反響・解釈・伝統(その2) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

反響・解釈・伝統(その2):象徴としてのコミューン

 

 「最初の社会革命」としてのパリ・コミューンは一般によく知られているように、労働運動において興味深い反響を起した。しかし、この影響の中身と期間を、つまり「パリ・コミューン」の言葉の下にある集団的追憶における具象化された希望やイメージをどうやって限定づけるのか? p.209  M.モワッソニエは最近、この問題について「民衆意識においてその後、致命的に図式化されたやり方でコミューンの少しばかり理想化された描写が生じた」ことを述べた。それは次の2つの疑問を思い浮かばせる正しい判断にもとづく証明である。

1)この理想化は何を意味し、何を表現するか?

2)集団的追憶に支配されたイメージとは「内省的分泌」であったか?

 私はこれら2つの疑問に対し簡略に答えておこう。

 パリ蜂起のプリズムを貫いて一つの新しい歴史意識が生まれた。コミューンに参照をもとめるミリタンにとって、プロレタリアートは社会革命に向かう歴史のベクトルであること、プロレタリアートは権力を掌握し、労働者の政府を組織する能力をもつこと、要するに、未来を引き受ける意志をもったこと、の確信をもたらす。かくて、コミューンが1871年に火蓋を切って落とした団結の運動においてコミューンはすでに先駆的な現象と見なされた。「ドイツにおける民主主義は辛抱強くこの良き実例を模倣することが可能になる瞬間を待っている」と、1871年5月初めのハノーファーの労働者により採択された檄文は宣言する。「労働者の時が来た。外傷性の血の弾圧もまた、大いなる解放であった。弾圧は憎悪・復讐・確信 ― たたかわれているのは社会的戦争であり、爾来、2極構造の社会におけるプロレタリアートとブルジョアのあいだの生死を賭けた闘争であるという確信 ― の感情を醸成した。「一方では、大きな安心と大きな希望をもって、今日の社会戦争において自分らの前衛と見なされたコミューンの人々に目を転じたあらゆる国のプロレタリアートが考察される。他方では、工場の吸血鬼、株式取引所の詐欺師、苦しみいっぱい溜めて猪首居候のすべての残りなどが居た。」以上の言はChemnitzer Freie Press(1871年5月28日号)紙で読むことができる。この号はコミューンの崩壊の日に黒枠付で現れた。受けたショックの大きな結果の一つは、労働者意識が全体としてブルジョア革命の航跡を離れたことだった。労働者意識はもはや1789年、1848年の革命の追想で支える必要がなくなり、今後はヴァーレス(Vallès)が言うように、「仕事着の革命」を自由にするようになった。さらに、1870年代において人々は、多くの国で象徴として認識されたコミューンを祝賀しはじめるようになる。ドイツとオーストリアではこの記念式典は1848年3月の戦闘の伝統的記念祭と重なり、それに入れ替わるようになった。コミューンは思想、信仰告白、歴史的未来の確信、プロレタリア革命の不可避的到来に向けての確信となった。p.210 換言すれば、コミューンは労働運動に自立的伝統、ひとつの嫡出子としての承認を与えた。ヨーロッパのプロレタリアートが己自身の自覚を得たのは、ローザ・ルクセンブルクの言葉を借用すれば、この「神聖なる伝統」を通してであった。

 さらに、コミューンに接ぎ木された伝統の重みは、第一インターナショナルの真只中で衝突するあらゆる思想傾向の指導者によって十分に理解された。1871年、マルクスとバクーニンがコミュナールの実例の重要性を誉めたたえたのと同じアクセント、同じ決まり文句を見出したのを述べるのはあながち興味のないことではない。

 

マルクス

バクーニン

歴史的創始者としてパリの役割の光輝く熱狂を与える。なんという歴史的決断力、これらパリ市民における犠牲的精神のなんという能力!

