P. オーベリ著「コミューン詩と歌謡」(その1) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

P. オーベリ著「コミューン詩と歌謡」(その1)

Pierre Aubéry, Poésies et Chansons Populaire de la Commune.

 

  コミューンは解釈が難しい事件ではないし、類例のない非合理性の爆発でもなく、精神錯乱した暴力の激発でもない。それは既存秩序の恒久的な圧力により抑圧されたフラストレーションと緊張が外観上の静寂をうち破り、沈黙を抑制された大衆感情や要求を弁論と行動によって白日のもとに晒しだした決定的な瞬間であるにすぎない。政治的・経済的秩序に関するコミューンの諸要求はおそらく常に約束され、未だ一度として実現されたことのない平等と友愛に関して栓を抜かれた社会革命に向けた渇望と比較すれば、根本的でもなければ、さして本質的な変化でもなかったであろう。ずいぶん前からその本来の組織、すなわちアトリエや職人組合の中で誕生した労働階級の幾つかの要素の間で団結と友愛の堅固な伝統があった。そうした伝統は特に親睦会や陽気な宴会趣味のかたちで表現されたが、その場で人々は民衆に人気ある歌を合唱した。コミューン期間中、バリケードの陰で人々はこのレパートリーをくり返し、それに1789年の革命から継承した愛国歌謡を付加した。少し時間が経つと、牢獄、流刑地、孤独と無力感の中で「血の1週間」の生き残りたちは詩と歌をつくり、コミューンの偉大さと同志の殉死を崇め、階級敵を軽蔑し、「インターナショナル」示されるような歌謡において労働者行動計画の輪郭をなぞった。この「インターナショナル」こそ、革命思想の労働者の中への普及という点でp.48 あらゆる理論家たちの作品よりもおそらく大きな効果を挙げたことであろう。コミュナールの間での偉大な詩的活動のこの時期は、即席裁判による死刑・投獄・追放により指導者を失った労働者階級にとって非常に大きな政治的力を示した時期でもあった。言葉というものはそれが指し示している無きもの、再び地に落ちた革命的高揚に代替はできなかった。少なくともそれらは上げ潮の世代に檄を送り、今日なおもわれわれの意識の中に鳴り響き、われわれの心を揺り動かすことのできる未来への檄を投げかけている。

 コミューン、それに参画した人々、その思想、その文献などについて語ることはとりもなおさず、フランス労働者の中で最も貧しく最も恵まれない者の間で生まれ、青春の全期間をそこで送った者にとっては、私自身の家族、私のすべての友人、戦友について語ることに等しい。私もまた、抑圧とその時代を奇跡的に生きのびた「老人の中の老人」であるかのようだ。

 コミューンの詩は流血をもってフランスにおける階級闘争の暴力と激烈さを例証する。私が生まれ育ったフォブール(場末町)ではブルジョアはほとんど住んでいなかった。しかし、彼らは彼らの子弟がわれわれとけっして接触しないように警戒していた。さらに、その子弟はわれわれとは別の学校に通った。もし偶然にわれわれの一人がそこに入学するようなことがあれば、その人は身のほどを思い知らされた。大人になるまで、私はただの一度だってブルジョア階級のメンバーと個人的関係をもっとことがない。1940年のドイツ軍占領期、私はそれを得意がるほどであった。その時は1871年と同じく反動派が権力を掌握し、即刻反対派狩りを始めた。弾圧は当時大変厳しかったが、幸いにして投獄、徴発、ドイツでの強制労働を避けるために、労働階級の真只中に支持と避難場所を見出すことができた。われわれの雇い主は不承不承ながらドイツ軍の命令に応じ、その雇い主のメンバーの中で最も若年者の名と住所を引き渡したのであるが…。

 ここで私が敢えて、これらの私の苦い思い出を語るのは、フランスにおける階級闘争がどれほどか潜在的な戦争の、無慈悲で容赦ない敵愾心の性格を半永久的に続いたかを強調するためである。われわれ、フランスの労働者たるわれわれはけっして忘れることはない。『老人とロバ』の中で見事に「われわれの敵、それはわれわれの主人だ」と表現するラ・フォンテーヌの教訓を。さらに、われわれの世代のミリタンは自分らのことを多かれ少なかれ幾年も引き延ばされ、さらにこれから何年もつづく「血の1週間」の生き残りと見なした。フランスの風土の中では他の国ではおそらくなおさらと思うのだが、雇用主、搾取者、商社、維持と繁栄を確約する権威とできるだけ接触を避けるため、p.49 われわれの間だけで生きる習慣をもっていた。フランスのプロレタリアートであること、それは他の街区に住み、他の学校に通い、他の職業に就き、ブルジョアとは異なった意見をもつことを意味するにとどまらず、他の生活スタイル、計算せずに友人関係や団結心を養い、他の英雄の祭祀を維持し、他の書物を読み、他の歌を唄うことを意味した。

