M.モワッソニエ著「地方のコミューン; 一つの研究の提案」(その1) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

p.123     地方のコミューン;一つの研究の提案

par Maurice Moissonnier

 

 地方のコミューン運動の研究に寄与するこの論争を説くにあたり、私は、この問題に多少なりとも関心を寄せる者にとって事実的に共通の場所を指摘する説明を公式化したい。

 J.ガイヤール(Gaillard)夫人が近著『地方のコミューンとパリコミューン Commune de Province et Commune de Paris』で、「地方に関する研究は今日にいたるまで寡少状態にある」と書いた。彼女が書いているように、それが流行の問題なのかどうか、そして「過度に共和主義的で十分に社会主義的でない」― このこと自体は研究する価値があるが ― 地方の運動がイデオロギー上の理由によりパリのケースを特権的に取り扱うマルクス主義者の分析対象となるといった注意で特に損害を受けたかどうか、私は知らない。

 じっさい、このたびの百年祭において大衆向けの祝祭記念行事、出版、ラジオ放送、テレビ放映も同じような意味で欠陥をかかえている。たとえ地方の新聞や雑誌がしばしばいく分控え目な物語を、すなわち一般に知られていない諸事件の分析を思いきっておこなう場合でも、欠陥をもつ点では共通する。

 このような白紙のページ、限定された好奇心はおそらく別の理由をもっているだろう。たとえば、血の一週間の惨劇は地方の一時の騒動、しばしば絶望的騒動よりもなお一層、研究者の関心を惹いたのは当然であった。人はそれを惜しいと思うだろうが、しかし、事件の寒暖計においてこれこれの史的エピソードの重要性を測るモノサシは流された血の量である。

 しかし、他の多くの要素がわれわれの知識のこの不均衡に貢献する。

p.124   第一に、探究者はパリの膨大な量の古文書に極めて容易にアクセスできるが、地方では状況は異なる。特に地方の書類の山はさまざまな倉庫にバラバラに保管されている。

 J.ガイヤールが示唆しているように、コミューンの伝統そのものがパリの歴史には特に豊かである。

 フランスに流布し、おそらく奸策をめぐらしてすべての国史を首都から考察するという習慣をもつ中央集権的概念を実行する影響。

 最後に予断。コミューンは出発点からして例外的な事件であり、例外的な町の真只中で例外的状況から生まれたと見なす考え方。要するに、国史の欄外に一種の不慮の出来事として登録すること。

 G.ブルジャン(Bourgin)が1909年5月の『社会評論Revue Sociale』誌で、コミューンはパリに特殊な現象だったと断言して以来、相対的に寡少な研究が地方のためになされてきた。私は今までに3作品しか見ていない。1950年のA.オリヴジ(Olivesi)によるマルセーユに関する著作、1970年のJ.アルシェ(Archer)によるリヨンに関する著作、1971年のJ.ジロー(Girault)によるボルドーに関する著作と、以上3作品である。

 これらにもう一つの著作がつけ加わる。私はごく最近、やっとそれを入手した。その著作は以下のとおり。ルイ・M.グリーンバーグ著『自由の姉妹、マルセーユ、リヨン;パリと中央集権国家への反動』ハーヴァード大学出版部(Louis M. Greenberg, Sisters of Liberty, Marseille, Lyon, Paris, and the reaction to a Centralized State, published by Harvard University Press, 1971.)

 私はむろん、P.ポンソ(Ponsot)によるクルーゾに関する仮綴本、P.-L.ベルト―(Bertaud)によるボルドーに関する著作、H.フェロー(Féraud)によるナルボンヌに関する著作、最後に、リヨン、サン=テチェンヌ、ブレスト、トゥール、トゥールーズの諸事件に関して記した論文や論争を忘れてはいない。J. ガイヤールの私が引用した小著作のほかに、総合の最良のエッセイの一つは、J.Bruhat, J.Dautry, E.Tersen の指導のもとに編纂されたエディシオン・ソシアル社版の共同作品において地方のための章を割いている。

 私のみるところ、全体として確実な結論を、そして地方コミューン問題に関する堅固な判断を公式化するにはなお不十分な箇所がそこにあるように思われる。

 しかしながら、この領域での知的進歩はおそらく、パリの諸事件そのものの方向を明るみに出すであろう。人はしばしばパリによって地方を説明しようとするが、あべこべのやり方もこれと同じ程度に無視すべからざるものがある。1870年8月から1871年3月にかけての地方都市の闘争について優れた知識が得ることができれば、おそらくパリの緊張について非常に大きな危機、最終的にフランス社会の危機においてより良く位置づけるものとなるだろう。地方や町は無限の相違点をもちながら、第二帝政の経済的変化に結びつけられた社会発展が動きだす国の多様性を暴きだすことによって地方の万華鏡は見本による分析、p.125  つまり、われわれが前の討論でたち戻ったように、コミューンにおいて黄昏に属するもの、夜明けに属するものの一種のスぺクトル分析を可能とすることになろう。いずれにせよ、われわれのパリに関する知識が地方の照明から切り離されれば、つねにあまりに多くの影の部分を含む危険性をもつことになるといえよう。

