E. シャルカインド著「コミューン修史」(その2) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

E. シャルカインド著「コミューン修史」(その2)

 

 もちろん、このような変化が反映されない論争を紹介するのは困難なことではない。そのことはジャコバン的目標のほとんど文字どおりの模倣を意味しさえするかもしれない。換言すれば、ジャコバン党から着想を得ることはそれ自体として政治的・社会的思想の個人的コミュナールのアプローチを意味しなかった。すなわち、種々さまざまな、そして時おり矛盾する外観は個々のコミュナールによって1789年および1793年の伝統を引いていると見なされてきた。

 同じく、コミューンメンバーを権威主義的多数派と社会主義的少数派に区分する伝統的手法ももっと明確にしなければならない。たった一つの実質的証拠 ― コミューンを現代議会の多数派とその反対派に区分するやり方に対して引用される証拠 ― というのはコミューンの最後の3週間における公安委員会への権力集中の創設に関する2回の投票である。しかし、賛成票を投じた幾人かのメンバーは厳しい軍事状況のため、そして、コミューンを割りたくなかったためにのみそうしたことを明白に記しているのだ。疑いもなく、この問題をめぐる亀裂、つまり、コミューン史で現れた唯一の大きな亀裂は、幾人かのコミューンメンバーの厳しい内戦時における革命国家の性格に対する態度に関するもっと一般的な推理をなすのにきわめて有益である。しかし、尺度としての投票というのは同時に誤解を招くものであり、他のメンバーの見地の研究にとっては不十分である。この公安委員会に選ばれた5人のメンバーの1人G.ランヴィエ(Ranvier)がインターナショナルの指導的ミリタン、言い換えると「少数派」の主要な代弁者であったのとまさしく同様に、レオ・フランケル(Leo Frankel)はこの社会主義者組織の指導的ミリタンの一人だった。

 まったく思いがけないことではないが、同委員会設置のために最も熱烈なジャコバン流の支持の一例をインターナショナル・パリ支部の強力なイヴリー=ベルシー・セクシオンの有力な機関に見出すことができる。要するに、種々雑多な社会主義者たちはそのような政策に対する支持者のあいだと同時に、反対者のあいだにも見出せるのである。

 したがって、この問題に対する一般のコミュナールの反応のみならず、この政策に関する2度の投票はイデオロギーのレッテルや政治カテゴリーを割りあてるための基礎でもない。p.325 今日、方向についてもっと明瞭な社会主義的なものとして言及されることの多い政策、たとえば放棄工場や作業場を労働者所有の協同組合に移譲するという計画や、婦人労働者のための協同組合の創設を支援する提案に関する投票は一般に事実上すべてのコミューンメンバーの同意を必要とした。よくいわれる多数派、少数派であろうとなかろうと、あるいは想像上のジャコバン派、ブランキ派、プルードン派であろうとなかろうと、事情は同じだった。

 本質的に私が言及してきた説明の諸点は、どのような特殊なイデオロギー上の引力があろうとも、多数のコミューンメンバーの間でまさしく区分しようとも、彼らの行動や声明を動機づけるにおいて決定的役割を果たしたのは、何らかの教義に対する忠実さよりも、それぞれの直接的状況の具体的現実であったように思えることを示唆している。国民衛兵、労働組合、クラブの会合におけるミリタンについてもまったく同じことがいえる。要するに、プルードン派、ブランキ派、あるいは単なるジャコバン派とぼんやり認められる思想が当時のパリ労働者のあいだで明らかに存在するのだが、これら思潮の要素は、それぞれ個人の心中でたとえ一貫性を欠くことがあっても、共存できる傾向をもつ。何らかのプログラムの実践としてよりもむしろ、日々の即興的な動きに左右されることは主に自然発生的な革命にとってはけっして驚くに値しない。

 コミューンの対象としての市民自治ないしは脱中央集権化の重要性に関する議論に見られる混乱状態も無関係ではない根源がある。もちろん、第二帝政ならびにそれ以前の体制期においては幾人かの自由主義者は、パリがフランスの他の都市の限られた自治的権利すら享受しなかった事実に不満をもっていたことが知られている。そして、フランス行政制度のあらゆる局面の厳格な中央集権化の批判に対してもっと大きな関心が払われてきた。パリの中産階級が多く居住するかなりの数のセクシオンが主として民主主義的ならびに愛国主義的理由からコミューンに協力したコミューンの最初の数週間においてはこうした考え方は新体制の基礎をなす暗黙の政治原理として幾らか優勢を占めていた。だが、共和派のより穏健なセクシオンから主として引き出されるフリーメーソン団のような自由主義グループの活動や声明を取り囲む大宣伝は幾人かの歴史家によってはコミューンの目的の中心が脱中央集権化であった証拠としてしばしば引きあいに出されてきた。

