十月革命後のレーニンとパリ・コミューン(その1) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

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1917年10月以降のレーニンの著作にみるパリ・コミューン par V.Kumanyov

 

 コミューンからわれわれを隔てる世紀のあいだに人類愛が巨大な道を駆け抜けた。コミューンは短命だったが、しかし、それの国際的革命運動にもたらしたもの、言い換えるとすべての労働者の社会的解放と世界中のプロレタリアートの利益のためにもたらしたものとはじっさい、非常に大きな意義がある。その英雄的存在で以てコミューンは科学的社会主義の発展に大きな刺激を与え、新時代の始まりを画した。まったく新しい型の国家の創建を狙った1871年のパリのプロレタリアートの貢献は普遍史上において目覚ましい事件であった。

 コミューンの真実の本質、その深遠な意味は進歩主義の大多数の思想家を含め同時代人の大半には理解されないままにとどまった。マルクスとエンゲルスのみがコミューンをプロレタリアート独裁の最初の経験と特徴づけることでコミューンの真実の範囲を拡大した。彼らによってプロレタリア革命と見なされたフランスにおける1871年の諸事件の科学的解釈は小ブルジョア的著述家が与えているような皮相的評価とは根本的に異なっている。1871年のパリ市民の蜂起者の経験は資本主義から共産主義にいたる過渡期の歴史的に不可避という性格に関するマルクス、エンゲルスによる細かい記述を確認した。

 マルクス=エンゲルスの著作は新しい歴史的条件に継承された。つまり、レーニンはコミューンの教訓の鋭利な分析し、声高にその手柄とその革命的遺贈を活用した。レーニンにとってコミューンは第一インターナショナルの精神的子弟、「19世紀プロレタリア運動の最も偉大なモデル」であった。あらゆる局面から事細かくコミューンの活動を分析しつつ、彼は多数の著作中で大衆の革命的・創造的精神によって発見された国民的プロレタリア権力の一形態、労働フランスの名と利益において、p.192 そして、究極的には全世界の労働者の利益のために介入する権力の一形態であることを示した。「コミューンは何らかの部分的目標ないしは狭い国民的目標のためではなく、すべての勤労的人道主義、すべての卑下された者、すべての凌辱された人々の解放のために闘った。」

 レーニンの誕生はパリの事件とほぼ時を同じくする。彼の革命的概念はコミュナールの英雄的武勲と悲劇がなおまだ人民の記憶中で新しく、ペール=ラシェーズ墓地の壁の下で最後のパリ市民を銃殺刑に処したヴェルサイユのシャスポー銃の発砲の反響が世界中に鳴り響いているときに形成された。これらすべての事件は、偉大な革命家にして思想家の精神に消しがたい跡を標した。レーニンの友人のV.Bonuc-Bruevicは書いている。「レーニンはパリ・コミューンの諸事件について格別の愛着心をもって、自分は文字どおり心底からそれを知っていると語った。」「彼は非常に多くの情熱を込めてこれらの戦闘を呼び覚まし、この町の革命プロレタリアートによってパリで交わされた大規模な戦闘を彼自身が目撃したかのようだった。」

 レーニンは1894年の春、新聞中でパリ・コミューンについて初めて言及する。その当時、周知のように、彼は帝政ロシアのロシア共産党と激しく争っていた。それ以来、彼の生涯の最後の日まで1871年のフランスの革命についての諸問題は彼の著作、論文、書簡、ノートの行間においてつねに反映を見出した。

 周知のように、レーニンは1895年6月、彼が最初のパリ滞在中に最初にプロレタリア独裁の歴史の研究に着手した。彼は1917年10月以前に、以下に列挙する著作中で特別にそれを分析した。つまり、「国家と革命」「コミューンの教訓」「コミューンの追想のために」「市街戦について(コミューンの一将軍の助言)」「民主主義革命における社会民主主義の2つの戦術」「戦争とロシア社会民主主義」「プロレタリア革命の軍事作戦」「遠くからの手紙」「権力の二重構造について」等々。

 コミューンの諸事件から教訓を引き出すこと、そして、その伝統を維持すること、レーニンは上記の作品中でこれを強調したが、このことがロシアにおける革命闘争の成功の主要な条件のひとつである。1905~07年のロシア第一次革命と1917年の2月革命を分析することによってレーニンはこれらをコミューンの生き生きとした体験を細心の注意を払って比較した。彼はくり返し戒めた。「われわれは実際の運動でコミューンを基礎に据える。」コミューンの教訓を引き出すことによってロシアの労働階級は「その誤謬ではなく、・・・進むべき道を示すところの成功で取り囲まれたその実際行動をこそ模倣」しなければならない。

