M.モワッソニエ著「地方のコミューン; 一つの研究の提案」(その2) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

M.モワッソニエ著「地方のコミューン; 一つの研究の提案」(その2)

 

 少なくとも3つの水準を区別しなければならない。

<農 村> ここでの行動は古くて複雑な伝統の強い影響を受ける。

<小都市> これら都市は19世紀初頭の都市中心の職人的・半農村的性格を保持している。

<大都市> 工業化に関連して偶々大変動を味わわされた都市であり、ついでに言うと、インターナショナルがつねにそこに存在している。

p.129   パリと同様に地方でも新しい要素と古い要素が解きがたく混ざりあっている。自治、非中央集権化、連邦主義など、地方の運動を特徴づけるあらゆる事がらは、J.ガイヤールが癌について強調しているように、南仏同盟にとって過去の再現として説明されるのと同程度にプルードンのイデオロギーの反撃とか、具体的政治状況の結果とかによっても説明される。受動的な農民大衆がくり返した革命的ないし単に共和主義的な都市という孤島はその自治を守ることによってのみ、また連邦主義的紐帯、行動の基礎と見なされる都市 ― これら都市に従ってより有利な政治的方向が農村に課されることになろう ― の「同盟」の創立によってのみ創造性を守ることが期待されるのだ。この代表例がリヨンである。そこでは近隣の村落に対して都市の願望に適合した方向づけを実質的に課していくことが語られた。

 厳密に結びついた鉄道網の発展 ― 自明の理ではあるけれども、やはり述べることにしたい ― は1848年には存在しなかったが、これが1870~71年の諸事件と同様に、なおまだ重要な人的交流が大いに役立ったこともつけ加えておこう。というのは、交流は結社が集まり、おそらく行動の可能性が形づくられるのに寄与するからだ。人間的結合、都市間の交流、相対的協調。南仏同盟はこうした人的交流の容易さ、人と計画の循環の容易さに大いに負っている。マルセーユ人とリヨン人は非常に頻繁にインターナショナルの場で会合した。1869~1871年の期間、バステリカ(Bastelica)に参集する会合において、AITのマルセーユの指導者、リヨンにおける対応グループのA.リシャ―ル(Richard)およびスイス人の密偵らはこのような新しい状況を非常に有名にする。同じく行動を起こすとき、コミューン危機のとき、1871年の春、ラ・シャリテ=シュル=ロワール(La Charite-sur-Loire)からヌムール(Nemeur)まで鉄道に沿って扇動が拡大した。コミューンの影響が地上で感じられる役目を果たした運河がそこに存在したのは確かである。

 そうした多様性そのもののおかげで、同族関係に疑いの入れようのない地方のコミューン運動は過度の単純化に結びつく全体的分析に対し抵抗する。

 ある点までわれわれは一つの公式を利用することができるだろう。すなわち、コミューンに関する最近のシンポジウムがおこなわれたとき、E.ラブルース氏が提起した公式がそれである。彼曰く。これらの運動はまず第一に、同質の民衆階層において浸透した職人とプロレタリアートの事実である。しかし、事実においてその練り粉は均質のものではなくて、その構成要素は非常に異なっていた。

 リヨンについての研究でアメリカの歴史家J.アーチャー(Archer)は正当にも以下のように考察する。1870年および1871年のエピソードは19世紀の社会闘争の発展においてp.130

真実の特殊性を保持することによって都市や地方のランクにおける重要な段階として真に位置づけられる。

 各都市の国民的統一体への結合、そして最終的には地方的創造性の軽減、これらはこの当時、非常に限定されたままであった。これら都市の一つひとつにおいて一種の社会文化複合体環境が存在する。これは支配的産業による技術的・言語的・政治的な集団的獲得物によって特徴づけられる。特殊な精神状況を探るならば、より深い民衆層を暴かれ、さらにこれら民衆層の鼓動の可能性を決定づける。要するに、過去がこのようにして直接的に現在に挿入され、この民衆共同体の変遷の重要な与件となるのだ。たとえば、リヨンとサン=テチェンヌの2つの町においての相違は驚くほど多い。百年後の1971年、今なお何かが残っており、労働ミリタンがそれを十分に感じ、彼らが諸君にリヨンではサン=テチェンヌのようなわけにはいかないと語るかどうかについて私は知らない。私が思うに、そこにはなお永続的な歴史的遺産の顕われのひとつがあるはずだ。

