十月革命後のレーニンとパリ・コミューン(その2) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

十月革命後のレーニンとパリ・コミューン(その2)

 

 パリ・コミューンの真実の性格の歴史を否め、それの世界革命運動に占める役割を過小評価するあらゆる企図は無駄である。レーニンは一度ならずそのことを強調した。レーニンはこれら反マルキストの試みや委曲を尽くした批判を『プロレタリア革命と背教者カウツキー』(1918年10月刊)の中でおこなった。周知のように、マルクス主義を裏切って20世紀初頭に国際的改良主義の指導者となったカウツキーは科学的社会主義のテーゼ、とりわけ国家およびプロレタリア独裁に関するテーゼに反対する立場を築いた。カウツキーの主張によれば、コミュナールが「民主主義原理」に適合するかたちでのみ行動したのに対し、ボルシェヴィキは権力を奪取した。彼はボルシェヴィキの活動を極力、1871年のコミュナールの活動に対比させようとつとめる。パリ・コミューンの普通選挙によって選ばれたという事実から、また、ブルジョアジーは投票権を奪われていた事実から出発しつつ、カウツキーはまるで勝ち誇ったかのように大げさな言葉で、マルクスの視点からみて独裁は「プロレタリアートが多数派を構成するような純粋民主主義から必然的に生じる状態」であったと宣した。このような馬鹿げた判断を論破すべく、レーニンは特に「見事な花、参謀本部、ブルジョアジーの精髄はパリからヴェルサイユへ逃亡した」事実を浮きたたせる。彼は疑問を発する。「パリ住民を2つの敵対的陣営への ― その1つが武装し、政治的に活動的なブルジョアジーを糾合した ― 分裂を、「普通選挙を伴った」「純粋な民主主義」として示すことは馬鹿げているではないか? 一方コミューンは、ブルジョア政府に敵対的なフランスの労働者の政府としてヴェルサイユ政府と闘った。そこで、レーニンは問う。「純粋民主主義」と「普通選挙」はここで何をもたらしたか? フランスの運命を決したのはパリである。つづいて、次の疑問を発する。「パリ・コミューンは、もしそれがブルジョアジーに敵対して武装した人民の権威に役立つことがなかったら、1日とてもち堪えることができなかったであろうか?」と。

 カウツキーとの論争の最後にレーニンは大衆の革命的暴力を憂慮して、嘗てマルクス主義者だったカウツキーは十月革命の敵たちと唱和するだろうという結論を引きだした。ソヴィエト権力を非難し、かつ、それをコミューンと対置することによって、カウツキーは国家理論をも含めた科学的共産主義の本質的テーゼを公然と変質させた。

 同じく『プロレタリア革命と背教者カウツキー』においてレーニンは第二インターナショナルのもう一人の指導者E.ヴァンデルヴェルド(Vanderverde)の意見を精細に批判する。ヴァンデルヴェルドは1918年、パリで『反国家的社会主義』を出版し、その中で日和見主義の概念のもちだし、また、マルクスとエンゲルスによるコミューン評価やp.197 両者のプロレタリア権力論を黙過した。

 『プロレタリア革命と背教者カウツキー』はレーニンがコミューンの経験にこのように大きな関心をはらった最後の著書となった。にもかかわらず、その後の著作において彼は幾たびかくり返し、上掲書で考察された論点にたち戻る。1919年1月に書かれた「欧米の労働者への手紙」の中でレーニンはコミューンを世界史的範囲の第一歩、プロレタリア独裁の第一段階とみなしている。新しいタイプの国家としてのプロレタリア国家を創造したのはまさしくコミューンであると言う。1か月後の1919年2月、レーニンは再びボルシェヴィキ党の綱領の草稿において、前年10月に結成されたソヴィエト連邦共和国はパリ・コミューンの経験にもとづく唯一のタイプの国家であることを思い出させた。

