J.ブリュア著「コミューンと国家の問題」(その3) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

J.ブリュア著「コミューンと国家の問題」(その3)

 

3)今や、第3の時期の分析に到達した。これは3月26日の翌日から始まる。もはやパリの唯一の権力はコミューンしか存在しない。いったいどのようにして、どんな形勢のもとで、どんな局面状況のインパクトを受けてこの権力は国家に、もっと慎重にいえば、国家の萌芽に成り変わったかの仮説を述べてみよう。

 実をいうと、われわれは3月26日選挙以前に権力の移譲を知った。なぜというに、18日につづく時期に中央委員会はすでに、ある者にとっては政府タイプの諸決定をなすべく移譲されていたことをわれわれは確認したからである。

 形成途上のこの新手の国家の性格はどんなものなのか? 私はいま「形成途上の国家」と言った。形成途上の国家というこの制度的概念を完全に切開するためには、主張すべき多くの他の特徴があることを十分に知っているゆえ、私は以下の3つを数えあげる。

(1)私が重要と見なす第一の事実とは、労働者のための強制力をもった国家である。そこに新味がある。労働者のために強制力を行使するという理論に関してわれわれはやはり、証拠となる原文をもっている。それは一般に知られているが、おそらくはこの点に関し本来の意味を引きだす必要があろう。ここでは3点だけ引用するにとどめたい。

 フランケルは宣言する。「…われわれは市政問題を擁護するためにではなく、社会的変革をなすためにここに居る。3月18日の革命がもっぱら労働者階級によってなされたことをわれわれは忘れてはならない。もし社会的平等原理を掲げるわれわれがこの階級のために何もなさないとしたら、私はコミューンの存在意義を何も見出さない…。」

 2つ目を引用しよう。この引用は正確に「国家」なる用語を含んでいる。それはブノワ・マロン(Benoît Malon)からの引用である。「われわれは社会問題に首を突っ込んではいけないといわれてきた。今日まで国家は労働者に敵対的に干渉してきたといわねばならない。それだけに、今日の国家は労働者のための取り成しをすべきである。」

 3つ目の原文はJ.ルージュリがわれわれに注意を喚起したものである。私の論題にそれを採り入れることにルージュリは不都合を感じないであろう。p.166 それは、イヴリ・エ・ベルシー(Ivry et Bercy)駅のインターナショナル支部によって刊行された「政治的・社会的革命 La Révolution politique et sociale」という4月6日付の記事である。ここでは一節のみを挙げる。「…必要なことは、その権力が有するあらゆる手段を行使して国家的な取り成しをおこなうことである。一個人というのは、一市民にふさわしい存在であることを確保するには無力すぎる。社会制度というのは『各人は必要に応じて』与えることを目的とすることを忘れぬようにしよう。その政治的・社会的解放に到達するのに最も手助けを要する者が最大多数の階級すなわち俸給生活者のそれであることを今日だれが否認できようか? 一方、人はいわゆる資本というものの起源を考慮すれば、国家の取り成しこそ正義にもとづく平等的支配の達成を早めるのに必要なことを人は理解するであろう。・・・」

 私はこれら原文の「悪用」を望まない。しかし、そこにその強制力の権限が労働者のために行使されるような国家のあるタイプの概念への理論的接近がありうるといえる。

 それの実践についていえば、労働・交換委員会の方向を呼び起こすだけで十分であろう。私の見るところ、第二帝政末期に労働者によって公式化されたあらゆる要求は、本質的に特殊タイプの国家として現れたこの新権力によって数日間のうちに満たされたことを想起せよ。それは周知なのに、なぜ思い起こしてはいけないのか。人はまさしくコミューンについて俸給制度や小雇用主に関して語ってきた。ラブルース氏が私にその援用を許した思想である。そして、あなたラブルース氏こそ、幾度となくくり返しパン屋の夜間営業の禁止令の適用の実例を取りあげてきた張本人である。この場合、パリのコミューンはパン屋の主人に反対して俸給生活者のための陣営に属し、かつ、このようにしてその階級的性格は純粋に強化されたことをわれわれに示した。私はあなたの結論について十分に考慮した。