 しかし、このような文化的造詣はむろん絶えず、体験やイデオロギー的影響に応じて豊かになる。イデオロギーはしばしば外部からもたらされ、これこれの特殊なダイナミックで開かれたグループ ― これが媒介者となる ― によって都市の枠内にもち込まれるのである。

 都市の社会構造が産業発展のおかげで急激に発展していく時期において最大級の主導権を執りうるグループがどれであるか、また、練り粉のイメージを取り戻すためにこの都市の練り粉が働く酵母が何であるかを暴くことは大切である。

 インターナショナルが根を張ったところではインターナショナルがこの役割を演じ、地方的・社会生活の「光景」において事実的に大きな革新をもたらす。直接的・間接的なインターナショナルの影響があることは否定できない。コミューン前夜の地方の主要都市のあいだにその通信網を張りめぐらし、社会問題を鋭く提起し、ストライキを奨励するか、あるいは1869年のように、ストライキから利益を引きだした。インターナショナルのセクシオンおよびミリタンの行動による直接の影響、コミューン宣言が帝政末期の大きなストライキによって動揺させられた町において正確に生じたことに注目するのは興味を惹くことだ。ここでAITの行動の性格を的確に定めおく必要がある。インターナショナルというのは、どこでもヴェルサイユのプロパガンダが多くの不平をもって零すような訓練され、構造化された組織ではない。インターナショナルは、そのミリタンが参加する各種の委員会の内部においても行動する。それは思想と考察の頒布元である。ラブルース氏の言葉を借用すれば、‘Distillant’(蒸留器) p.131  いわば労働階級における普遍化の精神である。インターナショナルは同時に一種の友愛組織であり、前衛を集め、このようにしてパリと地方の結合を確立し、その結合をコミューンに利用させる。

 このような直接的影響の上に間接的影響が加わる。特に隣接する政治グループに対して、どの程度まで ― 今や急進主義について語るべき時だと思う ― その点まで急進主義が組織化の道にある労働運動の部分的な上げ潮動向の結果ではないだろうか? インターナショナルと小ブルジョアジーの政治的組織の関係は確かに複雑である。たとえば、リヨンでは彼らは(そのウィルスの役割を占拠に関する一種の伝染病によって)急進派と穏健共和派の離反を強めるのに貢献した。しかし、それと同時に、彼らは職人世界で労働者世界にできた裂け目も暴く。じっさい、1870年の人民投票から1871年4月10日の最後のリヨン蜂起まで、リヨン職工から成る赤十字派(Croix-Rouge)の態度と、産業労働者から成るギヨティエール(Guillotière)のそれのあいだのかなり目立った相違を表わしている。

 私はかなり見世物的な何かに注目する。1831年、リヨン職工の叛乱が起こったとき、1831年11月21日から22日の夜にかけて革命の砦としての街区で戦う人々はGuillotièreからCroix-Rougeまで昇る。1871年、Croix-Rougeここは平穏なままである。人々はCroix-RougeからGuillotièreのバリケードに降りる。2,3人のCroix-Rougeの住民はまさしく殺害されに行った。

 したがって、ケースバイケースで歴史家は過去のうようよとした遺産に由来するものと、進化の真只中にある社会関係に由来するものと、構成された主要グループ化によって追求された政策に由来するものとを区別しなければならない。

 必然的にかつ直ちに一つの質問がなされる。すなわち、運動の指揮はだれが執るのか? 幾つかの町にその運動を真に指導するグループがいるのか? 可能なパートナーに関して力または指導的力の態度はどんなものか? 町においては好むと好まざるとにかかわらず、しばしば構成される同盟はどのような性格を帯びるのか? これらすべては最終的に企図された行動の方向づけ、内容、大胆さに依存する。

 急進主義または地方の急進主義の的確な役割とは何なのか? なぜなら、一方の極における由緒ある共和主義とブランキ的行動にかなり近いネオジャコバン主義とのあいだにはニュアンスが無限にある。これは特にリヨンで強く感じられる。最後に、リヨンでのバクーニン、マルセーユでのクレミュー、クルーゾでのデュメイ(Dumay)の影響は重要でありえたのか? そして、それはなぜ?

