討論【Ⅲ】(その1) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

討論【Ⅲ】(その1)

 

p.179

A.レーニング(Lehning)

 われわれは今や具体的現象としてのコミューンではなく、その解釈および諸解釈を討論対象としている。それゆえにこそ、J.ブリュアが語った諸事件の理論に関して幾つかの評言を述べたいと思う。

 私はJ.ルージュリ報告から、現実から遠ざかる危険を冒してまであまりに系統立ててはいけないことを学んだ。他の幾つかのシンポジウムでおこなわれた他の報告と同じく、今回の報告を以てわれわれはコミューンの複雑な歴史の優れた理解への模索途上にいると、私は思う。私はこの歴史を語ることを差し控えようと思う。しかしながら、そこから幾つかの本質的傾向の公式化の試みは必要であろう。私はそれらの傾向を以下の5点において要約したい。非中央集権化、コミュナリズム、連邦主義、直接民主主義、象徴化の5点である。私は連邦主義の問題とコミュナリズムのそれのみを取りあげる。

 われわれは会議から会議へのなかで問題を提起してきた。「コミューンとは何か?」しかし、実際はある一つの本文が1871年の計画を要約している、と私は思う。私は4月19日のフランス人民への宣言について語りたい。幾つかのパラグラフの引用を許してほしい。

 「…フランスのすべての地域に拡げられたコミューンの絶対的自治、これは各地域にその権利のすべてを、フランス人すべてに人間・市民・労働者としてのその能力、その天賦の才の完全なる行使を保証する。

 コミューンの自治は限界として、コミューンへの加盟がフランス的統一を保証するにちがいない契約にした他のすべてのコミューンと同等の自治の権利のみをもつであろう。…

 今日にいたるまで帝政、王政、議会政によってわれわれに課してきたような統一は愚劣にして恣意的ないし厄介な専制的中央集権化以外のなにものでもない。

 パリが欲するような政治的統一はあらゆる地域的イニシアティブブの自発的連合、共同の目標に向かうすべての個人的エネルギーからの自発的にして自由な協力である。・・・」

 この宣言はおそらく大部分がドレクリューズの作品であることをJ.ルージュリはわれわれに想起させた。この宣言を読んだのち、第10区からコミューンに派遣されたラストゥール(Rastoul)は「ジャコバン派の指導者の一人によって宣せられたジャコバン主義の弔辞」と言った。指導者の一人とはドレクリューズを指す。

 私見ではコミューンはブルジョア国家の破壊として独立したのであった、新しい国家機構の提示までにいたらないと思う。

p.180    何がブルジョア国家機構にとって代わるのか? この問題についてマルクスは答え、そしてレーニンは引用する。

 「コミューンは町の異なった区で普通選挙を通じて樹立された市議会議員から成っていた。彼らは責任を有し、短期間に更迭しうる存在だった。議員の多数は必然的に労働者ないし労働者階級から認められた代表であった。… 中央政府の官吏でありつづける代わりに、警察はあらゆる政治的な権限を剥奪され、コミューンの吏員に代えられた。この吏員はコミューンが責任をもち、いつでも罷免できた。事務員と行政当局の他のすべての部門も同様だった。

 コミューン議員から下僚にいたるまでこの公共サービスは労働者の賃金のために保証されねばならなかった。慣行的利益や高位官僚のそのものの代表の手当は高位官僚自体とともに消失した。」

 マルクスはさらに先を行く。今度はレーニンの引用にはもはや見出されない。

 「パリコミューンはむろん、フランスのすべての大工業中心地にとってモデルとして機能するはずだった。コミューン制度はひとたび、パリにおいて、次いで第2級の中心地に樹立されるやいなや、中央集権の古い政府は地方においても同様に、生産者の自治政府に席を譲らねばならないであろう。」