 

これら殉教者の記憶は労働者階級の偉大な心の中に包蔵されている

 

 

 

それは、普遍史的重要性の出発の新たな基礎を戦い取ることを可能にした

 

パリの戦いは労働者階級の資本家階級とその国家に対する闘争を新たな局面に入れさせた

 

 

 

パリ蜂起は…1848年6月のパリ蜂起以降におけるわが党の最も栄誉ある快挙である

 

その真の秘密は以下の如し

再度率先の歴史的力を確信するパリ

 

 

 

 

虐殺され、血の中に窒息したパリ・コミューンはヨーロッパのプロレタリアートの創造・心中において活力を強め、より有力になるのみである

 

パリは革命的社会主義への真実の基礎を提供した

 

 

パリは新時代を開く、人民階級の決定的にして完全な階級の新時代、そして国境にもかかわらず今後まったく現実的となった彼らの団結の清時代をもたらした

 

革命的社会主義はパリ・コミューンにおいて最初の爆発的にして実際的な表明を試みた

 

以上が真の意味である

 

 これらの大指導者がコミューンについて労働界の伝統のために夢見ていた意味を理解していたことは2人が互いに自分こそがそこからの遺産を引き継ごうとしたという非難において表わされる。p.211 かくて、バクーニンはこう主張する。すなわち、「マルクス主義者」はコミューンが国家の破壊であるという事実を前に屈服せざるをえなかった。そして、あらゆる論理に反して彼らマルクス主義者はその綱領と目的を定めた。「それは真に滑稽で、かつ強制された改作であった。彼らはこの革命がすべての者にもたらした情熱があまりに大きなものであり、自分らがすべての者から見棄てられ、圧倒されるのを怖がらざるをえなかったのだ。」私はこうした罵詈雑言の応酬についてこれ以上の深入りをしたくない。問われている問題は、コミューン以降の伝統と自覚が単に革命的人民の想像の産物にすぎないかどうかである。私にはこのような仮説を拒絶せねばならないと思える。このような仮説は、その計画された文書、演説、イメージ、イデオロギー、解釈でいっぱい詰められていた。幾十年ものあいだ、労働階級はこうした方向で大々的な活動を展開した。コミューンは、唯一とはいかないまでも人民教育の特権的教材となった。3月8日の記念祭のためにつくられた、未発掘の極めて多種多様な史料(冊子、新聞記事、演説、歌謡、ドラマ、詩文、さらに数多い図画類)を研究することによって確証できるものとはこのようなものである。ミリタンの仲間たちのなかでは英雄譚に対し深い関心が注がれた。リサガレーの作品の運命は最良の実例となる。これが最初に出版されて以来、多くの言語に翻訳され、幾たびも編集しなおされた。マルクスはこれの普及のために大いに貢献した。ドイツ語版を改訂したのは彼である。19世紀末の労働者文庫においてこれは最も頻繁に借りだされた作品の一つであった。

 コミューンが夢見た重要性はまた、その敵手によってもよく理解され、非常に多くの敵対的作品を積み残した。最も多用されたテーマの一つは、デューリンクに例示されるコミューンの社会主義的性格の純粋にして単純な否認であった。これに対する社会主義派からの抗議は直接的だった。コミューンにつづく最初の4年間、ドイツ社会民主党はヴィリヘルム・リープクネヒト(Wilhelm Liebknecht), ヴィリヘルム・ブロス(Wilhelm Blos), ヨハン・モスト(Johann Most), フリードリヒ・ローレデス(F. Rohledes), アウグスト・ベーベル(Augst Bebel)らが冊子を刊行した。ベーベルの小冊子は感動的なタイトルを掲げていた。つまり、『コミューンの味方と敵』。

 無政府主義的人民の多くの作品も同じようにコミューンをテーマとして選ぶであろう。言い換えると、集団的精神に根差すイメージは労働運動内部の多様な解釈のプリズムを通して仕立てあげられた。このことは共通の根底のカンバスの上になぜ幾つもの伝統が1871年の蜂起に関して結合されていったかを説明する。イタリア、特にスペインでは集団的感受性に訴え、かつ生々しい絶対自由主義の伝統のうえに通じるのは無政府主義的解釈であった。p.212  反対にドイツでは、マルクスの『フランスの内乱』の演説がまたたく間のうちに支持者を獲得し大いに普及した。にもかかわらず、イメージは彼らに固有の偏見のフィルターを通してドイツの社会民主主義のミリタンの手に渡る。1872年にベーベルがエンゲルスに宛てた応答文は、イメージの受容がそのまわりに有機的に配置されるところの思想をかなり明瞭に照らしだす。すなわち、「…フランスの労働者は革命家によってわれわれの労働者がまだ知らない処に往ってしまった。われわれの労働者がこの学校をもっていれば、われわれはフランス人以上にもっと前進するであろう。なぜなら、われわれは組織をもっているからだ。こうした価値の組織があったなら、コミューンはけっして敗北しなかったであろう。」

