討論【Ⅱ】(その1) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

討論【Ⅱ】その1)

p.135

J.ガイヤール

 極めて豊かであるとともにわれわれに対し、数多い論点の側面を暴きだした本報告に私はどうアクセスすべきか迷う。われわれにとって意見の相違をもたらすかに思える多くの論点が明らかにされたが、それはまったく当然のことである。私はまず、傍に近寄ってみることにする。

 私には、前の論争がその枠組において少々過去に執着しているように思われた。しかしながら、今度は私のほうが過去に執着主義に染まっているのかもしれない。思うに、1851~51年の共和主義ついて語ることなしに、1871年のコミューンを思い起こすのは奇妙である。この共和主義の運動はとりわけ地方において、そして、その中でもフランス南東部においてなおまだ活発な勢いをもっている。そして、特に追放者によってリードされた論争がそこにあった。そのわけは必ずしも明らかになっていない。しかし、20年後、脱中央集権のために、人はその理由について知りはじめた。私は特にルドリュ・ロラン(Ledru Rolland)の重要な2つの記事を引用しようと思う。ルドリュ・ロランはその中で、コミューン組織のようなより広い場所を占める組織が形成されることを要求した。人はほとんど信頼を寄せず、1869-70にはさらに信頼をおかなかった一種の議会政治に対して警戒の度合いを強めた。帝政下で共和主義運動と議会政治のあいだには分離があった。思うに、この点においてわれわれは一致している。そして私が『地方のコミューン』において引用したゲードの立論において ― 私は断言してかまわないと信じるが ― その状態は非常に長く展開した。これは単にモワッソニエ氏が利用された立論においてだけにとどまらず、多くの他の箇所で取りあげられるべき本質的な論点の一つである。「地方での3月18日」、彼は絶えずたち返る。

 もう一点つけ加えよう。1848年の直後、一新することを試みたのはこの共和主義の伝統である。なぜというに、共和主義が中央集権主義を放棄したからである。ルドリュ・ロランは「われわれが忘れることのない、しかもアソシアシオンによってやがて消滅するプロレタリアートの廃止」をすら語っている。それはその当時、階級闘争の解決が期待しうる状態にあった。付け加えると、ルドリュ・ロランのこの計画は単に追放者の綱領であるばかりでなく、それはとりわけ1851年の選挙ビラにおいて一定数の代表たちにより再度取りあげられた。p.136 それの起草に際し、1871年におけるリヨンの急進主義に参加することになる。モワッソニエ氏もよくご存じの人物ジョゼフ・ブノー(Joseph Benolt)がこれに加わった。したがって、一つの事がらがかなり前から俎上に上っており、かつずっと長く生きつづけていたのである。20年後、単に残存者のみならずこの当時に生存者がいたのである。

 ところで、他のあらゆる運動と同じく、民主主義運動にとって私がジャコバン主義、プルードン主義について語った爆発があることが確認されれば、思想はしばしばそれをもたらした人間から分離していく。私は1870~71にはほとんど役割を果たさなくなったルドリュ・ロランのことを考えている。

 思想は生きつづける。思想は真実の威信を保持する。したがって、私の考えるところでは、地方においてはフランスが未だ知らない民主主義の形態を実現しようとの気遣いがあった。その形態に対してこそ、私は敢えて社会主義的はいわないが、少なくとも社会の形を変えるはずの一連の社会変革が結合されるのだ。たとえば、ゲードが中央集権化の政治制度の批判を展開するとき、彼は労働者の名においてそれをなし発言しているが、私はこのことを重要とみなす。

 したがって、人はやがてこの民主・社会共和政と、極端にまで押し進められた民主政をもつことになるだろう。かくすれば、労働者を満足させるであろう。パリでこの共和主義形態が多くの支持者を得なかったのは、首都が被った変容により説明できる。このことはおそらく、より多様な接触によっておそらくはより重要な外部的・外国からの浸透によって説明できるだろう。私はここでは明確には述べない。