 マルクスによれば、コミューンはその本質的原理として生産者の自治政府により、そして自治コミュ―ンの連合によって国家的政治中央集権に代わるべきものであった。地方はこれまでのように、上から下へと統治されてはならず、下から上へとそれ自身で統治しなければならなかった。

 「コミューンは農村のきわめて小さな村落の政治形態でさえあらねばならない。・・・ 各地方の農村コミューンは、中心都市に派遣された集会により共同事務を管理しなければならない。そして、地方の集会は今度はパリの国家派遣部へ代表を送らねばならない。各代表はいつでも罷免され、その有権者の命令委任によって拘束される。

 ここでは、中央集権主義の痕跡が微塵もない。あらゆる政治形態の本質的特徴は、私の見るところ中央集権主義であり、すべての社会主義の本質は政治的支配と社会構造間の敵対関係を破壊することである。「権威主義的」傾向と社会主義史における「反権威主義的」傾向は国家権力の破壊によってのみ可能なことを認めることを前提にしている。思うに、マルクスの『フランスの内乱』においてそれぞれが見出される。しかし、言葉遊びはやめよう。どのようにして1871年は、『内乱』が「科学的社会主義」において弁証法 ― それによって特定の時に、政党として組織された労働階級は国家の手中にある生産手段を支配し、中央集権化するためには国家を征服しなければならない ― の中に組み込まれるのか?

  コミューンの目的は国家を消滅させることではなかった。マルクスが国家の廃止への序奏と定義したいずれの条件もコミューンで実現されることはなかった。マルクスについていえば、3か月後のロンドン会議でそれまで自治的連盟の連合であったインターナショナルを政党の中核に転換しようとつとめている。p.181  これは国家の征服のために労働者階級の政治行動や政党への組織化を義務化するものだった。引用すると、「プロレタリアートは自らを政党に組織することによってのみ階級として行動しうる。」1872年のハーグ会議でのAITの規約改正を忘れてはいけない。「政治権力の征服はプロレタリアートの偉大な義務となる。」

 一方、エンゲルスとマルクスはビスマルクの勝利をそれほど残念には思っていなかった。というのは、1870年7月25日、マルクスはエンゲルスにこう書いているからだ。

 「フランス人はこっ酷く殴られねばならない。もしプロイセンが勝利を収めれば、国家権力の集権化は世界における労働階級の中央集権化につながるであろう。また、ドイツの優越はフランスが有してきたヨーロッパの重心をドイツにもたらすであろう。ドイツの労働階級が組織化の面と同じく理論の面でもフランスの労働階級より優れているのを見るためには、1866年から今日いたるまでの運動を比較してみれば十分であろう。ドイツのプロレタリアートが世界戦略の面でフランスのプロレタリアートに優越していることは同時に、われわれの理論の、プルードン理論に対する優越をも示すことになろう。」

 数週間後の8月15日、エンゲルスは返答して曰く。「1866年の時と同じく、ビスマルクはわれわれが必要としているものの一部をもたらした。」

 ドイツの経済的・政治的中央集権化は社会主義のための前提条件であることをマルクスは当然事だと言いたかったのだ。『フランスの内乱』の国家の破壊に関する文章を読んで、人はずいぶん思いちがいをしている。さらに、この原文においてマルクスは「プロレタリアの独裁」なる語は使ってはいない。少し後にその語を使ったのはエンゲルスのほうである。優れた文句なのか? エンゲルスは『エアフルト綱領批判』においてこう書く。

 「絶対的に確実なのは、わが党および労働者階級が民主共和政の形態下で初めて支配に到達しうることである。民主共和政はプロレタリア独裁の特殊なタイプである。」

 さらに4年後、エンゲルスは議会行動を社会民主党の第一の義務と位置づける。なぜなら、合法的手段は蜂起手段よりも革命家にとって役立つからである。ブルジョアジーはその恐怖のあまり「合法性がわれわれを殺す」と告白せざるをえなくなるからだ。