 反動が始まり、それが1871年の労働者蜂起を血の海の中に溺死させたとき、ティエールは次のような空威張りの宣言を大急ぎで貼りだした。「今や、社会主義は万事休すだ、永久に!」p.193  諸事件は彼の予告の確認を引き受けた。コミュナールの敗北は彼らの戦いが無駄であったことをけっして意味しない。「その先輩たちの経験によって豊かにされた。新しい社会主義世代は … コミューン戦士の手から落ちた旗を拾い上げた」とレーニンは言う。その悲劇的結末にもかかわらず、コミューンは幾百万という労働者に対し大きな影響を与えた。「パリの砲声はプロレタリアートの中で最も後れた社会層をその眠りから呼び覚まし、至る処で社会主義革命のプロパガンダに対し新たな刺激を与えた。」

 人民大衆には世界へ攻撃の準備を促すことによって、ボルシェヴィキは1871年のフランスの革命の経験を厳密に考慮した。十月事件に先んじること数か月、レーニンは一度ならず、ボルシェヴィキ党はパリの蜂起者の致命的愚行をくり返すつもりはまったくないこと、そして、ロシアのヴェルサイユ軍に対して防御的対峙にとどまってはいないことを再論した。

 パリ蜂起の46年後、フランスの最良の息子が命を投げ出した大義がロシアで勝利する。たしかに、異なる歴史的・地理的コンテクストにおいて展開する十月革命の流れの中で、人民大衆は1871年3月と同じやり方で発議されるわけがないとの理由から、多数の疑問を非常に異なったふうに解かねばならなかったのは事実だが、その本質として(レーニンはいつもこれを強調したのだが)パリ・コミューンとソヴィエト国家は同じタイプの社会構造をもち、プロレタリア独裁が権力の本質的原理を構成する。ケレンスキー政府の転覆の1か月後、レーニンは再びパリ・コミューンをソヴィエトの原型として特徴づける義務を感じ、こう宣言した。「パリ・コミューンはイニシアティブ、自立性、運動の自由、下から湧き上がる活発な躍動 ― 自由に同意され、ルーティンとは無縁の集権主義への統合 ― という偉大な実例を提供した。われわれのソヴィエトも同じ道を辿るであろう。」

 1917年10月24日から27日にかけて起草された論文「旧制度の破綻を恐れる者、新制度のために戦う者」においてレーニンは、転覆された所有者階級に関してボルシェヴィキによる強制処分の適用についての官僚たちの非難に答えて言う。すなわち、社会主義はプロレタリア権力の敵に対して最も激越で最も厳しい階級闘争の枠内で発展するものであることを強調した。レーニンはコミューンの実例を参照しつつ、コミューン崩壊の原因のひとつはまさしく、コミューンが「精力的に搾取者の抵抗をうち砕くために武力を利用しなかった事実に起因することを指摘した。

彼は強調する。ソヴィエト権力はこうした誤謬をくり返さないであろう。p.194  われわれはソヴィエト権力への抵抗を試み、他の理由で失敗への向う見ずな試みに対する抑制措置によって応えることとなるだろう。」彼はロシア海軍の第1回会議で身体性の勝利を確保することになると宣した。歴史から引きだされた教訓を考慮したレーニンが草案した革命的諸原理を断固として最後まで利用することがロシア・プロレタリア権力のまさしく決意であった。戦略・戦術計画に対する無分別や妥協はプロレタリア革命の運命にとって不幸な結果をもたらすであろう。というのは、1793年のジャコバン独裁の英雄の一人のサン=ジュストがその当時、正当にも注目したように、革命を半分だけおこなう者は己自身の墓穴を掘るに等しいからだ。