 ソヴィエト=ロシアの革命的過程の発展の多様な局面をパリ・コミューンの各局面に対応する諸条件と比較しつつ、レーニンは1919年1月4日、共産主義インターナショナル第1回会議への報告の中で、ブルジョア民主主義とプロレタリア独裁の問題に関するボルシェヴィキの立場を発表した。この報告中でレーニンは特に、「コミューンは議会制度ではなかった」というテーゼを強調する。つづいてレーニンは第6テーゼにおいて、コミューンが重要であるのは、ブルジョア国家の官僚的・司法的・軍事的・警察的装置を、立法権と行政権の分離を知らない労働者大衆の自治組織と交換することでこれを悉く破壊することをコミューンが試みた点にあると述べた。第19テーゼではパリ・コミューンがブルジョアジーの官僚的・司法的装置の破壊の道への第1歩を築いたこと、そして、ソヴィエト権力がその第2歩であるということが示された。

 ソヴィエト共和国が直面せざるをえなかった複雑で思いがけない諸々の現象を検討したのち、レーニンはつねに1871年革命の経験に訴えることによって、諸事件の理解と正しい判断にもとづく説明のために有用なあれこれの参照物を見出すことができた。こうして1919年5月12日のペトログラードで開かれたソヴィエト会議でレーニンは書面による彼への質問に答えてこう言った。全体的に見て、1871年の労働者たちはパリのプロレタリア蜂起を意識もしなかったし、支持もしなかったが、このことは社会主義者たちが「パリ・コミューンがあらゆるプロレタリアート、すなわち、最良にして誠実なすべての者を代表していた」という権利を主張するのを少しも妨げるものではなかった。レーニンはつづけて言う。ロシアでも同様に、我慢強く、執拗に国家管理に参加するように指導し、そのことにより彼らを啓蒙せんとつとめるソヴィエト権力を理解できなかった進歩の遅い労働者がいた、と。

p.198  1919年3月18日から23日にかけて開催されたP.C.(b)R(ロシア共産党?)第8回大会の開催期間中、レーニンはくり返しパリ・コミューンから汲み取ることのできる教訓をくり返した。3月18日の党中央委員会の活動報告を代表して彼は、しばしばコミュナール ― その中にはブランキ派とプルードン派が支配的だった ― について「彼らは予め懐かれた教義から借りたものでなく、事実の必要性により導かれた決意」を命がけで表現したことを想起させた。ボルシェヴィキについていえば、彼らはマルクス主義の教訓に合致して行動するとともに、彼らの活動は「止むに止まれない絶対的必要性の要求によって具現化されたその厳命において決定された」、と。

 ボルシェヴィキ党が追求した路線の継承、と同党がパリ・コミューンの遺贈物に対して説明する奥深い尊敬について最も強く示す説明の一つは、第8回大会で採択されたP.C.(b)Rの綱領での、1871年のプロレタリア革命の経験の広範な活用である。パリ・コミューンが遺した教訓へのこのような参照をレーニンは綱領に採り入れ、大会代議員の満場一致の承認を得た。官僚制への反対闘争での精力的施策の適用、国家行政への労働者の参加 ― これらは綱領内に規定をもつ ― は「パリ・コミューンが関わりあいになった第1歩」を形づくる。帝国銀行を直ちに接収することによって、パリ・コミューンが犯した誤謬を1917年のロシアのプロレタリア革命が避けることができたが、しかも貨幣・銀行問題の領域でソヴィエト権力が執るべき措置に関して1項が挿入された。