  ロシア、ドイツの実例、殊にM-C.ベルジェール(Bergère)が研究した中国の実例は補足的質問を惹き起こす。構造がまったく異なった国で、労働者的でもあり、都市的でもあるパリ蜂起の伝統はどのように統合されたであろうか? コミューンのどんな側面 ― 豊富であるとともに矛盾しているが ― に対して、労働運動の異なる部門やいろいろな傾向は結びつけられたのか? なぜなら、犠牲と英雄主義のこの伝統は「革命的自発性とプロレタリア国際主義への忠誠の拒絶、愛国的感情とプロレタリア国際主義への忠誠のそれぞれ両方」に貢献する。イデオロギーの重みはかなりもので、イデオロギーは伝統を育み、それを緩和する傾向をもつと同時に、それは伝統の圧力を蒙る。「武装したプロレタリアート」の「大社会革命の夜明け」というイメージは、運動が受けた変化にもかかわらず、そしてその結果によってコミューンは第二インターナショナルの語彙と版画、参照体系に現われつづける。1912年11月、バーゼル特別会議で出席者550人の代表はヴァイヤンが貴賓席に着席したとき、だれとはなしに「コミューン万歳」の声が挙がり、皆が唱和した。じっさい、コミューンは当時、「戦争から戦争(内戦)へ」のスローガンを掲げており、インターナショナルのあらゆる史料において、ブルジョアジーが敢えて大量殺戮の戦端を開くようなことがあれば、見せしめとしてそれを振りまわしたのだ。

 したがって、象徴は変化の真只中にも持続した。無政府主義者の環境においても変化を蒙らず、社会民主主義者における場合とはインターナショナルが採る方向の事実によって、その象徴は区別される傾向にあった。伝統は革命的マルクス主義者においても生きつづけるが、p.213 しかし、イメージはその後の革命によって暈されていく。1905年のロシア革命によって暈されたのがその最初である。この革命は伝統の擬態を以てコミューンの追憶を蘇らせたが、コミューンを参照しつつソヴィエトを形づくらんとした。これら労働者グループの現象は未だ徹底的に究明されていない。レーニンはこの状態はロシア革命の利害にとって有害であり、それからアクセントを奪うと考えた。イメージは変わりつつあったのだ。結局、欠陥を引き立たせる役割を演じたコミューンの誤謬と弱点はボルシェヴィキによって彼らの本来の先祖の力を、彼らの安全をより良く際立たせるために前面に引きずりだすことになった。1905年、レーニンは「革命的コミューン」なるスローガンは人を欺く文章構造だとして非難する。「けれども、『コミューン』という語は解答を与えない。それは遠い共鳴の、空っぽの反響の精神を縺れさせるだけである。1871年のパリ・コミューンがわれわれにとって身近なものであればあるほど、われわれはその欠陥とその特殊な条件を分析することなくそれを参照することはできない。ひとつの労働運動が歴史のなかに仲間入りしたのだ。」コミューンの欠陥を検討したのち、レーニンは結論づける。「要するに、もし諸君がパリ・コミューンまたはもう一つの別のコミューンを参照するとき、諸君の解答はこうなるだろう。これはわれわれの政府が決してそうあってはならない政府である、と。」 

 1917年にイメージはどのようになって現れるか? 2つの疑問を10月の前と後で区別しなければならない。マルク・フェロー(Marc Ferro)の観察によれば、10月前の期間においてはレーニンと無政府主義者のみがコミューンの星の下に1917年の諸事件を明確に位置づけている。ここに驚くべき要素は何ら見当たらない。メンシェヴィキは二月革命もプロレタリア革命ではなく、ブルジョア革命と位置づける。敵はボナパルト派あるいはカヴェニャックであって、ティエールではない。

 レーニンは違う。『4月テーゼ』以来、彼は革命のプロレタリア的目標を定義する。無政府主義派もメンシェヴィキとは違う。何らにとって1917年に観察された権力の破壊はコミューン以後、彼らが革命に期待しているものに相応する。ソヴィエトの数が増えるやいなや、彼らはその機関紙『コミューンKommuna』を『自由コミューンSvobadnaja Komuna』と呼び名を変えた。

