反響・解釈・伝統(その3) | matsui michiakiのブログ

matsui michiakiのブログ

横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

反響・解釈・伝統(その3)― 実例としてのコミューン

 

 1871年以降、社会主義思想の多様な傾向と多様な流れはそれぞれの側でコミューンから議論を引きだし、それらの位置を正当化ないし強化するためにコミューンの例を振りまわした。当時において新たな展開をみたマルクスとバクーニンの著名な論争はそこに具体的な支持点を見出した。労働運動の重要な各段階に際しコミューンのモデルは絶えず呼び起こされ、そのたびにその教訓は第三インターナショナルの創立者たちのあいだで著名な論争(1918年)に示されるような、思いがけないひとつの現実となったように思われる。この論争では一方の極にトロツキーとラデックに支持されたレーニンがおり、他方の極に第二インターナショナルの最高権威カウツキーがいた。「実例(model)」という語が中心思想に復帰し、過去と現在、歴史とイデオロギーは混淆しつづける論争の持続したこの連鎖において極めて重要な2つの瞬間のみを私は引用する。

 私はこれらの論争の暗号解読を試みようとは思わない。これらの論争の多様性は状況のタイプ ― それに合致するテーマ体系の変化を説明する ― と同じ程度に、演説のタイプにあるのである。言い換えると、私はここで実例を蓄積したり明確化したりするのではなく、公分母的解釈の激変を想起させ、実例のこの多方面の利用の理由をp.216  明確化することを提案したい。

  コミューンの複雑な歴史はすでにそれ自体において多様な解釈の多様性を導く。その複雑性は実現不可能なあらゆる約束への、すなわち曖昧さへの門を開けっぱなしにする未完成の革命的現象がもつ複雑性である。マルクスは「血の一週間」の15日後に次のような引用したとき、このことを自覚していた。

 「コミューンに委ねられた解釈の多様性と、それに期待された利害の多様性は拡大を完全に受け入れる政治状態であった。」

 事の終結後にコミューンが受けたこうした解釈、こうした社会主義的判断は次々と修正・変化を蒙った。そして、次いでコミューンの例または実例としてのコミューンは援用され、さまざまな文脈で、かつ、次に示すようなさまざまな水準で利用された。

1)理論的精緻化と政治的決定のための反省材料として

2)議論ないしは諸傾向の闘争での参照として、したがって、定義され構造化されたあれこれのイデオロギー体系の証拠となる要素として

3)集団的精神に根を下ろした象徴の調停により動員の一手段として

 じっさい、上記3つの構成のそれぞれの位置を厳しく境界を定めることはできない。それらは自立的な存在ではない。これら3つの所定の水準において一つの補完的であるが本質的な問題が提起される。すなわち、だれのためのいつの実例か、マルクス主義者にとってか、それとも無政府主義者にとってか、革命的マルクス主義者にとってか、改良主義者にとってか、防御的時期のものか、それとも革命激動期のものか?

 採るべき最初の方法の一つは古典的原文の構造の内的分析である。よく知られたマルクスの『フランスの内乱』を例にとってみよう。ほぼ抒情的といってよいほどのこの闘争の作品を読めば、3つの構造と3つの水準が引きだされる。

1)コミューンの具体的イメージ、事実と諸条件の歴史的再現。

2)エンゲルスが幾重にもコミューンの会計に対し「その傾向が多かれ少なかれ無意識であるのに対し、多かれ少なかれ意識的な計画を措く」事実として示した解釈と描写にもとづくコミューンの理論的モデル。

3)いわば理想化され英雄化され、そしてこの教訓的事実から壮麗にして驚嘆すべき公式のかたちで構築され横柄な言語 ― マルクスがコミューンの経験の理論的・実践的範囲について語るとき、彼の慎重で控え目な公式と対照をなす ― において語られるイメージ。

