反響・解釈・伝統(その1) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

反響・解釈・伝統(その1)

 

反響・解釈・伝統 ― 象徴・実例としのコミューン

 

P.  ヴィラ―ル(Vilar)

 われわれは今後、何をさておき語りたい問題、すなわち、それを打開したり、あるいはそれを単純に指示したりするだけでもわれわれにとってはどんなにか難しかったかの問題に取り組むであろう。われわれは絶えず躊躇する。反響、遺産、後裔、伝統、模範、実例、象徴、神秘、影響 … まだまだあるが、これぐらいで止めておく。人には選択の道しか残されていない。その選択は不幸なことに困難である。これらの用語のなかでわれわれを満足させるものは一つとしてない。しかも、われわれが最終的に選択すべき一般的なタイトルさえ存在しない。だが、これらの用語の一つひとつが明瞭に問題の側面を物語る。しかし、われわれが詮索し検討したいと思うのはこれらすべての側面ではないだろうか?

 本シンポジウムはじっさい、われわれに世界を一歩一歩駆け巡ることを可能にする報告の集中光線を集めてなされることであろう。実現不可能な集中光線! G.ハウプト(Haupt)の報告はすでに集団的総合の試みであり、それは多くのわが友G.バディア(Badia)、M.C.ベルジェール(Bergère)夫人、M.フェロー(Ferro)…の予備的作品、そしてむろん、オプト自身の作品に支えられ依拠するものである。私は一時、スペイン問題に身を乗りだしてみたい気になったことがあることを告白しておこう。私はそうしなかったが、それを後悔していないと諸君に言うだろう。なぜなら、それ以来、奥深い幾つかの作品がこの問題についてスペインでなされつつあることを知ったからである。私がスペインに踏み込んでいれば、諸君にまったく基礎的前提のみをもたらすに終わったであろう。それでも私はなお強く強調しておきたいことがある。それというのは、スペインで直ちにコミューンの反応があったことを人はほとんど思い浮かべないからだ。コミューンへの反応、それは周知のように、遠い木霊であった。だが、スペインはコミューン後に直ちに革命的状況に入った唯一の国であることを忘れないでおこう。スペインの騒擾は以前に、つまり1868年以来、そうした状況にあり、1873年まで続くのである。その証拠に、パリの諸事件とスペインの事件との間には密接な関係がある。幾人かのコミュナールはスペインへ逃亡し、そこで幾ばくかの影響を残した。A.レーニング(Lehning)は連邦主義の問題を呼び覚ました。連邦主義の思想はスペインで充満していた。私は当然のことながら、コミューンが連邦主義の萌芽、ないしは逆に必然的な集権主義の嚆矢であるかを知るという今朝の議論にはたち戻らない。私はここでスペインの場合だけを思い起こす。

 しかし、根本的にふれられなかった問題がある。それを討議することが本質的であるかどうか私は訝しく思う。「コミューン」という用語そのものに問題がある。1792~95年のコミューンにとどまらず、「コミューンなる表現と言葉」のテーマである。学術雑誌『新評論La Nouvelle Critique』はそのテーマについてわれわれに驚くべき特別号を与えたばかりである。p.206 すなわち、単純に「時代を貫くコミューン」である。

 1871年、人は中世フランスのコミューンを呼び覚ました。私は1621年以降のカスティーリャのコミューン(Commune de Castilla)のことを思い浮かべる。そして、スペイン世界ではComunidadoの観念に関わる中世以来の何らかの持続がある。もっと一般的にいうと、Commune,  Communaute, Communismeの周辺にまつわる意味変遷…! だが、これらの用語は結局のところ、すべて明瞭になることなく、社会的・政治的・感情的であること継続し、これら隣接する概念を明確化することもせずに何らかの方法で混淆してしまう。そして、一方の端で時代を貫き、今日のコミューン(南米と中国のそれら)に到達していく何かがあるのだ。

 問題はそのうえで完成される。結局、組織された社会または「共同体」の方向に人々は引き寄せられるだろうか? 私は実例と今後の討論に席を譲りたい。

 

 

p.205

象徴および実例としてのコミューン par George Haupt

 