 じっさい、コミュナールのクラブや他の有力な人民集会のあいだでは、市民自治の問題はコミューンに関連する全体的な民主主義的・社会的目標に対して局限的なものと見られていた。まさしく幾人かのコミュナールにとって脱中央集権化の課題は、内戦の最中で問題となっている中心問題からの逸脱と見なされていた。p.326 たとえば、最も勢力ある婦人組織の執行委員会はコミューンに次のような声明を送った。

 「起きたばかりの運動はあまりに突然であり、かつあまりに決定的であったため、職業に関する政策は何も含まず、この大きな運動の中に範囲も目的ももたない一つの叛乱のみしか認めなかった。

 他の者は、この革命を彼らが都市の解放と呼ぶものについての素朴な要求にたち戻らせることによって、この革命の思想そのものを状況と接合させた。

 自分自身を見失い、政府の仮構によって盲目となり、自称議会の代表権によっても盲目となった人民はコミューンを宣言することにより新秩序・平等・団結・自由 ― パリがもつことのできたコミューン革命の完成であろう ― の創成 … を純粋に肯定した。」

 4月初めにおける国民衛兵の出撃戦の失敗の結果、ヴェルサイユ政府がフランスの残りの部分をなおまだ掌握しつづけていることがひとたび明白になるや、共和国内部での都市自治という問題は敗北することなく内戦を続けるという決意を見通して暗黙裡に注視されるようになった。換言すれば、パリの軍事的窮迫は、その住民がパリ政府とは異なり左傾を共有しない他都市や町からの支持を得ようとする絶望的な努力における主に戦略的重要性を明るみに出した。パリの叛乱と並行して発生した幾つかの叛乱を抑圧することによって、そしてさらに、フランス全土にコミューンの悪評判を拡げようとするティエール体制が功を奏したため、都市自治こそが革命を幾らか救うことになるかもしれない可能性が最後の生命線となった。4月19日にほとんど満場一致で採択された「フランス人民宣言」の唯一の宣言においてパリ政府はその要求として以下を表明した。

 「フランス全土に拡大されたコミューンの絶対的自治、各コミューンにその権利の完全さを保証すること。」

 だが、一方で「人民宣言」はこうも主張する。

 「しかし、その自治のために、かつその行動の自由を利するために、パリは己の欲するところに従い、その住民が要求する行政上並びに経済上の行政政策をおこなうのを留保する。」

 そして、結論部分において再び明確にこう主張する。

 「これは政府・教権的旧世界・軍国主義・官僚統治・搾取・投機売買・独占・特権の終焉である。これらにこそプロレタリアートはその隷属状態を、祖国はその不幸を、惨禍を負っているのである。」

 

p.327   コミューンとコミュナールの態度の研究がどうして明晰さ・正確さ・厳格さを欠いているかは推測の域を出ない。一部分は以下の理由を考えると、尤もなことである。他の19世紀の革命にも増してコミューンはその歴史を書いた者の政治的偏見を引き入れる傾向にあった。このことは本稿の第2番目の焦点、すなわち、コミューンはバリケードの上で呻吟しつつ死に向かって突き進むと、カール・マルクスがロンドンで解釈した公式論争を通告するところの混乱に対する受け入れがたい説明とはならないであろう。

 周知のように、コミューンの特徴づけを通してマルクスが展開した理論的位置は社会主義社会への政治的推移についてのガイドラインを展開するという意味で社会主義者と共産主義者にとって重要な意味あいをもつ。これとは対照的に多数の歴史家は、過去世代におけるマルクスの解釈はドグマ的な政治考察ゆえにまったく異なった歴史的現実の上に置かれた「神秘」として批判してきた。じっさい、このことはコミューン論争の根底にある中心命題の一つとなった。コミューンの実際的描写とマルクス主義的神秘のあいだに引かれるべき対照があるのだろうか? コミューンは単に愛国主義的・社会的不平等の除去を暗黙裡に長期的ビジョンをもつ前例のない民主主義的労働階級国家の萌芽形態であるのだろうか?