 地方、特にフランスの南東部についてのモワッソニエ氏の言明は正当である。地方の研究はひとまとめにすることはできない。これは非常に生き生きとしている。印象的な一例を挙げよう。私は自著において、3月のコミューンの試みに参加したミリタンの一人 ― このことは敗北したミリタンを指し示している。なぜというに、その運動はすでに前年秋に少なからず下火になっていたから ― に指揮されたラ・ギヨティエール(La Guillotièrs)の革命委員会の綱領を引用したことがある。この綱領において私が驚いた一項があるが、私はそれを説明しなかった。それは国家による保険の引き取りを要求する。特に雹のような天災に対する保険がそれだ。ラ・ギヨティエール委員会の側から見ると、これは私には奇妙に思われる。もう少し後の論文にたち戻ってみよう。Ch. マルシラシー(Marcilhacy)夫人は1851年の秘密結社について『近代史評論Revue d’Histoire Moderne』誌にその論文を発表した。私はここにおいて、秘密結社の綱領であるこの綱領を再び見出すであろう。もちろんそれは遺物である。しかし、それは1870年の労働者的・都市的条件に適合させたことに変わりはない。共和主義政府による社会主義を実現するという願望のみが残った。

 モワッソニエ氏が地方における1871年の「セクトリアリスム」を指摘していることについて語って終わることにしたい。これについては私はまったく同意できない。思うに、セクトリアリスムは実在する。しかし、言われるよりはずっと前を行くセクトリアリスムである。なぜなら、計画があるゆえに単にコミューン計画のみならず、急進主義の計画、たとえば投票権を農村から奪わんとする計画があるゆえにである。p.137 これはフレデリック・モラン(Frédéric Morin)― 私の記憶がまちがっていなければ、ソーヌ・エ・ロワール県の知事 ― が1871年にパリの共和主義権利同盟に提案する立場である。彼は言う。「都市のみが投票権を持つべきである。なぜなら、都市のみが共和主義的であるから。」共和政があらゆる制度の上に位置しているゆえに、共和主義者でない者はそれについて語る権利をもたないという思想の行き着く先となる。これは私がセクトリアリスムと呼ぶ思想の一部を成す。

 しかし、セクトリアリスムは私の意味ではすべてを説明していない。なぜなら、出現し発展し、パリで、リヨンで、すべての地方で少々、或る時は急進派の綱領において、また或る時はコミューンの綱領において認められ、それは進んだ共和派により擁護され、ブランキ派または社会主義者によってさえ弁護されるゆえに。これらすべては、中央集権主義は一つの形態であると考えるこうした疎外からの解放の計画の一部を成す。

 

A.ソブール

 雹に関し、まったく当り障りのない単純な注意をさせていただきたい。この雹に対する保険はリヨンでボージョレの消費と関連づけてはならないのではないか? それを要求するのはブドウ栽培業者である。

 

J.ガイヤール

 ラ・ギヨティエール紙に掲載とは驚いた。

 

A.ソブール

 しかし、彼らはボージョレを飲む。そして、雹が降ればボージョレの価格は上がる。

 

J.ガイヤール

 私はその綱領全体を秘密結社のそれと関連づけるほうがより簡単だと考える。なぜなら、明白な関連があるからだ。この記事は殊のほか私を驚かせた。

 

A.ソブール

 私のみるところ、リヨン人からリヨンのブドウ栽培業者、リヨン地方のブドウ栽培業者の要求にもたらされた感覚に由来すると思う。ブドウ栽培業者が雹に敏感であるかどうかは神のみぞ知るところだ。

 

M.モワッソニエ

 ソブール氏がいま言った事がらを支持するために強調しておきたい。それはリヨンの伝統として特に奥深い何かがある。たとえば、1786年の「2スー」の叛乱がリヨンでブドウ酒価格を吊り上げたバンヴァン権(Banvin: 領主が農民よりもブドウ酒を早く販売する権利)の適用によってもたらされ、かくて、その後に特に重要なストライキが発生したのはこのような背景があってのことだ。

 

J.ガイヤール

 そうだ。しかし、諸君がリヨンで見出すのは入市税やブドウ酒税に対する抗議であり、諸君はパリでも非常に広範囲に見出すだろう。

 