  コミューン崩壊の直後から熱情の籠った、情念的な論争が巻き起こった。そこでのコミューンは多くの敵手によって実例として振りまわされた。ティエール、ジュール・ファーブルらはコミューンをインターナショナルという悪辣な結社の秘密の陰謀の実例とすることによって、古色蒼然たる陰謀という常用の命題を再度使った。全世界に歪んだ蜂起のイメージを与えるテーゼは、一方ではたいていの場合、伝説を生みだすのに寄与した。幾らか驚きを込めて以下のように述べたマルクスを思い浮かべてみよう。

 「ローマ帝国におけるキリスト教神秘の形成は印刷術がまだ発明されていなかったゆえにのみ可能だったことを人々は今日まで信じてきた。それはまったくの正反対だった。日刊新聞や電話の発明により瞬時に全地球に拡がらせるそれら新聞・電信はかつて1世紀かかってもつくりだすことのできなかった非常に多くの神秘を1日のうちにつくりだしたのだ。そして、ブルジョアの間抜け野郎はそれらを鵜呑みにし、撒き散らす。一方、社会主義各派はそれぞれのやり方でコミューンから議論を引きだし、彼らの地位を正当化し強化するために実例を呼び覚ますのである。」

百年後になっても論争はつねに展開されている。象徴として認識されるか、あるいは旗として振りまわされたコミューンは絶えず熱烈なパルチザンを甦らすかする。すなわち、労働運動に訴えようとする傾向は1871年の夜明けに身を包もうとしつづけ、自分らこそが唯一の正統な継承者と見なす。古くからの喧騒が長命だった典例を示そう。その喧騒は1874年のエンゲルスの証言の中に予示されている。

 「インターナショナルがコミューンのおかげでヨーロッパにおける精神的な力になったとき、インターナショナルは不和の始まりをみた。各派はその成功を自派に活用しようとし、そして、それは不可避的に分裂に連なった。」

p.206   じっさい、この論争は労働運動でのコミューンの歴史のイデオロギー的機能ほどには論争の継続を証拠づけるものではなかった。過去と現在、歴史とイデオロギーは相互に絡みあい、この永続的論争のなかで混じりあう。この論争は確認が必要な場合には集団的追想において固く植えつけられた実例と象徴となったパリ蜂起が辿った奇妙な運命を確認する。この局面、コミューンの理論的・政治的・イデオロギー的・精神的外延はそれだけでひとつの歴史の、事実的にその歴史そのものの第二の鎧戸の基礎となる。しかし、コミューンは、それが奥深く刻み、そこから願望をもたらした労働運動そのものの歴史いわば流れであった。その現実性とイメージによってコミューンはその伝説、その特徴、その歴史意識、その参照の体系、そして不幸なことに、その相違と根本的イデオロギー上の不一致において労働運動の理論的発展に堅固に組み込まれことになった。時間と空間において広い主題に限定したり定義したりするこの困難さ。2つの部分のあいだに際立った離反が存在することを否認したとしても無駄に終わるだろう。集団的追憶によって変貌させられたイメージ、あるいはドグマとして凍結された公理に昇格させられた公式を前にしてコミューン史家はその学識豊かな研究の繁栄を無駄に探し求める。ヴァイヤンは3月18日の31年後にこのことについて非常に明快に述べている。

 「われわれは、これらの大きく苦しみの多かった諸事件から状況がそれらの事件を生みだした情熱を引きだし、そこにそれら事件の発展の多様な要素を刻印する気遣いを歴史批判に寄せることができる。」

 このような探究はヴァイヤンにとっては、労働者階級に植えつけられた本質とイメージを修正することはできないであろう。彼の目に映るイメージは次のようなものだ。

 「支配し指揮するもの、(1871年の諸事件に)歴史的・政治的価値を与えるものはその事件の労働者的・社会主義的・革命的性格である。」

 「コミューンが束の間の生命であったこと。あるいは人がそういった言い方を好むなら、諸事実においてそれを大きくした伝説に劣るものであること、それは今となると、どうだってよい? 闘い苦しんだ世代は他界した。彼らの欠点は終わった。その世代は実例を残した。」