 コミューン研究を新たに手がける公平な人ならば、正当に以下のことを悟るであろう。その論争はコミューンの主要政策と政体構造を、マルクスの解釈を支持するためにマルクスによって演繹された議論と比較すれば、たちどころに解決される、と。不幸にして、このように見立てにもとづく明瞭な手続きは今までほとんど真面目に取りあげられてこなかった。まず第一に、マルクスが実際に書いた著作、すなわち、就中『フランスの内乱』の草稿と最終稿に直接向きあうことをしないで、多くの歴史家はマルクス主義政党によって出版された民衆教化のパンフレットのような怪しげな史料に依拠しているようだ。マルクスの「神秘」をいとも無頓着に却下する彼らはマルクス、マルクス主義、マルクス主義者のあいだの区別をほとんど意識しない。今や、ハイジャッカーから傾向的な学生に成り変わった者なら「マルクス主義者」として通用する時代である。「構造主義的」戯言から毛沢東の認可を得た警句にいたるまでの用語が「マルクス主義」と呼ばれるような時代でもある。私が過去20年間に読んだものから判断すると、「神秘的」批判の支持者が己自身の印象的な偏見の見境のない受容を映し出すように思える見解をしばしばマルクスのせいにしてきたように思えてならない。

 多くの歴史家が原文にもとづく立証という原則にほとんど意を注がなかったのはなぜだろうか? 政治的偏見にとらわれることから離れて観察してみると、このことは多くのマルクス主義歴史家のあいだでコミューン体験の実際の理解を十分になすことなく、p.328 今日の政治状況の正当化と証明を提供する証拠の選択を好みがちな傾向に対する過剰反応の問題であるにすぎない。数多くの歴史家が分有したまちがいだらけの印象とは反対に、彼の結論の基礎は国有化のような「社会主義的」政策の数ではない。たとえコミューンがこのようなプログラムの錬成を望んでいたとしても、長期的社会政策を論じるという願望はいかなるものであっても、籠城下の市民の喫緊の軍事的な生存のための政策のほうを優先したであろう。マルクスにとってはこのような状況下における「コミューンの最大の社会政策はそれ自身が生きつづけているということだった。そうした特殊な政策は人民による人民の政府の傾向の前兆に踏みとどまざるをえなかった。(『フランスの内乱』から引用)同様に、史上初の革命政府のメンバーに選出された者の約3分の1が手工業の職人であったこと ― それ自体、重要事にほかならないが ― はマルクスの議論の核心部分ではない。議論の評価はこうして正確な階級起源、偏見、コミューンメンバーの政治的起源を突きとめる問題でもない。むしろ、そうした評価はメンバーの冗言から独立的に彼らが何をおこなったかを決定づけることである。コミューンの敗北から十年後、マルクスが指摘したように、「これは例外的状況下で都市の蜂起に過ぎなかった事実を別とすれば、コミューンの多数派はけっして賢明な社会主義者でもなければ、そうなりうる可能性もなかった。しかしながら、今少しの常識というものがあれば、コミューンは住民の全体にとって有益な、ヴェルサイユの妥協に到達しえたであろう。当時において到達しうる唯一の可能性とはこのことである。」

 マルクスは以下を明示した。マルクスの見解によれば、コミューンの起源が自然発生的なものであろうとなかろうと、住民が日々の必要に直面したことや、その対応が混乱したものであったであろうがなかろうが、コミューンの歴史的重要性の核心は、現存する資本主義的秩序の政治的・行政的・司法的・軍事警察的構造に取り代えて、それ自身を対置したことである。また、史上初のこの新種の国家は国家権力のすべての側面を住民、すなわちこの場ではパリの労働階級の多数派の選挙支配下に置いたという事実である。マルクスにとってこうした民衆支配の最も重要な側面の一つは、選挙で選ばれたコミューンの直接支配下における民軍としての国民衛兵が他の体制下におけるいかなる人民権力からも独立的であった抑圧的軍隊(常備軍・警察・裁判所等々)に取って代わったことである。

 コミューン史料の精密な検討でチェックすべき一種の仮説としてマルクス解釈を受け容れたいならば、現存する国家の構造やその国家と労働階級の間に生じる関係を直接に分析するより外はない。