 これら3つの水準はマルクスとエンゲルスの後年作品ではもっとはっきりしたかたちをとるであろう。

p.217   こうした多様な構造の逐一叙述とは何か? こうした疑問がわれわれを第二の点、すなわち、コミューンに関する社会主義思想家のやり方の性格を定義する必要性に導く。レーニンの死後に刊行された『国家と革命』において彼はなぜその作品が完成されなかったか、なぜ彼が『1905年と1917年のロシア革命の経験』と題する2番目の冊子を書かなかったかを説明するが、レーニンは「革命の経験をすることのほうが、それについて書くよりも気分がよく、また、より有用である」と述べている。マルクスの考え方を検討するためにふさわしいのはこの角度からではなかったか? 遅くなったとしても、同じように1871年のマルクスは現代史を書いたり、コミューンの分析でコミューンの複雑さを否定するのでなくコミューンの現実の全体を統合したりすることを提案しない。彼の関心はフランスの諸事件を、彼のテーゼを確認したりそれを発展させたりできる歴史実験室と見なすように彼を誘惑する理論的予断によって専ら導かれてはいなかったのである。マルクスはコミューンを「praxis」として歴史的未来の次元で考えている。したがって、彼は理論の精緻化を、エンゲルスの言葉を借用すれば、「実践闘争の必要性によって与えられた刺激」に従属させる。ところで、マルクスのいう「労働者階級が社会的イニシアティブを執りうる能力をもつ唯一の階級として公然と承認された最初の革命」によって与えられた刺激は、労働者階級が開く歴史的運動に介在し、労働者階級が国際労働運動の発展のなかで刻印し決定づける転換期に当たる。ローザ・ルクセンブルクの表現を借りれば、「コミューンの墳墓」はヨーロッパ労働運動の最初の時代、すなわち「その後になってプロレタリアートがつねに無気力に陥るところの自発的革命、暴動、パリケード」の時代の墳墓である。何をなすべきかというマルクスが発した質問に対し、異なった解答を与える第一インターナショナルのすべての指導者によってすでに強く感じられた転換点、マルクスの疑問はさまざまな国に堅固に根を張った大衆の労働運動を完成させる必要性という制度を超え、かつそれに逆らっていく。そこから逆説の事態が生まれる。つまり、コミューンはインターナショナルの発展を促し、それと同時に弔鐘を鳴らす。「古いインターナショナルは完全に終わった。それはよいことにちがいない」―― 1874年にこう述べたエンゲルスはマルクスとともに新たな戦略の最初の要点を公式化する。

(1)「最初の大きな成功〔コミューン〕はあらゆる党派のAITのこうした天真爛漫な協力をうち壊すべきであった。」

(2)「パリ・コミューンはプロレタリアートが階級として行動するのに成功し、p.218 資本家階級とその国家に敵対的な労働階級の闘争の『新局面』をもたらすであろうという証拠を提供した。」

(3)したがって、転換点は運動の最初の局面に不可避的な「セクト」の存在を時代後れの段階とした。

 マルクスのペンの下で出た「セクト」なる用語は論戦的な共鳴を帯びる。「転換点」の向う側に生命を保つセクト ― 彼はその名称でもって特にバクーニン派とラサール派を指す ― は「真実の労働運動」から孤立し、排除されねばならない。コミューンが育んだ理論的闘争は当時、国家の問題の周囲を回る。そして、マルクスはそれを暗黙の位置に2つの側面、バクーニンの概念とラサール派のそれに導く。このことはマルクスの問題提起の逐条叙述と『フランスの内乱』がもたらす解釈の困難さを説明する。コミューンがラサール派の後退を促し、したがって、ドイツにおける社会主義政党の統一を促したのに対し、コミューンはバクーニン主義者の「扇動の発展」をもたらした。言い換えると、主要な敵手は、コミューンをその思想の具体的な適用として、「権威主義的」ウィルスの運動を守る解毒剤と見なしたバクーニンのほうだった。

 「私はひとつの革命以上の権威主義的事件を知らない。パリ・コミューンにとって生命に該当したのは中央集権化および権威の欠如であった。」

 マルクスの問題提起は1871年9月のAITロンドン大会でエンゲルスにより、次のように細かく規定された。

 「プロレタリアの政治行動を議事日程に乗せたパリ・コミューンののち、政治権力の行使の回避は未曾有なほどに不可能である。」

 1年後、ハーグ大会における第7テーゼの採択はこの概念に貢献する。政治権力の制覇はプロレタリアートの必須な義務となるだろう。プロレタリアートは明確な政党のかたちへ自らを組織することによってのみ階級として行動することができる。それ以後、ひとつのまったく新しい問題提起、つまり、政党、近代労働運動の根底をなす組織のそれが現われる。しかし、転換期は制度的枠組を大きく逸脱する。その後につづくあらゆる理論闘争やあらゆる戦術的評価においてそのことを曝露することができる。告知者的革命としてのコミューンはとりわけ秘密曝露的革命であった。1871年以降、社会主義の知的テーマ研究において「曲がり角」に現れたのはそれである。ここで第3の点にアプローチする。すなわち、コミューン考察のテーマにおける変化がそれであり、事件後数年にして動きだす過程がそれだ。2つの確認事項がなされる。これらの考察は教義研究のかたちをとらない。そして、それらは特に批判的本性から出てくる。なぜというに、p.219  もしパリ蜂起から20世紀労働運動の新たな問題提起が引き出されるとすれば、コミューン時には時代後れとみなされた19世紀のロマン主義社会主義の地平の方向に後退するのを許すものであるからだ。「コミューンを文字どおりに祝聖するとは、何たる批判的精神の欠如か!」とエンゲルスは1874年にブランキ派をやり込めた。諸事件が起こした熱狂の嵐の中での実例としてコミューンを強調することは、パリの経験の批判的検討の必要性の方向に移動することである。これは1877年、ベーベルの思考方向である。その時のベーベルはコミューンの理想化に反対して立ち上がり、こう主張した。

