討論【Ⅲ】(その2) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

討論【Ⅲ】(その2)

 

H.ルフェーブル

 M.ジョンストンの質問に答えたい。歴史研究に社会学的概念を導入することは本来的意味での史料批判せずにすますことではなくて、これと反対に補完することをいう。私がコミューン研究に幾つかの社会学的観念が介入できると思うのは、ひとつの史料、すなわち「祭り」に関する本質的史料を発見したのちである。さらに、そのテーマはコミューンの新聞に、コミュナールの著者に絶えず取りあげられている。今日まで証明されなかったが、そのテーマはいつも作家の作品に表われる。私の意見によれば、3月18日に生起したものについて以下に最良の描写が見られる。

 「国民衛兵が到着したのはまさにこの時だ。これは18日にモンマルトルで生起する。衛兵は兵士たちが大砲を持ち去るのを防ぐために車輪にしつこく付きまとう群衆に割って入ろうとする男たちを捕まえた。特に女たちは怒りで叫び声を挙げる。車から離れなさい、往ってしまえ、われわれは大砲を欲する。われわれは大砲をもつであろう! 砲兵たちは大波のような動きによって揺さぶられた群衆の両方に、銃剣の鋼鉄のきらめきを見た。群衆は鞍に跨ったまま動かず、馬の底に車除け大石に上って叫び声を挙げた。引綱を切れ! 長い歓びの声を張りあげた群衆、女たち、10分ほども前から手渡しで受け取った小刀を手に取り、綱を切った。砲兵らは彼らを乗せた馬によって運ばれていく。目的とする物から引き剝がされる。そして、彼らに兄弟になろうと初めのグループによって取り囲まれる。人々は彼らにブドウ酒のいっぱい詰まった水差しを差し出す。肉の入ったバター付きパンも。彼らもまた飢えの渇きを覚えていた。大砲は取り戻され、大砲は人民の手に残る。」

 歓喜、驚くべき雰囲気の光景である。そして、私はお望みとあらば、原文をもっと引用してもよい。

 

P.ヴィラール

 社会学的方法の歴史へ導入のためのルフェーブルの弁護に私は非常に感動したということを同氏に伝えたい。個人的に私はまったく同感であるが、私はこうも彼に言いたい。われわれは根底として形式をもってはならず、事物としての言葉をもってはならないという気遣いをもつことが、歴史家にとって重要であることを。思うに、マルクスが歴史において回顧的方法を称賛していることをくり返してはならない。それを適用することが必要である。そして、このことは極端な厳格さを要する。何らかの類似性を発見するために、もう一つのエピソードから現実がわれわれに示した何かに接近しただけで、また選定しただけで満足してはならない。p.185 分析が、まったく異なっているものを回顧的に分析することが肝要なのである。

 他方、H.ルフェーブルの社会学 ― 当該史料を引用することによってそのことを説明するやり方だが ― は私の見るところでは、歴史の最も悪い方法を使っているように思われる。私はそこまでいかないだろう。彼は語の古い意味での歴史家として現れたと言おう。彼が「私は証拠となる史料をもたらすであろう」というとき、まさしくそうなのである。一つの史料は一つの細かな事実を除けば、何ものをも証明していない。しかも、それが本ものであるという条件で。一つの史料は、それがわれわれに何かを思い出させ、われわれのために何かをおそらく何らかの解釈の対象を呼び起こすということも、事実を証明していないのである。先ほどルフェーブルは言った。「以上、私は諸君に証拠をもってきた。これが生起したものだ」。私にはそのことを社会学でも歴史でもないように思われる。

