H.ルフェーブル著「社会学者の意見― 国家か、非国家か?」 | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

H.ルフェーブル著「社会学者の意見― 国家か、非国家か?」

 

p.173

社会学者の意見 ― 国家か、非国家か? par Henri Lefebvre

 

 私はまず最初にひとつの欠落部分を埋め、幾つかの古典的原文を想起したい。これらの原文はこれまで問題視されたことはないが、それでも想起しなければならない理由がある。

 これらの原文はレーニンの『国家と革命』に見出されるが、彼はエンゲルスを引用しつつ、以下のようにいう。

 「エンゲルスはこう書いた。フランスは他のどこにもまして諸階級の歴史上の闘争がつねに徹底的におこなわれた国である。フランスはこの階級闘争がくり拡げられ、その結果を要約する連続的政治形態が際立ってはっきりつくりあげた国家である。

 中世においては封建制の中心、ルネサンス以降においては統一的・位階制的王政の古典国家としてのフランスは、大革命のあいだに封建制を破壊し、ブルジョアの支配に対して古典的純粋さの性格 ― 事のついでいうと、クラスとクラシックという語呂合わせはおそらく無意識のものだろう ― を与え、他のヨーロッパのいずれの国も到達しないほどの古典的純粋さの性格を与えた。同じように、覚醒したプロレタリアートが支配階級としてのブルジョアジーに対して惹き起こす闘争はここにおいて当時は未曾有の厳しい形態となった。」

 レーニンはなおも付加する。「この最後の特徴は古くなった」、と。彼によると、幾つかの特徴、大きな古典的特徴さえも古くなる。「フランス・プロレタリアートの革命闘争に中断があった。それにもかかわらず、この中断はいかに長期に亘るものであろうと、明日のプロレタリア革命においてフランスの階級闘争の古典的国家として姿を現わす可能性を少しも排除するものではない。」

 ところで、『国家と革命』のほかにもう一つの断片を紹介しておく。レーニンは言う。

 「プロレタリアートは国家を必要とする。マルクスによると、プロレタリアートにとっては、消滅しつつある国家のみが、すなわち、消滅しはじめても、けっして消滅することのないような国家のみが必要である。」

p.174   これらの原文を、歴史的事件に関する省察と熟考に挿入せずにすますわけにはいかないし、それらはわれわれをひとつのジレンマ、ひとつの二者択一の前に置くのである。

 マルクス、エンゲルス、レーニンがコミューンから引き出した教訓と結論はいまもなお有効であり、さらに今日では国家の社会主義の観念および社会主義における国家の役割を、政治的批判、歴史的批判に付す必要がある。

 歴史のこれらの教訓は政治的経験、必然を前にして朧ろになる。しかし、ある面からみると、コミューンは地方的に拡張され、後に神秘化された一事件として矮小化されている。到達したのはレーニン主義であり、おそらくはマルクス主義でもあっただろう。

 歴史家はこれらの疑問について検討することができるのか?

 これらの疑問は歴史家の領分と方法から逸脱しているのではないか、と私は思う。歴史家はこれらの疑問を発するやいなや、政治思想家、政治理論家に成り変わるのである。

 もし真に歴史家の仕事が特定の疑問からテーマを定め、切り取り、時期限定することに限られるなら、彼が打って出るのはこのようなものである。

 だが、マルクス、エンゲルス、レーニンがコミューンを解釈したのが真実であるとするなら、後における解釈はまた歴史的事実である。そして、結局のところ、われわれが知っているように、マルクス自身にとって歴史の方法は極めて前望的方法であったし、歴史的思想は過去から現在にたち返ることにより、必然的・不可避的に時間における因果関係の追究に到らなかったのである。マルクスにとって理論的・歴史的省察は諸結果や事件から事件への発展と意味を考察することによって回顧的に処理することができ、また、処理しなければならなかった。

 私はいま一度、特に重要な方法論的・理論的原文を想起する。

 「ブルジョア社会を表現し、その条件と構造の理解を表現するところのカテゴリーは同時に、あらゆるタイプの消滅した社会の構造と生産関係を理解することを可能にする。」

 人間の解剖はサルの解剖にとってのカギとなる。… これは優れた公式である。「… 下等動物の経験において優れた形を告げる潜在的性質は、優れた形がすでに知られているときにのみ理解されうる。かくてブルジョア経済は古代経済のカギを提供するが、… あらゆる歴史的差異を塗り消し、あらゆる社会形態の中にブルジョア的形態を見る経済学者のやり方ではそうはいかない。・・・」

p.175   したがって、非常に重要な方法論的なこの原文においてマルクスは理論と省察は前から後への同じように、後から前へと進めなければならないことを示している。

 したがって、ここで歴史家の展望を拡大することを提案できるだろう。公衆の面前で歴史家を語るとき、わたしが冒険的な行動をしていることを十分に弁えているが、私はその作業を企図することを躊躇しないだけでなく、次のように言いたい。すなわち、歴史的展望を拡大するために歴史家の概念は厳密にいって異なるであろうし、たとえば社会学者の概念であるところの新しい概念を導入せねばならないであろう、と。