 然り、(コミューンの会議で)もちろんおしゃべりがあったものの、この世のどんな議会でおしゃべりがなかったというのか? コミューン総評議会におけるあらゆる討論を検討しても、その文章構造を貫き、ここかしこで積極的要素が見分けられなかったであろうか? とくにフランケルが以下の如く宣言するとき、「ひとつの政策が正しいとき、私は雇用主に相談することなしにそれを受け入れ、それを実行する。ところで、1792年の雇用主は相談を受けたのか?」そして、フランケルは修正する。「貴族は1789年に相談を受けたか?」と。

 したがって、私はこれ以上の主張をしようとは思わない。第一の特徴とは、コミューンとともにこの国家の強制力の方向づけは明瞭であるように思われること、すなわち労働者のために行使されたことのうちにある。

p.167  (2)2番目の特徴 ― おそらくはさらに問題の多いものとなるであろうし、その特徴のおかげでわれわれは民主主義と国家をまさしく再発見するであろう ― は、それによって人民主権が姿を現わす新しいタイプ国家の模索であることだ。唯一のものとは言わないが、人民主権の圧倒的部分の力は労働者に、1871年の労働者そのものに、サンキュロットにではなく、1848年のバリケードにたて籠った者にでもなく、1971年のルノー工場の労働者にでもなく、1871年の労働者に基礎を置いている。再び新タイプの民主主義の模索が問題なのである。

 最初の水準はコミューン総評議会によって形成された。人はこれまでコミューン議会をこっぴどく批判してきた ― ある意味で当然かもしれない ― し、また、マルクスが1848年に至当にも「議会クレチン病」と呼んだ要素をふんだんに保持することを確認できても、それだけでは

コミューンの委員会の研究に十分な貢献をしていないと思う。ところで、労働委員会と教育委員会 ― これらは特権をもつことを私は知っている ― の活動を検討してみる。この水準、その絶頂の水準において自らを組織しつつあり、事実的に準備しつつある何かがあることを垣間見せるのである。

 2番目の水準はすべての基礎組織により形成される。これらの組織は地域的集会に応じ、数えきれないほど多い。これについていうと、「セクシオン」という語の使用において私はルージュリ氏にまったく賛同できない。明らかに語彙の厳密な計画ではそれはフランス革命から借りている。しかし、容器を意味する語の同一性から中身の同一性を結論づけることはできるだろうか? 「セクシオン」という用語は長い生命をもっている。たとえば、1914年の第5区の社会主義的セクシオンについて人が語るとき、1793年のパリのセクシオンを参照する権利があるだろうか?

 2つの水準の存在はそれら間の関係は必然的にじっさい何であったか検討することに導く。

 ルージュリ氏は動かなかったものに重点を置き、この見地からは私はその証明に対してなすべきことに何ら反対しない。しかし、動きはじめたものに対して、そして、コミュナールの「意図」に対して主張することは可能である。まず最初に、区行政の本来の役割があり、細かく検討する価値がある。それらに活力を与える精神についていえば、私はすでに昨日のシンポジウムで引きあいに出された原文のみを想起するだろう。それは第2区の代表ポティエ(Pottier)、セライユ(Serrailles)、ジャック・デュラン(Jacque Durand)およびジョアナール(Johannard)のポスターの原文である。彼らは「市民の思想の自由な表明、彼らの利益の自由な擁護による、共同事業への市民の永久的な参与」を要求する。「公共生活に無関心であってはならない。集合し、グループをつくり、何らかの種類のディストリクの第一次集会を構成しなければならない。これらにこそ1789年の革命は部分的にその力を負っている。このようにして各人の努力により労働者自身の手による労働者の解放という社会変革の偉大な原意が実現されるであろう。しかし、諸君、孤立的に自分自身の声しか聴かない行政官というものは不可避的に独裁の恣意に落ちること、p.168 そして、この古い革袋の中に新しいブドウ酒を入れることに気づくだろう。「労働者自身による労働者の解放」する一方、クラブの参与もある。幾つかのケースにおいて ― その正反対もあるゆえにいつもとは言わない ― このような参与は効力を発揮した。ほんの一例にすぎないが、第4区で5月20日、オペラ劇場でこの会合がもたれた。コミューンの少数派に対し、コミューン議会に戻るよう命令したのはこうした基礎の民主主義があったが、それゆえにそこでの討論は重要であったように私には思える。少数派が犯したひとつの戦術上の過誤はやがて、人民の干渉により修正されたのである。