 要素についていえば、「急がせる」「触媒」「結晶」という用語ほど感情を揺り動かすものではない。だが、それらはイメージであることをいわねばならない。だから、それらはイメージであるといわねばならない。「祭り」という語についていうと、この語は私が最初に出くわしたとき、私に感動を与えた。現実に対するこのような巧みな表現はわれわれに一定数の物事を曝露し、かつそれを呼び起こすことを可能にする。しかし、今や説明としてそれがくり返されるのに遭遇したとき、それは実際にもう一つの事物の「証明」であるにすぎず、けっして分析ではないのではないか、と私は怪しんでいる。私のいうところの満場一致の現象というものを分析してみたい気を起させる、と私は個人的にはもつ。そして、私は重要なことは、あなたが当然のことながら語ったこの事件が満場一致の雰囲気の火蓋を切ったまさにその時に、人々はもはや反対側にいることができないことを示していることだ。しかし、あなたはこれを1914年8月1日にも適用できよう。この時、これとは正反対に労働者の考え方をすべてうち消してしまったのは権力ではなかったのだ。〔訳注:それまで反戦を唱えていた労働者たちが一転して「祖国防衛戦争」に賛同してしまったこと〕それが深めるべき物事であることを私は期待するが、それ自身を説明として与えることはできない。それを本質的に形式の一つの分析として与えるべきである。

 あなたがコミューン時における権力の破裂ないしは消滅と言ったこと ― 私は破裂という語のほうを好むが ― を権力の漸進的消滅とを同一視することに賛同できない。後者は条件において社会主義体制を規則的にうち固めていくものなのである。

 私の見るところ、われわれ歴史家は社会学の諸経験を活用しなければならないが、われわれはしばしば印象主義的な社会学的方法を文字どおりの史料を、あなたが喜んで受け入れるであろうものを以て、諸事件の分析、同様にむろん構造の分析からスタートとして歴史における実践への移行と理論のあいだの関係の研究に代置することはできないのである。

 

D.ルコヴィック

 われわれはコミューンおよび国家の問題に没頭している。しかし、コミューンそのものはさしてこの国家の問題に気を遣ってきたわけではない。その第一の理由は、古い国家機構が消失してしまったからであり、p.186  第二の理由はコミューンにとっての主要問題を提起したという事実、コミューンが自由の問題の結果として国家の問題を提起したという事実にまさしくあるのだ。秩序か無秩序か、必然か自由かといった古い二律背反の前に置かれたコミューンは弁証法的総合における均衡を見出した。すなわち、コミューンは自由の秩序をうち立てようとした。コミューン宣言から生まれた新しいタイプの権力は絶対自由主義の権力であり、人間的自由の結果として行動する新しいタイプの権力である。われわれがいま没頭している分野におけるパリコミューンの特殊性、その歴史的偉大さは、コミューンが型枠つまり伝統的政治構造を凌駕したという事実に、そしてまた、コミューンが政治的社会から人道的社会への偉大な移行を試みたという事実に発する、と私は信じる。

 

M.ダヴィッド(David)

  しかし、あなたが呼び起こしたこの「絶対自由主義的権力」は何らかの方法で国家そのものを更新ではないのか?

 

D.ルドヴィック

 明らかにそのとおりだ。だが、絶対自由主義権力の問題をコミューンは支配階級としてのプロレタリアートそのものに提起することでそれを解明したのである。

 

H.ルフェーブル

 さらにもう一言。おそらく革命的諸事件に結合する「祭り」のこの性格は特殊フランス的なものであろう。そして、この意味においてこの概念は階級闘争の分析にとどめ置かれる価値がある。

 

P.イヴノー(Eveno)

  まず最初に、私はすべての共産主義擁護の歴史家になすであろう非難をM.ジョンストンに対してなしたい。彼らはつねにこれを「喧騒」に転換してしまう。祭りと人道主義の喧騒を混同してはならない。祭りというこの語に完全な意味を与えるためには、歴史において社会学的概念のみならず心理的概念をもち込むことが必要である。歴史家がフロイト、ライヒ、マルクーゼを少しは学ぶべき時であろう。

 

J.ブリュア

 ルフェーブル報告についてのみ2、3評言を述べたい。私は祭りの観念に依拠しない。そして、私はP.ヴィラールが先ほど言ったことにまったく異論はない。私はH.ルフェーブルが進めた2つの根本的・社会学的次元をごく簡単に取りあげてみたい。すなわち、最初は触媒・分析的次元、2番目の町の次元について。