 「コミューン研究ほど近代社会主義にとってより豊かな教訓に富んだものはない。」

 反対に、マルクスとエンゲルスの往復書簡においてこの方法を再発見できる。そして、最初のマルクス主義世代とその過程においても。このようにして、1881年2月22日のDemela Nieuwenhuis宛てのマルクスの著名な書簡には次のようなことが書かれている。

 「人民の権利の後に形成された政体が見出した困惑は特に『社会主義的な』ものは何もなかった。… 社会主義政府はまず何よりもブルジョア大衆を怯えさせるのに必要な措置 ― このことによって政府が最も必須とするもの、すなわち、持続的行動のための時間を獲得する ― を執れるほどに諸条件が整わなければ、けっして権力を掌握しないであろう。あなたは私におそらくパリ・コミューンを参照させるでしょう。しかし、例外的諸状況における1都市の単なる蜂起を問題にすることからなされた抽象、コミューンの大部分は社会主義者でなかったし、そうなりうる可能性ももたなかった。」

 マルクスの孤立した反省ないしは1880年代および1890年代のマルクス主義者に流布していたテーマであるのか? 13年後に書かれたローザ・ルクセンブルクの未発表書簡はまさしく、同じ方向を向いていた。彼女は当時流布していた解釈を拒絶している。その解釈によれば、戦争に心を奪われたコミューンは、社会主義的プログラムを実現するためにほんの僅かな時間しかもたず、社会的領域では極めて臆病なままにとどまったというもの。彼女は己が主宰していた雑誌のために書いた論文中でBoris Krievskijによって展開された議論に答えてこう述べた。

 「時間的余裕のなさ、外部的障碍のためにのみコミューンが社会主義制度をうち立てることができなかったとう印象がある。… 私はこれに以下をつけ加えたい。コミューンはその内部的理由のゆえに、殊にフランス、全ヨーロッパ、アメリカでの労働問題が掘り起こした方法のゆえに社会主義を導入できなかったのである。コミューンは現行制度の枠内で臨時的措置としても、プロレタリアートのために根本的にほんの僅かな改革ですら実行する時間をもたなかったのだ。」

p.220   マルクスの言明とまったく同じく、ローザ・ルクセンブルクの上記の引用句は解釈の恐ろしい問題を提起する。この否定的非難において19世紀社会主義と比較してそれと違うところを見せんとしてすでに強調された願望を彼女が保持していることを読み取ってはならないだろうか? ローザ・ルクセンブルクはエンゲルスの問題への接近方法に同化し近づく。すなわち、コミューンが社会主義を樹立する能力をもたなかったこと、コミューンの失望は偶発的な誤謬に因るのではなく、歴史的環境に因るものであった。1898年、ベルンシュタインとの有名な論争において彼女は意向をさらに鮮明に述べる。彼女は「社会革命の現実的性格に関しての一連の誤解」を曝露する。第一の誤解とはこうである。プロレタリアート、つまり一大人民階級による政治権力の奪取は「プロレタリアートが自覚的闘争の次元で権力をもぎ取ったのではなく、権力のほうがもはやだれも欲しない恩恵のようなかたちでプロレタリアートの手に落ちたパリ・コミューンがその好例となる。」例外的なケースを除けば、これは人工的になしうるものではない。「政治権力の奪取は一定程度の成熟度に到達した政治的・経済的状況を含む。」ローザ・ルクセンブルクの解釈においてはこの「例外的」ケースは強制的に否定的事実ではない。プロレタリアートは1871年のように時機尚早であっても権力を取らねばならない。それは不可避的であるし、また必要でもある。なぜなら、「権力制覇の社会的条件を考察するならば、革命は早熟的に起きることはありえないからである。また、革命が時機尚早であるとすれば、それは権力を維持することが問題であるとき、政治的結果の見地においてである。」