 レーニンは演説や論文によって差し示した。革命によって転覆された所有者階級はその敗北を認めず、内乱の火蓋を切って落とすことで人民権力を窒息させようとするだろう。この場合、たった一つの解決法しか残らない。すなわち、「…内乱において搾取者にうち勝つか、それとも革命側が死ぬかのいずれかだ。すべての革命で問いが起こるのはいずれもこのような種のものである。」社会主義者であることを主張しながら、事実的に革命の道を改良主義の道に引きずり込むことのみを求める者のドグマを批判することによって、レーニンは1917年10月に、転覆された所有者階級が一か八かの冒険の挙に出ていかなる罪も厭わずおこなうことを、世の他のだれよりも疑わなかった。「すべての社会主義史、とりわけ革命運動に造詣の深いフランス社会主義の歴史はわれわれに、勤労人民がそれ自身で権力を掌握したとき、指導者階級は彼らのカネ袋を守るために罪悪と略式処刑の大饗宴に没頭することを示しているのではないか?」

 1871年と1917年のプロレタリア革命において特殊で全般的な対決。これらの大事件がくり広げたコミュナールの敗北の原因の分析、諸事件の相対的な特徴などは例外的な理論的重要を示している。

 人民委員会の活動に関するロシア=ソヴィエト第3回会議での報告書を1918年1月11日におこなったとき、レーニンは満足感を込めてこう述べた。ソヴィエト政府の結成以来2か月半が過ぎた。これは1871年のパリ暴動の権力がかつて体験したより5日間ほど長い。「われわれがとりわけ回顧的な眼差しを投げかけたり、それを10月25日に結成されたソヴィエト権力に擬えたりすることで考えなければならないのは、この労働者権力のことである。」そして、彼はつけ加える。「当時のプロレタリア独裁と今日のそれとの比較はわれわれに直ちに、国際労働運動が達成した巨大な足跡と無限に有利な状況 ― p.195 その中で内戦と経済的破綻によってつくりだされた信じがたいほどに複雑な諸事件にもかかわらず、ロシアにおけるソヴィエト権力が位置する ― を示している。」

  1919年におけるロシアの歴史的状況はどんな意味で恵まれていたか? いろいろある要素の中でレーニンはロシアの兵士、労働者、農民が単一の組織 ― 世界中にその戦闘形態を知らしめたソヴィエト政権 ― を置くことができたという事実を特別に引きだした。「パリ・コミューンに基礎を置く」ボルシェヴィキはどんな道を歩むべきか、また、どんな目標のために戦うべきか、老衰した世界の攻撃を与えるためにだれと同盟すべきか、を明瞭に見ることができたのである。

 コミュナールに関していえば、「彼らが労働者政府の最初に体験したのは未曾有の犠牲という代償をはらったうえでのことだった。大部分のフランス農民は無理解のままに放置された。これとは対照的に、ボルシェヴィキ党は決定的勝利のために労働者階級、大部分の勤労農民、全労働者、搾取された階級を時代後れの制度に敵対する単一の力の結成に向け統合することのできたひとつの権力を置かねばならないことを片時も忘れなかった。1か月後、綱領の改正と党名の変更についてP.C.(b)R.の第7回特別会議に提出された業績が向かう結果について考えていなかったことに注目した。フランス社会主義者のどんな党派もコミューンがなした治績を意識しなかった。コミューンを実行した者は「大衆」の直観的な閃きによって動かされたのであった。」

 同じ頃、レーニンは1871年のパリ市民によって実現された武勲の位置を疑問視したり、コミューンの階級的本質 ― そのメリットは僅か数週間の命と単一の都市でおこなわれたすぎないにしても、新しいタイプの国家を創建した点にまさしくあるのだが ― を低めたりするあらゆる企図を精力的に拒否し非難した。労働階級の手柄を前にその興味深い尊敬の念を表明することによってレーニンはマルクスとエンゲルスに従いつつ、19世紀末においてフランスのプロレタリア弾圧に対する十数年の反対闘争の最中で「革命的行動において」「イニシアティブと自己犠牲の精神」を鍛えあげたことに注目する。

 パリ・コミューンと比較した場合でのソヴィエト共和国が位置した有利な状況はレーニンに従えば、以下のように断言する理由があった。すなわち、けっして終わりまで導かれることのなかった1871年の革命の最も根本的な施策はソヴィエト=ロシアにおいてそれらの実現を見出した。つまり、新しいタイプの民主主義の実現、赤字における大衆の総武装、人民に忠実な軍事的幹部の結成、真に民衆的な裁判所の組織化を意味する。p.196  レーニンは1918年1月12日のロシア=ソヴィエト第3回会議で宣言した閉会報告の中で言う。コミューンは好機に十分な武力を利用しなかったがゆえにこそ倒れた、と。