 前者についていえば、私は自問する必要があると思う。そして、そこで歴史家は社会学者に合流しよう。自問とは、なぜ分析家・触媒があったのか。そして、その説明は3月18日以前にのみ偶然的に可能である。そのわけはまさしく、その起爆装置が事実的に可動中の爆薬の堆積と集まりがあったからである。人々が「分析・触媒」という語のみで満足しないことを希望するのであって、なぜそれらが実質的に3月18日の翌日に作動したかを問うことを希望したい。

p.187   都市と「空間」占拠の問題に関して2番目の注釈を述べる。いま一度、描写と説明を混同しないよう、と言っておきたい! 「空間の占拠」によって何を理解すべきか? このことはコミュナールがパリの住民をそこに置くために美麗街区の住民を収用することを意味する。月曜日、以前には行かなかったのにテュイルリーや美麗街区に押しかけることを「都市の占拠」と人は呼ばないし、それは明らかにお祭り騒ぎの要素であったであろうか。空間の真実の占領とは収用者の収用を意味する。後者は砲撃のパリ市民の犠牲者を宿泊させるために幾つかの邸宅を没収した以外、コミューンはこれを実現しなかったのである。

 

H.ルフェーブル

 問題は空間にとって非常に重要であったが、街路と町の中心の再占拠(の線引き)は街路によっておこなわれた。

 

J.ブリュア

 人が工場の所有者を収用するのは工場の門を占拠することによってではない。

 

H.ルフェーブル

 しかし、コミュナールは市役所を皮切りに、すべての公共施設を再占領した。再収用の過程で再占拠されたのは空間の本質である。

 

A.ソブール

 私は「喧騒」とは言っていない。祭りという用語にたち戻ることをご寛恕願いたい。議論において祭りという語が用いられたが、講演中のルフェーブルはつねに「暴力的祭り」を問題にしていた。彼がそれによって「祭り」にアクセントを置いているのか、それとも「暴力的」のほうに置いているのか説明していただきたい。暴力的祭りの概念に私には祭りを遥かに超えているように思えるのだが。

 

H.ルフェーブル

 この議論において私はいま一度祭りという語を、陳腐で平凡化された受け止め方から引き離すようにつとめた。それは単なる田舎の祭りないしは喧騒ではない。悲劇的な祭りであり、それゆえに常に私は私の著書『コミューンの宣言』をソフォクレスのトラキスの女から借用した引用の象徴のもとにおいた。

 暴力と祭りは必然的に排他的ではない。類似の面があり、そこにおいて人は暴力の反響という面と、笑いと熱狂、そして、解き放たれた暴力の瞬間に生まれる一種の歓びがある。暴力は長期に亘り、祭りは決められた瞬間に火蓋を切る。それはルコント(Leconte)とトマ(Thomas)両将軍逮捕の瞬間に生じた。私が引用した物語はピガール広場の周辺で非常に的確な意味での喧騒を描いた。そして、次いでとつぜんに群衆は2人の将軍に突進する。そして、悲劇が起こる!

 

M.ダヴィッド

 J.ブリュアの介在の問題に戻るとして、水準の問題に関して質問したい。ブリュアは結局のところ、蜂起において純粋に対照的な2つの水準をわれわれに示す。コミューン議会のそれといろいろな基礎組織のそれである。p.188  私は、それは少々溝を押しひろげることにならなかったかと思う。つまり、コミューン議会を成立させたものと、下部から生起したものは結局のところ、基礎において同じタイプの民主主義〔訳注:人民主権にもとづく直接民主主義〕を使うことを意味しなかったかどうかである。対照的に、コミューンにおいて同様に示されるもう一つ別の水準では、公安委員会のそれは真実の裂け目を示す。水準の相違があること、そして、下からの民主主義をしだいに活発にすることについて興味深い探究があることを考える点で私はまったく同感である。しかし、私のみるところ、全体を形づくるために交差する前者と後者のあいだには裂け目はないと思う。しかし、3つ目の水準の公安委員会に関してあなたの説明は明確でなかったように思う。