 さらに、パリ防衛と傷病兵救護のための婦人同盟(Union des femmes pour la défense de Paris et les soins aux blessés)の役割がある。ガイヤールが少し前、基礎組織としての婦人同盟と労働・交換委員会とのあいだに結ばれた関係を強調したことがある。一般的方法でこの委員会は労働階級と緊密な関係を結んで機能した。

 同様にインターナショナルがある。連盟会議の5月3日の決定は特徴的である。会議は「パリ支部の事業の結果をコミューンの討議と同意を引き起こす責任を帯びた発議委員会を構成するために市民アメ(Hamet)、マルタン(Martin)、ノスタ(Nosta)、グレ(goullé)、コンパ(Compas)を派遣した。同委員会はパリ市役所に本拠を置き、連盟会議とコミューンの間を仲介する。この委員会のメンバーは会議ごとにその事業の結果を報告書にまとめる。彼らはいつでも連盟会議によって更迭されうる。インターナショナルは5月17日、会議を招集し、コミューンのメンバーが報告書をよこすよう要請した。5月20日、6人のコミューン議員が出頭したが、そのうち1人がフランケルである。インターナショナルはひとつの決議を可決した。すなわち、「インターナショナルの同志でコミューン議員を兼ねる者から説明を聞き、彼らを支配する動機の完全な忠誠を承認し、彼らに労働者の利益を保護することによって、対ヴェルサイユ政府闘争にで勝利するのに必要なコミューンの統一を維持するために全力を傾注するよう要請するものである。」

 もう一つの例は、ヴァイヤンと教育委員会によって提供された。ヴァイヤンの偉大な思想はその企図において単に市当局のみならず、新教育、教育の友の会およびパリの社会的コミューン(Education nouvelle, la Société des Amis de l’enseignement et la Commune sociale de Paris)のような現存組織をも結合させた点にある。彼らのプログラムは『官報』で発表され、p.169  ミリタンは小委員会の事業に参画することを要請された。1871年4月22日、ヴァイヤンは「完全にして職業的な教育の問題を検討したすべての委員」に、書類によって「コミューン代表部にその改革案」を寄せるよう要請する。また、周知のように、テース(Theisz)は職員とともに郵便ポスト協議会(Conseil des Postes)を創設することによって郵便業務を再編した。

 私は理想化しようとは思わない。これら2つの水準のあいだの関係を問うことによって解決法が見出されたとも言うつもりはない。しかし、問題は提起された。労働運動の成熟条件と比較して経験が早熟であったのと、それはあまりに短かった。幾つかの経験がある。それはあるときは私が一つの水準(頂上)ともう一つの水準(基礎)と呼ぶところのもののあいだの平衡の意味において、また、あるときは水準1(公安委員会の創設の権威主義的解決)のため、あるいはそれとは逆に水準2(クラブの、区役所の「無政府主義的」決定)のために平衡の転覆の意味において歩んだ。

