討論【Ⅱ】(その2) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

討論【Ⅱ】(その2)

 

M.モワッソニエ

 われわれの研究において1849~1851年の時期の分析を完成させねばならない点についてはまったく同感である。じっさい、最終的に野党の「左翼」の影響の基盤の一定の収縮を確認するために、1869年の選挙を特徴づける民主社会主義の圧力を以て、その選挙結果について切り札を使って観察することは実際的に興味深い、と私は言わねばならない。

 

PH.  ヴィジエ

 農村において!

 

M.モワッソニエ

 また、この収縮が反対に、特殊なそれを以て工業化と関連する伝播の主流に到達しなかったかを強調するのは面白くないかどうかが疑問である。このことは先ほど私が「練り粉の酵母」と呼んだものの問題を問いなおすことにもなる。たとえば、ルドリュ・ロランと共に一連の思想 ― これは1870~71年におそらく事実上とり戻されることになる ― 民主社会主義者の時代がすでにあったことを示すために、J.ガイヤールに対し私が賛同を表するならば、問題はまた、なぜそうした思想が急進派によるものも含めて、一定の鋭利さをもってとり戻されたかどうかを知ることにもなる。私はそこに、リヨンの急進派の民主派の宣言を見ている。これは人民投票の直前、1870年4月24日の「フランス民主主義へ」という宣言である。むろん、「新たな封建制」の再構築を容易化するために軍隊の大産業家諸侯への勤務が非難され、ラ・リカマリ(La Ricamarie)およびオーバン(Aubin)の銃殺が想起される。ラスパイユもまた宣言を発し、労働者を滅ぼし、権力の共犯者となっている無情な製造業者を非難する。しかし、まさしく疑問はそこにある。なぜこの時、こうした考え方の湧出が生じたのか? 幾つもの理由がある。私はあなたにまったく賛成である。急進イデオロギーの発展におけるある種の自治の要求があった。しかし、同時に急進派側から生じたものの圧力もある。

 「備忘録」において労働者が問いたがっている一連の問題を政治綱領にもとづいて問わねばならない、と説明したのはクレスタン(Crestin)博士である。興味深い考察にちがいないが、それはおそらく、どうして他のものの中でもインターナショナルがリヨン(私はここに執着する)に対して影響を与えたかの理由を考察することを可能にする。リヨン市立古文書館の政治組織に関する史料に、アルベール・リシャール(Albert Richard)宅で差し押さえられた文書が含まれる。これは大急ぎで書かれた演説文の抜粋である。これは紡績工の集会で宣言された、とリシャ―ルは同史料に記している。くり返しになるが、仲介の労働者を介して急進派の行為に関してまた支えようとするこの酵母の存在を人が確かめるのはここにおいてである。リシャ―ルはこう言っている。

p.140 「1789年、1830年、1848年の革命という政治的であるのと同じく急進的な3つの革命ののち、労働者が経済的見地からみても政治的見地からみても、昔と同じように窮屈と抑圧の状態にあるのはどうしてなのか? 労働者は3度とも欺かれたのだ。4度目もおそらくそうであろう。インターナショナルはこの4度目の調停が起こらぬように油断なく監視する。したがって、ブルジョア的・政府的・宗教的寄生状態の廃墟の上に、労働者のあいだの経済的団結をうち立てる必要がある。」

 そして、質問!「帝政の代わりに共和政を置くべきか?」

 「確かに、共和主義者であることはひとかどの事だ。しかし、全部というわけではない。したがって、社会主義者でなければならない。そうでなければ、今日の時代から取り残され時代を特徴づける願望からも取り残され、新手の反動家となりうるであろう。進歩を求める人間は今日、政治的制度の変革のみならず、なおまた、労働と繁栄の組織を構築しなければならない。」

 次いでリシャ―ルはスイスとアメリカの実例を引きあいに出す。しかし、特に興味深いことはリシャ―ルが本質的にこのテーマをウジェーヌ・デュポン(Eugène Dupont)が彼にインターナショナル総評議会から送った書簡の主題に依っているということである。デュポンの手紙はスイスやアメリカとの比較を含めてあらゆる説明を含んでいる。

 インターナショナルがどのように具体的にその集会において一定数の思想を普及させたかを示すために、私はこの事実を述べたまでだ。これらの思想は反響を呼び、部分的にすでに現れていたものを再び現れさせるのに貢献した。