 第二の注釈は、法律家と法思想史に関する注釈である。私にはあなたがコミューンのエピソードを語る際に、その根底において権力が国家へ、いわば一つの権力を示す国家そのものへの移行があることを示したとき、非常に示唆的だと思われる。あなたは初めての労働者のために使われた強制力(同感である!)の権力を提起した。法律的観点からみて、私が問題視するのは、あなたが一つの権力を国家にどのように転換していくのかを示すために付言した中身である。あなたは一連の属性として人民主権の行使を仄めかした。基礎的水準においてコミュナールが行使するあらゆる所業は直接的人民主権そのものというよりも遥かに多くの公権力に依存しているのではないか。

 もうひとつ質問がある。革命的時期に人民が主権をとり戻すということは、人民による何事か― 論理的にいうと、この主権そのものを凌駕し、正確に(あなたのいう意味においてだが)公権力、したがってとりわけ国家に依存する ― の実行に到達するのは必然だが、それはどのように運ぶのか?

 

J.ルージュリ

 J.ブリュアに質問したい。あなたはわれわれにこう言った。いつも何か新しいものが創造されたが、結局、それは不成功に終わり失敗に帰した範囲において創造されたことを示す、と。失敗が何事かの創造の証明であるという点について私は賛成できない。

 さらに、好むと好まざるとにかかわらず、マルクスは少なくとも『フランスの内乱』の初版で国家の廃絶ないしは廃絶された国家について語っているのか? あなたはどう見るのか?

 最後に、今日までコミューン下においてあれこれの政体のもとで盛んに用いられた直接民主政という語をだれも用いなかったのはなぜなのか? 直接民主主義は権力の問題、国家の問題の諸局面の一つではあるが。

 

J.ブリュア

 ダヴィッドの質問に簡単に答えたい。根底においてわれわれのあいだに不一致はない、と私は思う。私は2つの水準を区別するに際し、私の仮説を図式化しなければならなかった。私が往復運動を呼ぶものをあなたは交差と呼んだ。コミューンに関する考察がp.189  その2つの水準のあいだの関係、交差の追究を要することを示している。コミューンはその本質において水準1と水準2のいずれか一方に位置しているのではなく、まさしく必要なアマルガムの追求の中に位置を占めているのだ。

 私が直接民主主義について語らなかったのは、ひとえにその公式がとっさに私の頭に思い浮かばなかったからにほかならない。

 

J.ルージュリ

 だが、あなたは「基礎の民主主義」と言った。

 

J.ブリュア

 基礎の民主主義! 私はそこでは、ひとつの直接民主主義、直接民主主義のひとつの企図が問題になると思う。私はまた、あなたの最初の質問に答えたい。すなわち、私のいわゆる「新しい」と呼ぶところのもの、それは成功しなかった。そして後は? 複雑な事情があって最後まで導かれえなかったイニシアティブに対し新たな資格を与える権利を私はもたないのか? (権利がないと想定すれば)人はいったい、いかなる歴史的概念の名において考えるのか? 新しいことをおこなう試み、新しいものへの願望が、たとえコミューンがこの新しいものの実現というゴールまで行きつかなかったとしても ― コミューンの頓挫の原因には戻らないようにしよう ― 歴史家によって登録されえないなんて!

 

J.ルージュリ

 あなたはたえず新しい権力、新国家の創建を語った。あなたは私のもう一つの質問に答えていない。つまり、「国家を廃絶する」ことを。

 

J.ブリュア

 国家の廃絶についていえば、私はこう考える。コミューンが創始した直接民主主義の政治形態において事実的に国家の消滅に向かう諸要素があった。そして、何らかの主権が正確に直接民主主義に付託された範囲において国家の消滅の構成要素と人が呼ぶことのできるものがそこに存在した。しかし、状況のせいでこれら国家の消滅のための要素は十分に作動しなかったことは非常にはっきりしている。コミューンが国家であるとともに非国家でもあるという事実に光を当てたマルクスの解釈はこのようなものである。なぜなら、人が国家と呼ぶところのものの中に、伝統的に照合された諸権力があるからである。また、同時に直接民主主義の実践において、もしコミューンがもう少し生き永らえていたら、国家の消滅のための諸形態に行き着きえたであろう諸要素ももつからである。