 したがって、研究状況を踏まえたうえで本報告は精査されたテーマを提起するなどと主張するつもりはなく、質問をおこない、しばしば方法論を示唆することに限定したい。意図的に本質的、問題に限定される。なぜなら、有益な大論争が始まるには多くの事実を要するからだ。未来の仕事としてわれわれが懐く野心は、なおまだ発見すべき多くのものがある領域で新しい研究分野を拓くことにより、このシンポジウムにあらゆる価値を与えることである。なぜなら、最近、あるジャーナリスト(彼は歴史家ではない)がおこなったように、「この百年祭に際しコミューンについてすべてが記述されたし、また記述されるであろう」と主張するのはまちがっている。

 第一に、本質的な考察はこうあるべきだ。地方史を開拓せねばならないのは1871年3月18日以後ではなくて、それの前つまり1870年の秋から冬にかけての騒動時である。じっさい、地方とパリのあいだには非常に純粋な不調和があった。1870年9月以降における地方での共和主義的圧力の性格、パリ以外の中心的都市での政治的・社会的対決の活力は運動の始まりや程度における利点をある程度まで、首都に対する中心都市の優位を与えたが、これがすでに問題となる。

 帝政の崩壊以前の1870年7月、8月という事実的にあまりに早期に、リヨンやマルセーユでは戦争反対運動が「執拗に」かつ他の何処よりも広範囲に表明されたことが確認できる。そのことはやはり重要である。19世紀において初めて抗議を受けたのであり、たとえば重要な街頭デモがリヨンで組織され、「平和万歳、帝政反対!」「イエズス会打倒!」の声が叫ばれた。その事態は、聖職者が戦時動員を免れたため怒りを刺激した程度と結びつけられていた。帝政と聖職者のあいだの緊密な協力から生まれた緊張が付け加わる。これについてわれわれはすでにアクセスした。

 共和政の宣言が史上初めてリヨンやマルセーユで宣せられた。これはパリに倣ったものではなくて、パリよりも時間的に先んじている。このことは銘記しておいてよい。3月18日事件についての議会査問委員会の報告者デルピ元帥(Martial Delpit)の言い分を信じるならば、「南仏の幾つかの町では権力はもはや有名無実となっており、地方のほとんどの県庁所在地で知事は市当局によって支配されていた。」・・・デルピはなおも続ける。「したがって、9月4日から3月18日まで p.126  道徳的秩序 ― この用語は刺激的であり、これは3年後におけるいわゆる『道徳的秩序』のアンチテーゼと見なされうるといえる ― は大きくなる一方であり、フランスの中・南部のほとんどの都市で平穏は一時たりとも訪れなかった。」国防政府は当時、同じ原因により「政府が妨げることのできないものに関して眼をつぶらざるをえなかった。」

 マルセーユ、リヨンでは中央権力は激しく攻撃を受けた。リヨンでは公安委員会により市役所に赤旗が立てられ、はためいた。公安委員会には共和派の中の急進派 ― われわれはやがてこれら急進派について語るであろう。というのは、私は彼らを注意深く定義しなければならないと思うからだ ― とインターナショナル加盟員がいた。この町でパリコミューンの施策を思わせる施策が実行された。たとえば、公設質屋の担保物件の返還のようなものがある。帝政の最後の局面において帝政の官僚によって延期された国民衛兵の武装化が要塞の略奪により自発的に実現されるであろう。そして、その武装化は金持ち階級の街区の大隊はその操作から免れるというふうに、選択的に実施されるであろう。それゆえ、階級闘争の野蛮な満潮を経験したこの町における重要問題が生じた。武器を持つ者と持たないものがいる。9月、南仏問題が組織されたが、その連邦主義的傾向は明らかに政府を不安がらせる。グルノーブルでは9月と10月に要塞司令官が街頭デモの直接的圧力のもとに辞職せざるをえなかった。権力奪取の革命的企図が1870年9月28日のリヨンでバクーニンの協力のもとに生起し、ブレストで10月2日、マルセーユで11月2日、ルーアンで12月8日にそれぞれ発生した。しばしば流血の騒動に発展した。トゥールーズで10月31日に、ラヌムザン、ペルピニャン、サン=テンチェンヌで10月30日に、クルーゾで11月26日、リヨンでは11月3日と9日、12月20日に起きた。

 要するに、パリの騒動は遅れ馳せに訪れたことになる。つまり、1870年10月8日と31日、1871年1月21・22日のパリの騒動において、それよりしばしば大きい規模の地方のデモが対応しているといえよう。