 このあまりに長い干渉を終わるために私は言っておきたいことがある。連邦主義的・コミュナリスト的・直接民主主義的傾向 ― 人は1871年にまちがいなくその痕跡の存在を認める ― は、新しい国家の理論、つまりレーニンとあらゆるレーニン主義者がつねに言ってきたように、常に党の独裁であるプロレタリア独裁の名のもとでの独裁国家の理論のためには役立つことはありえない。

 もう一つ、短い引用を以て終わりとしたい。「理論は本質的に非妥協的であり、その純粋さ、その倫理、その自由、その力はこの非妥協性により決定され、また、証明されるものである。だからこそ、同盟はすべて教義として非倫理的であり、すなわち考えの及ばないことである。」以上は1866年のバクーニンの言明からの引用である。

 

M.モワッソニエ

 私はJ.ブリュアの説明にたち戻り、やがてコミューンの72日間に発展するのが見られる新国家から生まれた計画においてp.182  予行演習(platique préable)の役割について補足的な考察を進めたい。パリ住民の大衆 ― 少なくともそのエリートにおいてはこれもまた強調すべき価値のあることだが ― は事実的に籠城のあいだに決定の、そして決定の実践の見習いを経験した。このことはたとえば、国防政府の所業に関する議会査問委員会におけるトロシュへの尋問調書中で非常にはっきりしたやり方で表われる。ある時、国防政府はパリ区役所の周りに組織されたこれら委員会について語る。これら委員会は日常生活の組織化に貢献し、これら区役所がもはや帯びることが不可能となって他のイニシアティブへの訴えを広範におこなわざるをえなくなった任務を遂行する。その任務とは、武装・経済・補給の問題である。或る代議士(トロシュであったかもしれない)はコミューンの主だった首魁はこれらの人物中において ― じっさい、私はヴァルランを思い浮かべるが、彼はかなり傑出した代表的役割を演じたからだ ― 組織化や人民行政に関して新概念の日常的実践による担い手として前面に押し出したことを述べている。

 2番目の注釈を述べたい。権力の問題が極めて先鋭な方法で提起された分野がある。それは軍事の分野である。ここにおいては諸事件の大きくなりつつある一種の拡大鏡となる。思うに、J.ブリュアが推進した概念は完全に外科的である。ここにおいてはまた、2つのレベルの出現が見られる。ブリュアはそれについて、たとえば著書『コミューン』でのルイーズ・ミシェルの筆を借りて語っている。ミシェルは軍事問題を語るとき、凡そ次のように言う。「可能な解決法は2つある。ロッセルの解決法すなわち人民的イニシアティブが一つの解決法であり、自発性への訴えがもう一つの解決法である。」このことは以下を示している。事が殊に面倒な分野において2つのレベルの連結の問題は究極的に解決されなかったし、ルイーズ・ミシェルもこのことを付言する。「彼らは互いに正しかったのである。しかし、ただ一つ、どちらかを選ばなければならなかったのだ。」実際には、いずれか一方を選ばなければならなかったようには思われなかった。それは2つのレベルのあいだの関連の組織化とイニシアティブの問題そのものであるからだ。

 H.ルフェーブルが3月18日、町の中心部の軍事的再占領に関しての発言について注釈を述べたい。私は、人が言うように「自発的」であったかどうかまったく確信をもてない ― この点では同感だが。この再占領がたとえ陽気なものであったにしても、勝利で飾られた民衆行動が伴う歓びは非常によく理解できる。しかし、それでもやはり、町の中心部を守るという決心は遅ればせながら国民衛兵中央委員会が決意し、それに先んじて国民衛兵の幾人かの将校 ― その大部分は軍事革命干渉の戦略問題で敗北したブランキ派 ― によってなされた。

 

M.ジョンストン(Johnstone)