 終わりに、コミューン革命の研究でさまざまな種類の第一次史料に付与された相対的重要性に関してp.330 私がなし遂げた一つの最終的な史料編纂上の観察がある。ここで解釈から分離した事実の困難や探究結果の依存関係、人が答えを探しているあいだの種類の実証の依存関係の困難を追放することは自惚れというべきであろう。しかし、第一次史料の選択そのものはわれわれがコミューンについて知りたいと願う事がらや、特殊なものから普遍化するに際しわれわれが援用する公準により形づくられるということを肝に銘じておくのはよいことである。

 たとえば、最近までの努力は一般に接近の容易なよく知られた史料に集中されてきた。たとえば、発刊部数の大きなパリとヴェルサイユの新聞、2つの政府の公式の記録、ジュール・ヴァレスまたはルイーズ・ミシェルのような革命派の著名人の著作、ゴンクールに代表されるような著名な観察者の目撃談がそれである。また、戒厳法廷の公式の軍事報告も重要である。いずれにせよ、これらが重要でないと述べるようなことはせず、以下を指摘しておきたい。民衆の自然発生性に強く根差す革命においては一般大衆のコミュナール間の政治・社会的態度の具体的表現が含む史料も既述のもの以上とまではいかなくても、大いに関心を振り向けて当然ということである。なぜなら、それは比較的に数少なく記録され、しかもごく少量しか保存されていないからである。それは「頭から見た」歴史と「底から見た」歴史のどちらを選ぶかという問題ではない。いずれも一つだけでは一面的にならざるをえず、したがって、全体像を歪める結果につながる。しかし、ここで言っておきたいのは、民衆運動に関する広範囲の記録 ― それがたとえ断片的であろうとも ― の集中的研究こそが創造的推測よりも反映すべく結論を一般化するうえで不可欠ということである。

 このような史料のなかでも最近の研究結果がどうして引きつづき無視されてきたか、あるいはそれの表面的な活用しかなかったのかの可能な説明というのは、一般読者にとってもっと効果的にコミューンを生き返らすものを選ぶに際し、歴史家が取りあげる基準に依存している。

 もちろん、史料が大量に再製されたり、詳述されたりしてハラハラするような、または鋭敏な歴史研究を生まなかったと主張するのはつまらないことである。一方、コミューンの研究者においては、驚愕すべきこと、あるいは華やかな物ごとを典型的に見なすことに成功した者がほとんどいないという誘惑がある。明らかに風変わりな諸々の事実、ユーモラスな逸話、驚くべき物腰、ドラマティックなバリケードレーンによって与えられた魅力をわれわれすべてが感じている。そして、疑いなくスタンダールの迫真の小さな出来事は非人格的な歴史的な力に、各個人の日常生活の肉と血の直接性を与えるうえで依然としてつねに効果的であろう。p.331 革命当初の非現実的な幸福感の時期と、無慈悲の敵を前にパリケードが構築されていた当時において、われわれはコミュナールが何を感じていたかを知りたいと思う。

 問題はそう簡単に片づくものではなく、したがって、どちらかというと優先権の問題でもある。舞台がさまざまな角度からの観察を捉えるのにカメラを必要としている間、私が思うに、その主要なものはこの特殊な歴史的瞬間において相互作用をなす思想・運動・その他の主だった力に集中すべきであろう。

 このことは、歴史家が比較的に重要なものの探索により大きな関心をこれまで払ってきたこと、そして、彼の描く像の推移と彼の解釈の熱情はともに批判的分析によって和らげるであろうことを意味する。私がここに描く歴史的描写はある特定の対象に関し共通項がある。パリ・コミューンが19世紀の題材の中で最も多く論じられてきた対象の一つであり、また、「決定的な」歴史というのがほとんどありそうにないとすれば、それは同時にその史料がまだ完全に考究されつくしていないことでもある。

 コミューンをもっと正しく理解することは単に好奇心を満足する問題であるだけではない。それ自身の素人然としたやり方で、この流産した革命はより平等的な社会秩序への傾斜をもつ国家に対する大規模な人民的統制に直面した最初のものである。

 20世紀の上首尾に終わった経験と較べると、この最初の試みの洞察力のある研究は同様に適切であるということがいえよう。

 

【終わり】