 

PH.  ヴィジエ

 唯一の問題というのは、インターナショナルが、あなたが地方でそれに帰するものと同じ重要な役割を演じたかどうかを知ることである。この分野において人々は酷く勘違いをしている! リヨンについて私は同感だ。しかし、J.ジロー(Girault)が、ボルドーでインターナショナルは非常に大規模な役割を演じた、と述べたことには同感できない。

 

M.モワッソニエ

 そのことは私も言っている。(インターナショナルの影響度は)地方や町によって異なる。

 

E.ラブルース

 急進派なるものにひと言いいたい。コミューン以前と以後の研究における急進主義について私が驚いていることは、帝政末期の政治的著作、第三共和政の理論的・法制的発端において急進主義の文化の追放である。たとえば、カレーム(Carêmes)でわれわれは急進主義が公共の敵として告発されているのを見る。パリと無関係にほとんど他の都市やパリ郊外の多くの都市で、急進主義はすでに根を張っていた。ところで、コミューンの見地、コミューン後の見地、社会主義の注入の見地から見ると、これらの現象はまずもって重要である。急進主義の有権者ほど1876~93年間において社会主義的有権者として「見なしうる」者は外になかった。じっさい、コミューンの人々、すなわち3月26日、コミューンを市役所に送った者たちはp.141 1871年2月の選挙ではどのように投票したか? 後になると、どのように投票したか? まちがいなく非常に広い範囲で急進派である。

 大都市で社会主義への政策をおこなう選挙民を用意する急進主義の役割に関して、将来の社会主義の勝利のための動揺を取り除く。私には光を、今日まで弱々しい光を当てることが必要不可欠だと思われる。

 急進主義の多様性がその原因であるのではない。急進的選挙明の社会主義的選挙民への改宗への可能性は経験の事実であり、長期に亘って続くであろう。私見ではこれらの問題はフランスの全体政治史においてわれわれの探究の第一級の位置を占めている。

 

M.モワッソニエ

 急進主義が労働運動にもたらした打撃の結果、コミューン後に退却戦を辿ること強調する点で私はまったく同感である。

 

E.ラブルース

 しかし、急進主義は同時にまた、社会主義の崩壊の側に並ぶ最先端の塹壕に他ならなかった。成功度は高かったのだが。

 

M.モワッソニエ

 1870年秋のマルセーユとリヨンの運動が挫折したのち、急進主義はまたも退却戦上にあった。

 

E.ラブルース

 もちろん、社会主義戦線と並んでそれがあった。しかし、或る時は後ろに、退却の位置に、また或る時は、選挙時の可能な代理を含めて平時は社会主義者と並んで! 第1回投票では社会党票を、第2回投票で「吹き上げた」のは急進主義であった。しかし、最後に全体として見た場合、1881年の共和政が絶頂期にさしかかった頃のフランスを例にとってみよう。極左はだれによって代表されるか? ジュール・ゲードか? 違う! クレマン・トマによってである。

 

J.ジロー

 コミューン現象のボルドーの側面について少しふれてみたい。

 第一の論点は少々論戦的であろう。私にとって必要なのは一つの矯正である。J.ガイヤール夫人はその著『地方のコミューンとパリのコミュ―ン』のpp.133-134で書いている。

 「1870~1871年のインターナショナルの役割に関して解釈上の困難は史料の不十分さと同程度に、史料を解読する際の相違に起因する。

 一方の例。ジャック・ジローは『思想』(1970年10月号)で、ボルドーの共和派がインターナショナルを味方に引き入れるために共和派に送ったポール・ラファルグ(Paul Lafargue)の公開書簡を発表した。『われわれ共和派は数を揃えている。われわれに足りないのは組織である』」『ボルドーの護民官Tribune de Bordeau』( 7 sept. 1870.)