 H.ルフェーブルがこの民衆的喧騒 ― これを前にして国家権力が溶けてしまう ― について語ったことは、私は非常に優れた描写だと思う。p.183  にもかかわらず、私はこの描写が現実的状況を反映しているとはまず思わない。J.ブリュアがそのことを示した。そして、そのテーマを発展させることができるだろう。パリの国民衛兵は既に籠城時から唯一の実質的軍事権力となっていた。そして、これは歴史上の例外的な事がらではあるのだが、興味深いのは、籠城期に国民衛兵の階級的性格が変容してしまったことだ。最初は大部分がブルジョアジーから成る組織であったものが、国民衛兵は大衆の集団(当然にパリの労働者が加入する)となった。パリは3月18日、労働階級に対応する軍事組織を保有したのだ。例外的状況はそこから生まれる。それは、パリで実際、もはや存在しなくなった一権力、先ほどいったブルジョア国家権力を溶かしたのは「喧騒」の前ではない。

 第二の点。コミューンと1917年のロシア革命のあいだには類似性ないしは相違性があるや否やの問題。1920年代ソヴィエトの歴史家 ― 他国の歴史家も大かたそうだが ― は少々単純化した比較対照をおこなう傾向にある。たとえば、国民衛兵はソヴィエトに対応するとか言われた。したがって、権力を掌中に収めた国民衛兵を以て権力の二重性の問題が解かれたという。それはまったく新しい組織であって、国家の古い構造に対応していない。同じ歴史家たちはコミューンの早まった選挙についてマルクスがおこなった批判を援用した。思うに、マルクスに関していえば、彼が完全に承認していたコミューンの構造に関する彼の思想の根底と、マルクスによる、主な任務はヴェルサイユへの攻撃を組織することでなければならなかったまさにその時に選挙を実施することに関してイエスかノーかを知るという戦術的・軍事的問題とのあいだを区別しなければならない。

 コミューンはこれらの問題を解決しなかった。そして、そのことは興味深い。なぜというに、すべての革命は固有の特殊性をもっているからだ。国民衛兵中央委員会はその権威を二重権力の2つの構成部分の1つに戻すことによって権力の二重性の問題を解決した。中央委員会は普通選挙で全体的な市政選挙を組織したのだ。1871年の革命の特殊性が1917年のロシア革命と比較して生じるズレはそこから生じる。

p.184  最後に、マルクスとバクーニンに関して私がサセックス大学のシンポジウムでA.レーニングとのあいだで展開した論争をここでくり返そうとは思わない。しかし、コミューンそのものにおけるのと同じように、マルクスにおいては中央集権化の必要性と大衆の自発性と直接民主主義に対してより大きな豊かさを与えるよりも、大きな影響を与えることの必要性とのあいだに均衡を見出す企図が伺われることをまず以て強調しておかねばならないと思う。A.ソブールが言っているように、有効ないし有益である集中化をもつことと、同時に大衆の自発性が発展しうる形態を見出すことはあらゆる革命にとって常に問題となる。思うに、マルクスにおいては1840年代以降、2つのテーマが相並んでいるのが見られるが、これはコミューンの分析においてさらに発展させられるのである。分権的計画に対してコミューンが示す利点のための議論を彼が増やしたという事実があるのみではない。しかし、彼はこの主題についてあくまで絶対的である。コミューンは彼にとって分権化の古い企図を再構成する試みではなかった。マルクスはいろいろな手段で国民的統一の必要性を力説した。彼は既存の協同組合によって国民的基礎での生産の集中化の必要性についても主張した。

 私が興味深いと思うのは、J.ルージュリが『自由なパリ』で強調しているように、コミューンがフランス人民への訴えで以て中央集権化と地方分権化の総合の試みをおこなったことである。この意味においてJ.ルージュリとともにJ.ブリュアは昨日のプルードン派またはブランキ派がもはや過去と訣別し、諸事実の経験の圧力下で変わってしまったことを強調した点でまったく正しい。