで問題になっているのは1358年7月11日の「王都」の書簡のことである。わが著者は神聖同盟、1648年のバリケード、1789年革命の内乱、1793年のコミューンについて語る。

 ヴェルサイユ派の解釈の選択。これらのテーマを使って完全に使い古されたテーマの幾つかはもはや前に進まないか、あるいは非常に細心な注意をもってのみ持続する。コミュナールを通常の侵犯者と見なすことはもはやほとんど問題にならない。インターナショナルの陰謀説はほとんど棄却された。おそらく人はもっと遠くまで、すなわち、インターナショナルの役割の過小評価まで行きつくのか? 「籠城の錯乱」と「愚挙」はより長く持続し、いたるところで唯一とまではいかなくとも、少なくとも部分的な説明として使われている。結局、或る著名な博士がこの本を出したのはようやく1914年のことである。

 「明らかに大部分のこのドラマの積極的役者は狂人とまではいかなくても半狂乱の状態に追い込まれた身体的欠陥を示している。」

 

コミュナールから見たコミューン

 さて、もう一つの側面がある。すなわち、コミューンの生存者とコミューン側に与した同時代人の生き残りによるコミューンの解釈がそれだ。しだいにコミューン史家はコミュナールそのものに負う物語 ― リサガレーの『コミューン史』を例外として、各史家はこの作品を称揚するが ― を軽視する傾向にある。ヴェルサイユ派が「下層民」蜂起の先例を過去に求める傾向にあるとすれば、コミュナールもまた、少なくとも結局のところ、貴族の手紙をうち明ける。過去の「知識」は階級の精神により支配される。持てる者の側に立つ者はカティリーナを呪い、搾取される側に立つ者は彼を称揚する。ブノワ・バロン(Benoit Balon)の著書のタイトルそれ自体つまり『フランスのプロレタリアートの3度目の敗北』がこのような先入見を暴く。さらに最初の数ページを捲ると、著者は「歴史的先達」を呼び覚ます。グラックス、カティリーナ、カルタゴ傭兵隊、ガリアのバガウダエ叛徒、パスロー(Pasoureaux)〔訳注:1320年の羊飼十字軍〕、ジャック・ド・フランス、フィレンツェのチオンピ、フランドルの白頭巾党、ステンカラージンのロシア農民、ドイツの再洗礼派、リヨン労働者、1848年の叛徒。1871年の「コミュヌー」は「犠牲者、被略奪者、奴隷、被中傷者」の歴史の運動として位置づけられる。以上はエドモン・レペルティエ(Edmond Lepelletier)の見解でもある。彼は「1871年のコミューンの歴史的系統」を再発見することを求めている。コミューンという用語の魅力を部分的に説明するものはそれが闘争の過去を参照するからである。

 「危機のあらゆるときにパリの人民は叫ぶ。コミューン! まさしく助けてくれ!と叫ぶがごとく、あらゆるパリ蜂起は多かれ少なかれ長続きするコミューン権力の樹立に、市役所での多かれ少なかれ革命的権力の樹立に行き着く。」

 したがって、コミューンは歴史的ラッパであると同時に、政治的・社会的組織の未来形態の覚醒でもあった。コミュナールの精神状態において過去に属するものと未来ビジョンを連想させるものとを区別するのは非常に困難である。

 しかし、いずれにせよ、コミュナールの物語はすべてコミューンという用語の解釈が何であれ、パリ蜂起の社会主義的性質を肯定する。リサガレー、ルフランセ、アルヌー、ブノワ・バロン等々を問う場合も然り。あまり知られていず、しかし、それだけに特徴的な例を引いてみよう。アルティード=ジャン・クラーリ(Arstide-Jean Claris)がそれだ。ブランキの『危機に立つ祖国』紙のかつての協力者にして、後にはヴァレスの『人民の叫び』紙の寄稿者となった彼はコミューン期には新聞局の編集主幹であった。彼はマルクスとインターナショナル総評議会に対し敵対的な態度をとった。1872年9月、彼がコミューンに与えた解釈はいかなるものか?

 「1871年3月18日の革命はその未来への影響、その近い将来への結果によって普通の革命の枠を外れている。3月18日までじっさい、人民の諸要求はほとんど政治的でしかなかった。p.119 以前の革命は共和主義の諸原理の名において人民主権の名においてなされてきた。社会的諸要求は第2波の位置でしかない。パリ・コミューンは社会主義理論の適用を始めるという栄誉をもった。」

 生き残りがわれわれに提示する鏡に従ってコミューン研究をなすのはおもしろく、また、建設的であろう。コミュナールにとって根底の世界を変更することが目標であることを確認するために一致がある。結果として彼らが失敗したとしても、また、すべての者がこの「計画」から同じく明瞭な意識をもたなかったとしても、彼らの「計画」を忌避することができるであろうか?

 思うに、世を変える意志をもつ者にとって収斂があるならば、用いられた手段の意味について相違がある。『フランスの内乱』の名で知られている檄文においてマルクスが展開したように、インターナショナル総評議会の解釈がある。1871年以前にリサガレーが「奥深い論理」のこの報告を呼び覚ましたことに着目しなければならない。この報告はレーニンが再び取りあげ発展させた。ダニエル・ギラン(Daniel Guirin)はマルクスの原文において『資本論』の著者の無政府主義テーゼへの一種の賛同を見ている。人々がそれを読み再読するようになったとき、われわれはダニエル・ギランに対しインターナショナル檄文をいま一度読みなおしてみることを訴えたい。マルクスにおいてはもはや単なる解釈の問題ではなく、コミューン実践の理論家が問題なのである。

 「この経験を分析すること、戦術の教訓をそこから汲み取ること、その理論を篩にかけるためにこれを役立てること、以降がマルクスが固執する作業であった(レーニン)。」

 然り。そして、この点ではダニエル・ギランはまちがっていない。コミュナールはブルジョア国家を破壊するよう導かれた。だが、彼らの経験はマルクスに対しては国家の廃墟の上に新しいタイプの国家を創立する必要を確信させた。したがって、マルクスによって使われたあらゆる公式を想起する必要がある。 

 「中央委員会 … 臨時政府」「労働者階級の政府」「労働の経済的解放を実現するのを可能ならしめる遂に発見された政治形態」?

 『ゴータ綱領批判』においてマルクスが「資本主義社会からと共産主義社会」への「政治的過渡期」によって提起された諸問題の研究にたち戻ったとき、彼が再び取りあげた討論のすべてがこれである。