 時間的なズレについてはこれまで、パリが戦争遂行の義務を課されていた条件によって大いに説明されてきた。9月4日の革命が起きた条件をおそらく考慮する必要があるだろう。それはまもなくふれるつもりでいる。このことは私にとっては特に重要であるように思える。軍事的不安が疑いなくなく、国防政府に対する動乱を燃え立たせたとするなら、パリでは籠城とその危険、その直接的危険が社会的・政治的反対の声を一時的にいとも簡単に低くするのに役立ち、それが悪化させるまえに、つづいて起こるはずのこれら政治的闘争にブレーキをかけたのである。

p.127   パリとは逆に、フランス中央部と南部では対決の声が危険そのものによって極めて迅速に刺激を受けたが、危険が遠ざかるにつれ、対決の熱は冷めつつあった。このことはパリにおける一種の「神聖同盟」と同様の性格をもつ。

 したがって、1871年3月18日未明の状況を的確に分析するためには、幾つか重要な事実を見失わないようにするのが肝要である。私はこの目的で大急ぎで事件のあらましを概観することにしたい。

1)政治的・社会的闘争の起伏の大きさ、都市人口の活動、対決の激しさが地方において高い水準に到達した。

2)最も先進的要素によって指導されたデモ、たとえばリヨンとマルセーユで最も大胆な対象に定められたデモが失敗し、この失敗ののち後退した防禦ラインが民主共和政および市民的自治 ― 多かれ少なかれ地方が経験した状況のために獲得した ― の防衛の課題が残されることになった。

3)地方において中心都市の革命的潜在力の一部が枯れ死にしたが、それは部分的だった。私見によれば、これを誇張してはいけないと思う。3月18日の直前、地方における未来のコミューンにおける大隊が失われたなどと言ってはいけない。しかし、最後に、真実はこうである。部分的に獲得された成功 ― 見方を換えると、最も先進的要素により定められた対象は後退となるが ― と同じ程度に遭遇する諸困難は場所によって相違はあるものの、人民大衆の高揚感を弱めるか、または国防政府に対する穏健反対派と徹底反対派のあいだに現れた衝突を劇化させた。事のついでにふれるが、ガンベッタの賭けはどのようにしてかくも非常に巧妙に彼が民衆運動を分裂させるのに状況を手中にとり戻したかを示す特殊研究の例として役立つであろう。事態はリヨンにおいては、たとえば1870年12月20日の事件の後、アルノー(Arnaud)司令官の葬儀時にめざましいものとなった。

4)最後に、非常に異なった地方的状況、分散した革命的中核のあいだにおける結合の困難、その他の原因に帰すべき地方的多様性は1871年3月以降の運動の実際的共同を不可能なものとした。

 この最後の点はわれわれに、別の質問をするよう仕向ける。つまり、地方について語るべきか、それとも複数の地方について語るべきか?

 国民議会査問委員会のために地方の叛乱運動を分析したモー子爵は1848年6月暴動を惹き起こした保守派の躍動の欠如を嘆き、彼のいわゆる「善良な市民の無気力」を非難した。

p.128   彼によれば、2つの主だった理由が地方のこの態度を説明する。第一に、選挙によって与えられる力の衰微、行政の過誤、警察権力の分散など帝政権力のあからさまな失墜。第二に、子爵はこの点を最も強く主張しているが、「権力を信用することにより眠りこけることに馴れっこになった」保守派の万事受身の姿勢。

 明らかに数年間の疲れきった政治生活ののち、1860年代末に目覚めた政治生活ののち、一重に野党にとり好都合となった帝政の突然の崩壊は政治的・社会的建造物を根本から揺るがせた。これはパリでも地方でも揺らぎの違いはなかった。ともに一瞬のうちに大きくなった。場所により程度の差はあるが、動揺は深刻であった。たしかに、相違は経済的・社会的発展の不平等と、都市により異なる都市構造に、また、共和派の急進派かインターナショナル派かの違いによる役割に結びつけられている。後者の役割が大きければ、政治組織は国民的範囲では統合されず、地方的衝撃が依然として支配的となるだろう。

 1871年について1971年の政治的機能で考えないようにしよう。モノサシは多様なままである。危険な一般化は何としても避けなければならない。ここではケースバイケースの研究が肝要である。たとえば、農村を一括して語ることはできるのか? たとえ農村大衆がその熱狂主義ではなく、その受動性によってティエールの行動を支持したとしても、例外は数かぎりなくある。オート=ヴィエンヌ(Haute-Vienne)の或る村はコミューン弾圧時に7人の流刑者を輩出した。赤旗を立てたルシヨンの村落は、ナルボンヌの叛徒やペルピニャンのデモに連帯の意志を表明したのか?

 「本質的相違は都市の違いに因らない。相違はひとまとめにして奪取された都市と農村のあいだにある」とJ.ガイヤールは書いている。これは明らかな真実であろうが、フォブールの役割、労働運動の組織においてリヨンとパリでは類似性がないのではないか? リヨンとマルセーユでは、リヨンとボルドーではどうか? これは私がJ.ジロー(Girault)に対しなすべき質問である。