 形成途上の新国家の2番目の特徴は、達成された実現計画でなかったとしても、少なくとも私の意味での方向づけが明瞭である歴史的イニシアティブのプランにおいてとらえる。

(3)この国家「コミューン国家」― そしてこの点において私はマルクスの分析と同意見であるが ― は権力の分離,つまり、立法権、行政権、司法権、軍事権の分離に終止符を打つ。おお! 明らかに司法権に多くの汚点がある。しかし、状況、変遷、事件、浮沈があったにもかかわらず、可能なかぎり、しっかりと司法権および軍事権を支配しようするコミューン権力の意志にほかならない特徴を人は感じないのか? コミューンが軍事権の統御に成功しなかったという事実は、コミューン国家の新しい創造的性格に比較すると、何ら重要ではない。

 いずれにせよ、コミューンは自ら「国家」と見なしている。というのは、3月30日の法令によってコミューンはヴェルサイユとパリコミューンに二重に帰属することをしないと宣言しているからである。

 

 結論として幾つかの評言にとどめることにしたい。

【1】今、私が述べたことは、コミューンの人々が新国家を設立することを自覚していたことを意味しない。コミューンは明確に3月18日を欲したものでもなければ、用意したものでもないということから出発した、と私は思う。ティエールがパリを破壊しようとしたと思う。彼は失敗して逃走する。だから、権力を自ら組織し、次いで国家の萌芽を組織する必要があった。この国家の基礎を投げだした社会的力の性格を考えると、それは旧タイプの国家とは異なった特質をもたねばならなかった。p.170  いずれにせよ、先行物のない経験が問題だったのであり、それの理論化はまったく合法的であった。

【2】もう一つの問題も解決されなかった。それはこの国家の管轄の地理的拡大の問題である。語彙の狭い意味(「パリ」国家の意)での「コミューン国家」か? 国民的責任をもつ国家か? その問題はしばしばコミューン期間中に提起された。しかし、一度として完全一致ですることはなかった。常備軍廃止、国教分離、『官報』の『フランス共和国官報』への名称変更等々。しかし、このタイプのイニシアティブに対して「市民的」性格の故意の言い落としだ、として管見に反対する者もいることを私は知っている。

 したがって、状況は以下のことを要求した。それはまず最初に、国民衛兵中央委員会によって、次いではコミューン総評議会によって具現化されたパリ人民は征服しようとは思わなかった権力を相続することを要求した。生まれたばかりのこの権力は権力から国家への行程を通して国家を組織、制度化しなければならなかった。その国家は矛盾を貫くよう求められたが、これら矛盾を超克するのに不可欠の時間的猶予はなかった。

 存在したすべてのこと、要求されたすべてこと、計画されたすべてのこと、極めて短期間に経験させられたすべてのことを以て、マルクスがコミューンは「労働の経済的解放の実現を可能とするついに発見された政治形態」であったと言い放ったほどに、再度十分に後知恵をもたないで考察しなければならない。明らかにこの語句は熱いうちに書かれたが、精緻な歴史なくしては光の照射を期待できないような事件の奥深い意味について同時代人が細かな諸事実の向うに引きだしたのは初めてのことではない。

 したがって、ひとつの質問をなすことによって終わるのは私の順番である。

 伝統と同時に新奇さが含まれることが認められ、70日余のあいだに、その社会的基礎が今までは知られることのなかった労働基盤である権力を存続したことが認められるゆえに、さらに、国家に成り変わるこの権力の見地から、制度的イニシアティブや新たな問題に対する新たな解法の模索のあることが認められているゆえに、p.171  私は諸君に以下の質問をしたい。

 「コミューンとは何か?」私としては他の領域と同様に国家の領域においてルージュリが『自由なパリ』で引用し、すでに出所を明示せず「国際的労働者協議会の公式会合議事録』で紹介した記事を述べるにとどめておこう。すなわち、「…旧世界は崩壊する。地上を覆う夜はその屍衣を破る。夜明けが現れる」。