  『ボルドーの護民官』ではなくて、一時的新聞『ジロンドの共和主義者 La Républicain de la Gironde』(1792年、1848年、1870年) が問題なのである。p.142 編集チームは市議会議員デロワ(Delloy)を得たが、彼はインターナショナル加盟員であるため、「団結しよう」と題する記事に署名している。AITがジロンドの一新聞として公然と姿を現わしたのは初めてのことである。

 J.ガイヤールは違う。

 「この歴史においてジャック・ジロー氏が信じているように、ボルドーでのインターナショナルの浸透や威信の証明をみるべきであろうか? あるいはインターナショナルがわれわれこれから主張するように、インターナショナルが未だもたない威信を獲得しようとしていることを示しているのだろうか? 」

 私の著書『コミューンとボルドー』におけるのと同様に、『思想』に表われた私の論文においても私は私のものとされている考え方をもっていない。私はそれの「反対」を言いたかったのである。『思想』の記事において数行で私は実際はこう示した。さらに数行で注記する。ボルドーのインターナショナル支部の再建は『ジロンドの護民官』(10月31日号)で‘L’という署名の入った記事から始まる。引用しよう。「われわれがボルドーでインターナショナル支部が結成されるのを見たのは大きな慶びとするところだ。」そして、その数日後にラファルグは義姉のジェニー・マルクス(Jenny-Marx)に手紙を書く。「中核は良好で、未来への希望を約束してくれる」、と。

 この評言はリサガレーがかつて語ったように、コミューンをもたなかった地方諸都市のコミューン現象や、「亀裂」にその始原を帰することのみを目的としている。じっさい、たとえインターナショナルが極めて不十分なかたちでしか浸透せず、極めて脆弱な組織しかもたないにしても、外ならなぬインターナショナルの威信の結果をそこに認めるのはそのミリタンの固有の役割を過小評価することになろう。要するに、不正確な解釈の危険があらわれる可能性があり、それゆえに私はこの最初の表現をとったのである。

 このことは必然的に2番目の評言に導く。ボルドーでのインターナショナル派の、そしてインタ―ナショナル派の役割はどんなものだったか? 『議会査問録』と1871年5月中旬以降におけるボルドーの新聞はインターナショナルを告発した。このことはラファルグがマルクスの女婿であるだけに、人の気持をそそる! G.-P.ノキコヴァ(Nokikova)がおこなったように、インターナショナルとラファルグが1870~71年のあらゆる事件の推進力であったというように演繹すべきではない。諸事件を細かく研究していくと、このような評価にニュアンスを示すことができる。AITの支部は1866年に実在していた。それはやがて消滅し、1870年10月ごろに再現する。しかし、未来のインターナショナルは労働運動の町の民主運動に関与しなかった。彼らはしばしば区々のやり方で公共集会に参加する。したがって、彼らは町びとに知られていた。一支部の創設は本質的に労働者住民の不満や混乱した願望を導く能力をもつ力の構築として現れたのである。それは一つの兆候であった。住民の愛国主義的願望や不満を導くためには、共和主義的環境ではもはや十分とはいえなかった。インターナショナルの活動が制約されたものであるにもかかわらず、p.143 それが陣地を築いたことは国防の変遷や幹部不足の結果をそこに見るべきである。国家的闘争と社会闘争のあいだの紐帯を確立するまでの急進的環境の選択から漸次異彩を放つようになる。かくて2月23日、AITの支部はボルドーに所在した国民議会の代議士たちに訴えかける。講和条約の締結に抗議し、条約は事実上アルザス=ロレーヌの労働者の放棄と国の財政的破綻、特権の維持を意味すると述べたのち、インターナショナル支部は、選ばれた者、すなわち「資本主義的・工業的・土地的所有の代表者」は皇帝や9月4日の政治家たちとまったく同じように国民的利益を裏切ると断言するのである。

 マルクスがその女婿ラファルグに与えた助言がもたらした結果について調べるのは可能であろう。マルクスの娘たちが事件の真只中で姉ローラ(Laura)に会うためにボルドーを訪れているからだ。しかし、何らの通信の痕跡もとどめていない。