 コミューンはわれわれにとってはわれわれの状況が19世紀のパリの労働者 ― 記憶に新しい都会人 ― の状況とさほど異なっていないために無縁ではない。われわれの社会的・政治的体験は彼らの体験とは平行関係にある。1936年6月と人民戦線はわれわれの1848年であり、第2次大戦は1870年の戦いであり、ヴィシー体制はヴェルサイユ体制であり、レジスタンスは生気に乏しい萌芽である。

 私が生まれ育った環境ではコミューンの思い出が生々しく残っていた。私の祖父はルイーズ・ミシェルの講演会に出かけたことがある。ミシェルの雄弁は彼らが被ったあらゆる凌辱を少しだけ復讐した。フランスの労働者において農民と小自作農を再発見するのに長い間待つ必要はなかった。われわれの父、祖父は彼らが農村で生まれたこと、畑地の生活の独立心を体験したこと、人間が主人である土の厳しい労働を忘れてはいなかった。われわれの父たちが憤慨した、燃えるような、かつ容赦できない凌辱を今日なおも測りうるのか私には分からない。このわれわれにして彼ら以上に、われわれがしがないサラリーマン ― 職制ないしは作業監督、雇用者の感情の気まぐれに従う ― であることを見出して憤慨するのだ。われわれを封建的旧制度の領主から解放した大革命から150年も経っているというのに、である。

 幸いなことに、われわれは防御手段をもっているわけではない。われわれの父祖は抑圧が堪えがたいものとなったとき、あるいはまたわが指導階級による搾取のうえに1871年と1940年におけるように外敵占領の軍隊が搾取に加わったときは、武器を手にして立ち上がることを知っていたことを示した。1944年のレジスタンスはああ、むべなるかな! その真実の責務の一部しか達成しなかった。このレジスタンスは敵の敗北を促したが、同時にブルジョアジー国家の支配、その業務、それまで事実的に手づかずであった生産と交換手段のその所有を強化するのに役立った。

 百年前、コミューンは友情の華々しい示威行為であり、人民的友愛の溢れるばかりの爆発があった。そこにおいてはあらゆる種の政治的、あるいは単純に友愛的資金においてそれらが表明されたが、人々は手に盃をもち、一緒にいることの喜び、より明るい未来を準備することの喜びを歌った。作業場や街路で歌うのと同じように。

 不況が訪れると、武闘の間、労働者階級が自分を取り戻し我に返ったとき、p.50 彼らはその街区やその組織においてブルジョアジーの「めいめいが自分のことさえ構えばよい」というスタイルとはまったく異なった友愛的ならびに熱情に満ちた生活スタイルをつくりあげるのだ。マルクスは1844年の草稿においてまったく正確にその起源と発展を記している。

 「共産主義的労働者がその組織をつくるとき、彼らはまず真っ先に教義、プロパガンダの創成等々を一つの目的と見なす。しかし、そこから彼らは同時に新たな必要、つまり結社の必要を獲得する。そして、彼らにとって一つの手段として現れるものは今や一つの目標となった。この実際的運動を、フランス労働者の集会に参加すれば、その目覚ましい結果において捉えることができる。喫煙・飲酒・食事等々は当時、団結手段と結合に向かう手段ではもはやなくなった。結社・組合・会話が今度はそれ自体が目的となり、これで十分であった。彼らにとって友愛は文句ではなくて、真実であり、そして労働によって固くなった彼らの顔においてわれわれに向かって人間性の気高さを放射する。」

 

 そのとおり、「友愛」― 今日、仮借なき競争社会においてこれを語ることは愚直さ、古臭い悪ふざけ、二月革命党員のすることである。だが、友愛・仲間意識の必要と渇望は明らかにコミューンの労働者階級の最も驚嘆すべき特質の一つである。コミューンはおそらくパリ住みつく最も危険な敵手に対して極端な弾圧を加えるのを躊躇した。