 私は直ちにその一例を示す。それは分析と触媒の例である。

 ある特定の状況において歴史的といいうる、また歴史家がそのようなものというプロセスの進行中に、ある新しい状況の要素が堆積し、だがなおまだその特殊性において現れないとき、ひとつの小さな事件が一種の普遍的結晶作用を引き起こし、現実社会の不透明な厚みにおいての自覚を生じさせる。

 それは、外見上は小さな、かつ特定のときに参入してくる諸事件がその分析と触媒の効果を生みだす、今日の時代の経験そのものである。

 1871年3月18日に何が起こったか? 外見的には小さな事実である。大砲の存在、人民によって支払われたこれらの大砲の象徴(だが、人民は金銭次元で理屈を並べているのではなく、象徴次元において理屈を言う。大砲は人民の可能な力の象徴である。)これらの大砲がパリの丘上にあること、なお依然として公的であり合法的なそれを奪わんとする権力側の努力 ― これらがとつぜん‘précipiter’という語の文字どおりの意味において全首都の意識を突き落とす(précipiter)のである。

 特定の事件が特定社会の進行過程の特定の瞬間に分析と触媒の役割を果たす。ところで、何が起きたのか? 

 私はパリコミューンについても、軽視されてきた次元、本来の意味での社会学的次元を再構成しようとつとめる。

 この分析と触媒の参入の後、沸騰し解き放たれた自発性が現れる。しかし、それは方向性をもつ自発性、進むべき道を模索する自発性、特定の方向においてそれを求める自発性である。

 私についていえば、随分前から私は歴史的事件にこれらの次元つまり社会学的次元の存在を推測していた。これは1世紀前から、私がコミューンに関する史料を発見したときまで展開した政治的経験に対応する仮説であった。この史料はその仮説を確信に変えた。

 われわれがすでに知っているように、1878~1880年ころ、無名の著者(とはいえ、その名は推測されている)がコミューンに関する一定部数の小冊子を刊行した。その書名は『コミューンの真実の記録Histoire vraie de la Commune』といい、この小冊子の全部を発見したのはミラノのフェルトリネリ研究院である。この著者はプローレス(Prolès)にまちがいないが、p.176  彼は追放中のコミュナールで1878年に帰国し、私の見立てでは、最良にして最も活力に富み、最も完全なる物語を残した。彼は3月18日の戦闘を人民の一大祭典として描いている。

  徐々にパリはもはやブルジョアのパリであることをやめていく。なぜなら、ブルジョアの街区は空っぽであう。パリは街頭に出る。何が消失し、何が溶けだしたのか? モンマルトル丘の兵士たちは彼らにブドウ酒やサンドウィッチを差し出す婦人によって取り囲まれた。 

 そして、つづいて何が溶けたのか? 警察、そして諸制度、そして国家の機関。この一種の尋常ならざるバカ騒ぎ、強烈な祭典の数時間後には国家は消失していた。

 これは社会学的次元である。もし歴史家たちが社会学的次元を承認したいとは思わないのであれば、彼らは図式化にとどまるであろう。

 ここに忘れられた次元が再構成される。その再構成にもとづいて私は主張し、再構成にもとづく細かな一つの史料が存在する。私はその史料の中から夥しい数の抜粋を引用した。

 パリの労働者はオスマンによって中心部から狩りだされた。彼らは町の周辺部に向かって投げだされた。エンゲルスはその著『住宅問題』その他において示している。ボナパルティスムおよびオスマン男爵に特殊な手術が問題なのではなくて、労働者階級の集中化を心配し、その階級が町の中心部を占めるときに特に危険と見なす権力の一般的戦略が問題なのである。労働者階級は普遍的方法でできるだけ中心からほど遠い。すなわち、決定の中心から遠く離れた周辺部へ退散させられる。

 ところで、1871年3月18日のこの日、衛兵の労働者大隊と周辺部の大隊は中心に戻ってくる。かつて労働者が追放されたこの中心部を占有する。彼らは先頭に音楽隊を並ばせて戻ってくる。ティエールは、グロカイユーの大隊が窓の眼下に行進するのを聞いたとき恐怖に刈られる。彼は馬車に飛び乗り、ヴェルサイユに大急ぎで逃げのびる。

 さて、歴史的現象について社会学的といいうる幾つかの次元がここにある。

 知識の計画や政治理論の計画に基づいて幾つかの展望を拡大する大きな関心がある、と私は思う。

p.177  マルクス、エンゲルス、レーニンがコミューンから引きだすことができると信じた解釈の提起、すなわち国家の消滅の理論を以て、また他方では、われわれの固有の経験からこれらの事実の接近することの必要性を以て。1世紀前に始まるこれらの歴史的事実は大切に保存されミイラにされるべきもの、と私は考えない。これらの事実はわれわれの経験に似ている。社会学的次元を照射で貫いて、歴史的時間における距離は埋められる傾向にある。

 コミューンはわれわれに近い。なぜなら、都市的状況 ― それが最初の兆候の一つだったが― はそれ以後、ひたすら悪化の一途を辿るのみであったから。決定の中心から遠い労働者階級の隔離は意識をもつ戦略となった。そうした距離はおそらくすでにオスマン男爵においてそうであっただろうが、それは以後、絶えず誇張されつづけた。このようにして労働者階級による権力の奪取を今日もはや知覚することはできない。労働者階級はかつて自ら築き、それから排除された空間を再び我がものとするために、中心部へ向かってこの運動を必要としなくなる。