PH.ヴィジエ(Vigier)

  2年前からガイヤール夫人とわれわれは19世紀のフランスの地方に関してのゼミナールをもっている。今日、地方研究が始まり、それには企画があると諸君に言いたい。特にわれわれがいま関係している時代に対して明らかになおまだなすべき多くの事がらがある。あなたはまったく正しい。1870~71という年は地方の研究の面ではなおまだあまりに軽視されている。p.138 あまりに多くの研究がコミューンに関しなされているが、その現象面が支配的であって、他の場所で起こったことについてはひどく軽視されている。

 私は地方について同じように軽視されていると思う。特に随分前にミシェル・ドヴィル(Michel Deville)によって明らかにされた地方自治の例がそうだ。J.ガイヤール氏の言うことに賛成だ。1849~51年の時代も同様だ。この時に役割を演じたのは地方である。再現させるべきものだけが残っているのか? 1870年のこの南仏問題はアルフォンス・ガン(Alphonse Gent)の有名な「リヨンの陰謀」のまっすぐな一本の糸の中に位置する。

 1849~51年の極端に重い重量があり、そして、1870年9月4日以前から始まるわが国の歴史全体にのしかかる地方の重量がある。第二帝政の末期に生起したこと、それは特に殊のほか強力だった市民自治を求めてのあらゆる闘争運動を知ることなしに、1870~71年を理解することはできない。あなたは大都市においてまったく正当にもそのことを語った。大都市の都市当局が少なくともリヨン、マルセーユ、ボルドーについて1869~1870年に共和派であったことは事実である。そして、こうした事件において帝政下の知事たちはこの時非常に大きな問題に直面した。帝政崩壊の報が伝わったとき、そして、パリが共和制を宣言する前に彼らは落し穴に嵌ったかのように、忽然とどこかへ姿を消した。

 このような権力の奪取において一般に非常に重要な役割がいわゆる「急進派」といわれる者によって演じられたことも根本的な事実である。急進派を定義しなければならない。思うに、われわれが定義に成功するのは今ではないだろう。町によって「共和主義の前線」は敢えていえば、非常に異なっていたことも確かである。

 1668~69のマルセーユの『人民 Le Peuple』紙とリヨンの『リヨンの発展 Le Progrès de Lyons』紙を調べていたとき、マルセーユではのちのインターナショナルの穏健共和派となる非常に広範な「共和主義の前線」があったのに対し、リヨンではそれが限られていることを知ったとき、私は非常に驚いた。このことは発展について何らかの相違を示唆していると思う。

 どうあっても、そして、最も先進的部分により9-10月に権力奪取のために為された企図にもかかわらず、― バクーニン派の企図、ガンによる運動、明らかにその連邦主義的傾向のゆえにガンベッタをあれほどに恐れさせた南仏同盟 ― それがどうあっても、諸君は全体として急進的共和派が町の主人公であったことに注目するであろう。1870年冬、1871年3月、彼らは全体的になおそうであった。したがって、この時、地方人、少なくとも地方の大都市―非常に強力な共和主義の気風のあった大都市―の人々すでに自由を享受していたことは確実である。自由なリヨン、自由なボルドー、自由なマルセーユが姿を現わした。E.ルヴァスールがかつて言ったように、じっさい、最初の革命が2番目の革命を停止させ妨げる。すでに先行する革命があった。そして、革命がすでに地歩を固めていたため、もう一つの革命があったかどうか、そして、事態がパリの革命が継続したように長期に亘って継続したかどうかを見る課題が一方で残されている。ともあれ、パリコミューンが3か月以上持続していたなら、その分だけより奥深い社会主義への障害物を除去したであろうか? しかし、われわれは実際に生起したことは知っている。p.139  われわれはこれについて理解しようとつとめる。そして、このためには地方自治つまり多様性とともに発展における時間的ズレ ― どうか! 1849~51年を忘れることなく ― とのあいだを調停する立場に身を置くことを忘れてはならない。