 しかしながら、やがてソヴィエトが単なる権力の付属物に姿を変えると、無政府主義者たちは、プロレタリア革命をもはや彼らの行動ではなく、工場の委員会の行動を同一視するようになった。彼らにとってコミューンの参照はつねに、あらゆる権力 ― これは結局のところ、再構造化するゆえに ― に対する抗争の枠内にとどまるものである。レーニンはその当時、コミューンが企てかつ達成しなければならなかったものの実現を見ている。p.214  権力を奪取すれば、それを前に進めることが肝要である、と。

 10月、「ボルシェヴィキ化」されたソヴィエトが蜂起に転じたとき、無政府主義派も運動に加わった。なぜというに、彼らにとってロシアは1870~71年のコミューンが実現できなかったものを可能する状態に成り変わっていたからだ。つまり、集団の連盟(工場委員会、ソヴィエト、公安委員会)のそれぞれが、プロレタリア独裁が自発的に形成された特殊な形態を表現する。旧国家権力の残存物をうち壊し、これら革命的諸制度を連合する課題が残された。1政党があらゆる権力を自らの利益のために没収する手段をもつことができるなんて! 無政府主義者は想像だにしていなかった。

 1918年以後、相続された象徴としてのイメージは再現する。ボルシェヴィキ、次いで第三インターナショナルが相続人を自任し、コミューンの鏡に照らして彼ら自身の革命を称賛する。歴史的正統性において己らの行動を正当なりと位置づけたのだ。それ以来、パリ蜂起を参照する進化、原理、テーマはボルシェヴィズムの短期・長期の偏見から、その着想をふんだんに獲得する。中国の特定の状況、すなわち、1927年の広東コミューンの状況と、イデオロギー上の正統性の承認手段としての「文化大革命」時におけるパリ・コミューンのモデルを再現(上海コミューン)の状況とに関し、M.-Cベルジェ―ルが私に提供した研究の諸要素はこの点に関して極めて示唆的である。

 指導者によってまちがって準備された1927年12月における広東蜂起は一揆のようなものだった。M.-Cベルジェ―ルの主張によれば、この蜂起はそれにもかかわらず、「それがパリ・コミューンと隣りあって並ぶ革命史、革命的伝説の仲間入りを果たす。2つのコミューンの比較は模倣の自覚的意図があって生まれたものなのか、 目標の類似性から現れたものなのか、それとも、それをパリ・コミューンの失敗に擬えることによって広東コミューンの失敗の性格を隠そうとする政策の結果にすぎなかったのか、もしパリ・コミューンと広東コミューンのあいだに類似性があるとすれば、その類似性は明らかに中国人叛徒がもたらしたものではなかった。… もしその計画段階で広東コミューンがパリ・コミューンを参照しなかったとすれば、前者はその展開においても同じく、後者を想起することはなかった。… その急進主義(radicalisme)とそのリアリティの欠如によって広東蜂起の綱領は確かにパリ・コミューンの綱領を想起させるものがある。そのモデルはまさしくソヴィエトのものであった。p.215  じじつ、広東コミューンがまちがいなくパリ・コミュ―ンと類似している唯一点は、結果として起きた弾圧の厳しさ、野蛮さということだった。… 結局、参照の起源をパリ・コミューンに、すんでのところで一体化の原因を広東以外の革命的神秘に求めることにあったように思える。叛徒の英雄主義、犠牲に関して注意を惹くことは、中国共産党の欠陥をあまりに多くの証拠を以て現れたはずの責任の追及を逸らせること、そして、中国共産党の欠陥を通してコミンテルンの、そしてスターリンの欠陥も併せて逸らせることであった。広東の失敗をパリの失敗に擬えることは、それを称賛することであり、それと同時に悉く尊敬の対象、分析の対象としないことであった。」M.-Cベルジェ―ルはいつか諸君に、「文革」時に生起したことを語るかもしれない。

  1918年以降、その威信をもちつつ象徴の利用のひとつの局面は以上のとおりだ。コミューンの伝統はその当時における2番目の若さを見出したということもできる。コミューンは十月革命の航跡においてそれへの対極に位置づけられる。そして、1968年5月のパリで再びデモが起こった。