 

J.ルージュリ

 あなたは『フランスの内乱』の効力を弱めているように思える。国家の「消滅」という用語を宣したのはエンゲルスの後日の言明であり、彼の後となると、レーニンである。マルクスは1871年にはもっと力強く「廃絶」と言っている。

 

J.ジュイヤール

 少々話を戻すのをお許し願いたい。私はルフェーブルが提起した暴力的祭りという概念にたち戻りたい。個人的に私はこの概念は中身に富んでいると思うし、いずれにせよ、もっと深めることを受け入れたい気分になっている。私が彼に同意する程度に(こうした言い方をお許し願えるなら)ルフェーブルがこの概念を十分に力強く擁護していないとも思う。祭りが単なる喧騒ではないこと、また、単なる狂喜乱舞ではないことは真実である。p.190  私はそこにむしろ、一種の自己解放 ― それを構成する諸要素の対象は群衆の側からいえば、多かれ少なかれアイデンティティの再獲得を意識した一種の試みである ― を見る。これはコミューンにおいて事実的に現れねばならなかった。まさしくそれが現れることができるように、また、これが同じ性質をもつ一定数の爆発として現実のものとなったように。H.ルフェーブルは1936年を〔訳注:人民解放戦線の成立〕引用した。私はもっと単純にいかなるストライキでも引用するであろう。人はそこに同じものを見出す。

 暴力の観念についていえば、それはルフェーブルがそう言ったように、単なる銃砲ではない。それはもっと奥深い破裂であるように思われる。私はそこに個人的にだが、とりわけ実質的に生じたものと比較して一種の予兆を垣間見る。私はストライキの例、なんでもないストライキの例を再度取りあげたい。ストライキは出発点において非常に細かく決められた諸要求から着想を得る。次いでそのプロセスが展開するにつれて、それはもはやまったく以前のものではなくなること、影で他の要素が作用していることに気づかされる。最終的にその原因となっているのは養成工員(OS)の状況である。

 人が暴力的祭りを語る場合、あるものの向う側に表現されたもの、コミューン時に極めて悪しざまに保証され、朧気ながら姿を現わすものを見出すべくつとめることが肝要と思われる。いま一度、1グループないしは1階級の同一性の回復への傾向をもつ無限に広い他のものがない場合には。

 

J.ガイヤール

 私の主張を切りなおすJ.ジュリアールの発言に付加すべきことはない。私の言いたいことをもう少し細かくいえば、この頃のパリにおいては満場一致の、しかも集団的精神の感情が今日より遥かに強かったということだ。たとえば、宿泊施設が少なかったため、あるいは、カフェは当時のパリ市民にあっては今日そうである以上に、人々が通いつめた会合場であったために、そこで人々はカウンターで1杯の酒を消費するだけでなく、そこに腰かけて語り合う。これは消えつつある光景である。警視庁長官は、玉突き台通いが減ったのは1871年以降であると示している。人がフォブール・サン=タントワーヌのカフェの幾つかの古いものを訪れる好奇心をもてば、それらは会合のために、また、祭りのために、ストライキの組織化のために、あらゆる種の秘密会合のための、仕切られた1~2部屋の奥の間を備えたカフェであることを発見するであろう。これらには習慣により保たれた一種の満場一致が見られた。この満場一致は特に国民衛兵の真只中においてもう一つの新しい表現形式をとった。バスティーユ広場の集会の描写を読むとき、そしてまた、2月24日から3月初めにかけての1848年の共和政の宣言の記念式典の描写を読むとき、新しい現実の息吹、祭りの息吹を感じ取ることができる。そして、この祭りにおいては戦列歩兵隊、海兵隊が参列し、それらは指揮官の命に従って練り歩く。兵士らはその将校たちの器量品定めのために集結する。これらすべてを貫いて依然としてひとつの政府を構成する市役所にいる面々と、それぞれ固有の表現のかたちをもつ民衆的「街区」の面々との間で、一種の緊張を基礎として生じる重要な自覚を人は認めあう。私は後者の実例としてクラブを想定している。