 パリのコミュナールの活動の徹底的な研究にとりかかったレーニンはその後、世界初の社会主義社会の創造的樹立のための重要な歴史的教訓を引きだした。レーニンはその最後の論文と演説でソヴィエト国家の原型としてコミューンの本質に絶えず留意した。彼は特に「第三インターナショナルとその歴史的位置」(1919年4月発表)と題する論文中で語る。「新しい時代、新しいかたちでの古い誤謬」(1921年8月)等々。1920年7月19日、コミュナールの記念のために開催されたコミンテルン第2回大会の労働者と代表の大きな会合がもたれたとき、レーニンはこう言った。「今日、50年前のパリで蜂起の旗を掲げ権力を掌握し、社会主義社会の構築が着手された。共産主義の闘士のための記念碑の基礎が築かれた。彼らは敗れ去った。… しかし、それにもかかわらず、彼らの大義が死んでいないのを見る。われわれはロシアでソヴィエト共和国を成功裏に建設しつつある。…」p.199 これはレーニンがパリ・コミューンについて語った最後の発言となった。

 約80年間、パリ・コミューンの歴史、その不滅の大義は、情熱を掻きたてるテーマのために捧げられた非常に多くの史料を検討したレーニンは例外的といえるほどの強い関心を寄せた。「わが革命、世界中のプロレタリア革命の偉大な指導者たるレーニンはパリ・コミューンに対してつねに持続的な関心を示した。… 今日、レーニンがコミューンについて語ったり書いたりしたものを学び、レーニンが引きだそうとした教訓がいったい何であったかを考えるとき、われわれは労働者政策の最も奥深い問題であること、そして、レーニンにとってコミューンはパリにおける権力の奪取、無限に強大な敵に対する英雄的防衛の熱情を搔きたてる実例を超えた何かを含んでいることを確認する」と、A.Lunacarskiは1925年に語った。

 レーニンは生涯の終りまで、フランスにおける1871年のプロレタリアの経験に対する止むことのない関心をもちつづけた。彼の晩年の作品の一つである『1政論記者のノート』(1922年2月)の中で、彼は旧世界を倒したロシアの労働者階級が1871年の革命を含め、否、特にそれの過去におけるプロレタリア革命の伝統を継承発展させたことを再度強調しなければならないと思うと書いた。

 コミューンの役割に関するレーニンの評価は、社会主義革命理論を真に豊かにし、われわれの時代のそうした評価の現実味を包蔵した。革命運動のすべての転換期においてレーニンは、人民大衆の解放のためと、社会主義の建設のためにボルシェヴィキが導く闘争のために利用すべく、彼の経験の幾つか新たな局面を限定するためにパリ・コミューンの教訓に依拠した。その後の歴史はすべて蜂起とコミュナールの活動の研究から流れ出るレーニン主義の詳述の普遍的にして恒久的な歴史的範囲を明らかにした。ソヴィエト共産党中央委員会のテーゼ「ウラジミール・イリイチ・レーニン生誕百年祭記念のテーゼ」はこう読むことができる。「パリ・コミューンとロシアの3革命の経験を一般化したのち、レーニンはプロレタリア独裁についてマルクス=エンゲルスの教義を発展させ、精細に述べた。レーニンは新タイプの国家としてのソヴィエト共和国の歴史的射程を明確に解き放った。」フランス共産党政治局員ギ・ベス(Guy Besse)の精彩ある表現 ― われわれはパリ・コミューン百年祭のとき(1971年3月7日)、モスクワでの厳粛な会議でギ・ベスがおこなった演説を再録した ― によれば、p.200  1971年10月はすべての国の革命家たちの目には全世界のヴェルサイユに対するコミューンの光り輝くある報復と映った。

 終わったばかりのソ連邦共産党第24回大会は、パリ市役所の屋根上に初めて赤旗が翻った百年後に開催されたのは象徴的である。1871年、フランスのプロレタリアートは歴史の新しい幕開けを聞き、それにつづく年月はレーニンが語ったようなその武勲のあらゆる偉大さについて十分に自覚することを可能にした。パリのバリケードの最後の防御者の赤旗が1924年7月、フランス・プロレタリアートの手でコミュナール思想の後継者、十月革命の国の共産主義者に移送され、現在のレーニン美術館に収められているという事実もまた同様に象徴的である。