 マルクスが強調しているように、職人組合のような労働者結社の活動は必ずしも組織化ないしは職業の方向に向かっていなかった。人々はアトリエで組合の祭典で仕事の歌、風刺歌、政治歌、感情的歌を唄った。これらを通してその余暇が狡猾な商人によって ― ついうっかりして、あるいは辞任によって ― コントロールされていなかった人民の信念・反応・感情が表現される。これらは、万歳と叫んで倒れるまえにその犠牲者を眠らせてしまう資本家モロクに守られて繁盛する。

 ペギーは1913年『お金』の中で書いている。「1873年から1880年までの間にオルレアンのような町で育った子供は文字どおり古いフランスに古い人民、非常に乏しい人民にふれた。彼は文字どおり古きフランス、古き人民に関わっていたのである。」ペギーはさらに付言する。「われわれが陽気な人民の間で育てられた。私の時代にはすべての者が歌った。私を除いては、しかし、私はその時代に存在するにはふさわしくなくなっていた。ほとんどすべての職業組織で人々は歌った。…〔労働者は〕…朝起きて、そして何時かに自分らが仕事に出かけるときの考えを歌った。p.51 11時、スープに向かうときも彼らは歌った。要するに、それはつねにユゴーであり、『彼らはおこなった。彼らは歌った』にたち戻るべきユゴーであった。」

 ペギーのスタイルを膨らませ、それを誇張に追いやる抒情詩の氾濫が始まるであろう。しかし、彼が計画しようとし伝えようとした感情というのは、それに劣らずホンモノであり、正当であった。少なくとも1914年まではフランスの労働者はアトリエで、家庭でその要求、その信念、その希望を歌にして歌った。このような歌はラジオやテレビのためにまったくなくなってしまうまで、われわれがその最後の生き残りを聴いたところの街頭歌手によっておこなわれたカフェコンサートの気障で俗悪な決まり文句と較べれば、よほど価値があった。

 コミューン下でその愛国的興奮、その社会的メシア信仰を表現し称揚するために人々を歌った。これのために多くのコミュナールのそのモデルや、ベランジェ(Béranger)一家、ピエール・デュポン(Pierre Dupont)一家により当世風に編曲された節を探し求めた1789年の大革命に発するレパートリーを取りあげるだけで十分である。ベランジェとピエール・デュポンは19世紀前半の真の民衆詩人であった。彼らは最初、「うまくいくさ」「ラ・カルマニョル」そして就中、帝政下で禁圧された「ラ・マルセイエーズ」のような伝統的な革命歌を唄った。リサガレーが述べるところによれば、政治クラブの会議場の設置された教会の一つであるサン=ミシェル=デ=シャンで「パイプオルガンと群衆がラ・マルセイエーズを」轟轟と奏でた。一方、「テュイルリーではアガール嬢が『懲罰』『偶像』を朗読していた。」

 バリケードの裏でも彼らはベランジェを歌っていた。彼は19世紀のフランスではある点ではユゴー自身よりも民衆の中心にいた。じじつ、「人民努力のチャンピオン」とまで言われたベランジェの歌は貧乏人、文盲、社会のあらゆる階級の間に公衆を見出していた。

 だが、特にピエール・デュポンがよく歌われた。彼についてボードレールは1851年以来問うている。「デュポンの偉大な秘密は何か? そして、彼を包み込むこの共感は何に由来するのか? この偉大な秘密について私は、それは極めて単純だと言いたい。… それは徳と人間性の愛の中にある。これにおいて彼の詩から絶えず何を発散しようと、私はそれを喜んで共和政への限りない愛であると呼びたい。」ピエール・デュポンの歌はその思い出の着想を彼の子供時代の感情、子供時代の目に見えない詩 ― 作者不詳とわれわれが呼ぶことのできるものによってしばしば生じた ― から得ている。新参者、農夫、石工、荷車解き、水夫の歌。」ボードレールはなおも続ける。田舎風の歌集、「農民」は「鮮明にして決然とし、新鮮で絵のようで剥き出しのスタイルを用いて」非常に大きな即時の成功をもたらした。

 本稿の冒頭で私が呼び起したような労働者家庭では吉日には叔父や従兄は食事が終わると大声で歌いはじめるのだった。p.52 それは、粗野で荒っぽい話し方がその頃子供であった私には非常に感動深かったピエール・デュポンの『牛』であった。

 うちの納屋には2頭の大きな牛がいる

 焦げ茶色の斑点をもつ2頭の大牛

 それを売らねばならないのなら

 俺は首を吊ってしまったほうがましだ

 俺はジャンヌという妻をもつ

 俺は彼女をもっと愛している

 彼女が死ぬのを見るぐらいなら

 うちの牛が死ぬのをみるほうがましだ