p.132   地方の都市的環境の多様性はわれわれを遂に、どうして1871年の諸事件が扇動したさまざまな都市において、パリコミューンが理解されたのかという疑問に導く。たしかに、首都と地方の残りの都市との関係 ― これはわれわれが先ほど接近した質問である ― はただの一度として完全に断たれたことはなかった。ポスター、新聞、書簡、密使が往来していた。情報がもたらされ、受け取られる方法を考慮すれば、人は地方において或る時はパリコミューンの民主的・自治的側面について国家の破壊やコミューン的自由について、また或る時は社会主義的内容についって、そしてさらに別の時は運動の愛国主義的内容を主張することが可能であった。

 解釈の多様性はそのダイナミズムの事実からパリコミューンが急速に発展したがゆえに、なおさらよりよく理解される。その出発点において不確かな力、日が経つにつれそれが鮮明化し、ヴェルサイユとの関係が固まるにつれて、その社会主義的傾向の方向づけは多かれ少なかれ、純粋なかたちで明確化する。

 情報がまちがってか、あるいは不十分に伝達され、彼らに固有なリズムに事件を見てきた地方人はつねにこの発展を幾らか遅れて自覚する。彼らまず最初に、初期の頃のパリの行動の第一幕 ― 共和政擁護の意志表明 ― を心に留めるならば、大都市はそれに従わなかったであろうとか、時至れば、首都のその後における発展を追わないだろうとかの証拠は何もない。そんなわけで、地方が「コミューンの政治的側面のほうを、その社会主義的側面以上に称賛」したと断言するためには、ジュール・ゲードを引用するならば、そこで立ち止まらず、1877年に現れたようなZukunftに現れた有名な論文の引用をそこで壊さないことも必要事であるように思われる。ゲード曰く。「共和政と獲得されたコミューン政治」、公権力、行政、立法の絶対的な主人となった大都市のみを人が理解すれば、経済的な革命はもはや数週間とまでは言わないまでも数か月の命でしかなかった。パリがそうであったように、人はほとんど付加することを望んだであろうか?

   同じく、トゥールーズ、クルーゾ、マルセーユ、リヨンにおいてヴェルサイユとの関係を絶ち、内乱の責任を執るべきことが問題となると、これらの町の革命派を捉えた躊躇は、地方のデモの特殊な脆弱さに対してよりはむしろ、現実意識における遅れに帰すことができるだろうか? 長い間パリコミューン自体が躊躇していなかったか? 最後まで和解を求めたのち、抑制されてか、または強制されてか、武力行使を諦めなかったか? これもまた忘れてはいけない点である。

p.133 こうした観点のもとでパリの態度と地方都市の態度について人が語ることに大きな差異はないように思われる。むろん、マルセーユ、ナルボンヌ、リモージュ、クルーゾ、サン=テチェンヌ、トゥールーズ、リヨンの諸事件に人が関係をもつ程度に応じて地方のコミューン運動の意味に関する見解は大いに分かれる危険性を帯びる。だからこそ、私は討論で必ず展開されるはずの一定数のテーゼを公式化することについては細心の注意をはらって差し控えたのである。それはやはり利用するのが望ましい一つの事がらである。こうした多様性があるからといって、本質を隠蔽してはならない。地方の運動はコミューンがフランス全土における深刻な危機に対応していることを確認する。そして、同時代人はそのことを自覚していた。血の一週間の始まりを耳にしたとき、ソーヌ・エ・ロワール県の知事は「時至れり」と記した。1871年9月4日のすでに引用した報告書において、モー子爵も同じような不安、同じような意志を表明した。「法律で地方のコミュナールを屈服させるためには、政府にせよ国民議会にせよ、大砲でもってパリのコミュナールと戦うのに、そこに存在しなかったような躊躇をもってはならない。これらの連中とわれわれのあいだでは政府の形態が問題であるのではなく、社会の存在が問題なのである。」たとえ、著者の意図に騙されたのではないにしても、まだこのような反応を誇張と受け止めるにしても、このような「大恐怖」やそれを惹起した諸事実が歴史家の関心を惹く価値があることを銘記すべきである。これは彼らをして地方のコミューンを開拓するのに十分刺激を与えるはずである。