 広い範囲においてパリの諸事件はインターナショナルの陰謀を暴くものとして役立った。ボルドーの共和主義的世論の反応に直面して―ここでは市長フルカン(Fourcand)の態度は非常に巧妙だったが―、また、保守派勢力に直面してインターナショナルのミリタンは『護民官』の周囲に集まった急進派からしだいに目立つようになった。私はその2つの兆候を認める。1つは新聞『連盟 La Fédération』紙の論調は極めて象徴的である。同紙は一度として急進派の機関紙『護民官』を批判したことがない。そこに、孤立したくないという意志を認めるべきである。このことは同紙に対するあまりの早い弾圧を妨げるものではなかった。同紙は第4号で差し押さえになった。それでも、同紙は暫くのあいだ発刊されつづけたのではあるが。しかし、急進的環境はもはや幾千というボルドー人が市議会選挙でAITのリストに投票するのを防止できなかった。急進派は彼らのうちの幾人かがAITの支部に加入する、あるいは加入しおえたと将来告発されることになるだけに、インターナショナルを支え、インターナショナルのために『護民官』の欄を提供した。したがって、ここでは幾人かの急進派がAIT支部に加入するといった非常な混乱があった。こうして弾圧にもかかわらず、ボルドー支部が1871年以後ずっと経過してもその活動を遂行したことが理解されるのである。

 結局、インターナショナル支部は先進的急進主義からは、その兆候によって、また、同支部が事実上自らを表現するために町の急進的環境の好意に依存せざるをえなかったゆえに、ほんの少ししか違わないように見えた、と私には思われる。これは重要であり、また、不幸なことでもある。

 より一般的な3番目の評言。これらの事件においてボルドーの共和主義的環境の態度とはどのようなものだったか? これらの環境は分裂していた。しかし、穏健派と急進派は市政のコントロールと秩序のために協調する。帝政下で征服された市当局は行政権を含めて本質的な役割を確保しなければならなかった。p.144  市長フルカンは1870年9月4日ののち、直ちに彼に与えられた知事の職を拒絶する。これら共和派の独立主義が政治的中央集権主義の象徴、経済的抑圧、革命的扇動の表徴としてのパリから自らを分かつものであるように思われ、この独立主義はボルドーでは国防を含む一般政治の関心を制約しているように思われる。AITのメンバーのあいだに外ならぬこの市民自治への願望が存在する。混乱が始まる。穏健派の共和主義者が状況を制する。「戦闘」は生じないであろう。騒動がなかったために、急進主義の弱体化、指導階級の策謀、市長フルカンの態度等などがその背景にある。しかし、とりわけ騒動がなかったことは政府の、次いで国民議会の存在と関係があるにちがいない。共和主義の合法性の思想は徐々に強まっていく。そして『ラ・ジロンド』紙の穏健的環境のあいだに多くの躊躇が国防から生じうる社会的結果を前にして現れる。或る者による次のような宣言にもかかわらず、秩序が彼らにとってあまりに早く、ひとつの必然事として現れる。つまり、市長フルカンは人民に武器を約束するまでに至るであろうという宣言を出す。だが、少し経つと必然的に、保守的環境は最も曖昧なゆえにこの態度について彼を非難する。

 急進的環境はパリの諸事件に関して何らの敵意も表明させない。彼らの指導者はおそらく他の町なら帯びたはずの重要性をもたない。指導者タイプはデロワ(Delloy)である。彼は一種のロマンチズムをもち、政治的態度の欠如のゆえに、また、個人的野心のゆえに、大衆行動に刺激を与えることのできる人物であることを証明した。一方、彼はまさしくインターナショナル勢力と謀った妥協のゆえに孤立していく。取巻連も含め、すべての者がデロワを非難する。そして、このことが、他の地方の企図がすでにボルドーで4月に動きはじめる。その時に挫折していたがゆえに、そうである。このような状況下であらゆる傾向の共和派の共同幻想は和解の模索でありえた。或る者はこの和解を拒絶し、AITと協同する。パリコミューンの綱領を採択することによって市議会選挙への共同名簿は掲げることによってである。

 したがって、この時期の大きな特徴は共和主義思想の偏在の中に見出さねばならない。その共和主義思想は保守的環境をうち破る。というのは、共和政は秩序を確立する能力のあることを示すからである。共和主義思想はまた、その急進主義の表現を借りて「社会主義的」環境の樹立に向けて溢れでる。このことは少し時間が経ってから影響をもつことになる。なぜなら、社会主義的傾向のニュアンスをもつ共和主義的軍国主義は時おり、かなり強化された形でそこから沸きでるからである。

 この共和主義思想は社会主義者に対してあまりに早すぎる選挙の勝利を確保するだろうが、ボルドーの労働環境によるその階級的利害についての自覚にかなりブレーキをかけることを見落としてはならない。