 ヴァイヤンにとって歴史の所産そのものとしてひとつの決裂の確認だったものは数十年後にはコミューン修史の運命そのもののうえに重くのしかかる理由を説明する論議の的となった。実例と象徴の両方を含意する「伝統」という用語の曖昧さはp.207 党派的修史により大いに活用された。それは2つの作用のうえに通じた。第一の作用はコミューンの現実をイデオロギーにより変貌させられたイメージに合致させるべく、それをつくりなおす意志において表わされる。反省に対する刺激剤の例を示そう。それは半世紀間にそうなったのだが、コミューンは政治議論となり、正統主義 ― 歴史的とはほとんどいえない隠語のかたちで嘆息に転じた ― のスタイルの実行となった。30年間のスターリン主義の修史がわれわれになじみ深いものとした疑似歴史的分析による推理が未だに健在である。そうした推理は結局のところ、主題の信用を失わせ、歴史の真の道から逸らせるだけに終わった。その反動として2番目の作用は歴史を「掘りなおし」、現実=イメージの分離を非難する目的を与えられ、しかし最終的には、あらゆるマルクス主義的解釈と分析を不信用に陥れてそれらを無造作に拒絶するにいたる。1930年、アメリカの歴史家Edward  S. Masonの著作が出たが、それは確かに関心を惹かないわけにはいかなかった。彼は、コミューンに関する考察と諸解釈、追想が政治的陰謀を暴く一種の歴史利用を生みだすことのみを示そうとつとめる。コミューンについての社会主義的・共産主義的解釈 ― 彼はそのような考え方を「政治的目的をもって拵えられた伝説」と見なして論破しようとつとめる ― での結合された伝統と神秘を混同しつつ、メースンは流行をつくった。スイスの歴史家ケクラン(Kœchlin)の作品、そして特にギュンター・グリュッツナー(Günter Grützner)のような著作のように、非常に多くの史料を参照した近著(そのタイトルはそれ自体感情を刺激する力をもつ『政治的伝説の力と道のり』)が位置するのはこのラインに沿っている。「歴史的本分」を自認するこうしたやり方はおそらく結果としてまちがった問題を蓄積するだけに終わるだろう。じっさい、p.208 「伝説」は「コミューンという事件」そのものと同じ程度に労働運動史にとって重要であった。「動員に関する」役割を演じたのもこの伝説であり、また、コミューンの遺産、長期の持続、広範囲の輻射をこのように見比べることによって階級意識を鍛えあげるための要素として役立ったのもこの伝説である。言い換えると、この伝説はおそらくコミューン史そのものとはまったく違った重要性を帯びた。むしろ、別の重要性と言ったほうがよいのかもしれない。全体的イデオロギーの発展において密接に絡みあった1871年蜂起のイメージの受容や描写による変更はそれ自体、入念に研究するに値する歴史的現象である。

 J.ブリュアは最近の論文で、諸事件の切断に帰着する修史の骨折りの手法について語っている。悲しいかな! 事件がエピソードのために影が薄れてしまう危険な目に遭うというこの主題の枠内において最も困った局面は、「教訓」「経験」「戒め」「実例」のような用語と観念の切断に帰着する疑似歴史的推論にある。私はここでそれらの完全な実在においてというよりは、むしろ限定的受容での「象徴」と「実例」という用語を使うことにする。これら2つの観念の間で私がやりたい区別は次のとおりである。

 「象徴」つまり記述描写は私に言わせると、集団的追憶が精神状態に根差すような、あるいはイデオロギーによって変貌させられたようなイメージによって鍛えあげられた魅力を思い浮かばせる。

 「実例」言い換えると、意味的なもの(le significatif)は経験を有効に使うため、諸事件から理論的結論を引きだすため、行動、何らかの行動のための指示となる新しい思想を引きだすために多くの努力を掻き集める。

 私がここで取りあげるこのような分断(cloisonnement)が何らかの明確な区別をもたないのはいうまでもない。否認と有機的相補性はこれら2つの観念を含む現実のあいだに生じる。