J.メートロン著「アペール報告の批判的研究」(その5) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

J.メートロン著「アペール報告の批判的研究」(その5

p.119

討 論

 

R.ゴセ

 1848年6月叛乱弾圧時の史料から徒刑囚を私は追跡してきた。私が言いうることは、「職業家」がいるという事実であり、事が終わってみれば人があまりにしばしばパリケードの良い面から挫折した人々を見ているということだ。しかし、私はもっと進む必要があると思う。われわれ自身が位置するカテゴリーは、それを怖れた人々のカテゴリーである。戦いあっている者は襤褸をまとい傷ついている。彼らはテュイルリーの窪地でもどこか余所でも、2,3日間飢えで死にそうになっており、見苦しく憂慮すべき存在にほかならない。

 一方、結局のところ、弾圧は弾圧側が欲するような被抑圧者をつくりだす。これは売春行為、軽犯罪、その他に関するかぎり、特に価値あることである。もし人が6月蜂起者を取りあげるなら、およそ戦闘で5千人の死傷者が出た。残りはだれもが、もちろん優先的に逮捕され、隣人はもとより守衛のだれもかもが逮捕された。コミューンの後に生じた、密告の驚くような数を想起してみよ。このような条件下において、逮捕された諸個人の調書から蜂起家を真実に描写する統計をつくりだせるとは私はけっして思わない。コミューン後に逮捕された人々はすべて本当にコミュナールであっただろうか? 国民衛兵の日給30スーを要求しに訪れた者たちであっただろう。1848年6月に彼らは逮捕されたが、果してどんな基準によってだろうか? 「国民衛兵への所属」「勤務欠怠」「国立工場に所属していた」ぐらいだ。この3番目の場合、流刑処分するに際し自動的に好都合であった。このことは真に何らか価値あることを証明しているのだろうか?

 

A.オリヴジ(Olivesi)

p.120  マルセーユについて私が作成した統計表はメートロンのそれよりずっと些少のものである。しかし、私の情報は大部分、彼の『労働運動人名辞典』と陸軍省の古文書についての直接的な調査に由来する。たとえば、マルセーユにおいても穏健派の新聞の紙面がパリと同様の感情にどれぐらい盛られているかを検討することは興味深い。前科のみを問題として取りあげたい。前科者はマルセーユ人ではなくて、町のよそ者である。1891年4月4日の翌日に500~600人が逮捕された。主張して曰く。山中で68人だけがマルセーユで生れている。143人の外国人 ― 実際のところ、是非は別として多数のガリバルディ派が計略に引っかかって捕えられた― がいる。フランス人の中で112人が前科持ちである、と。

 私もまた統計をとってみた。それによると、224人が3月23日~4月4日のコミューンに参加し、あるいはその後の週において捕虜となった。これら224人のうち、195人が起訴の対象となった。1870年8月以後、53人がすでに先行した革命運動に関わっており、35人が確実にインターナショナルに加盟し、外に8人が加盟していたと推定される。143人について計算したところによれば、平均年齢はおよそ36才であり、私はルージュリが算出した数値に近いものとなった。その70%は南フランスの出身であり、より正確に言うと、59%が南東部諸県、プロヴァンス、ラングドック、コルシカであり、23%がマルセーユの生れである。社会的構成についていうと、彼らのなかで67人についてのみ情報が判る。19%が林業で働き、17%が建築業、14%が金属産業、13%が衣料産業、10%が日雇い・人夫・人足である。さらに11%を占める商人のうち、その半数が小商人である。一つのカテゴリーが特に膨れあがっている。それはジャーナリストで、実に10%を占める。出版違反で多くの逮捕者となった者がいる。最後に、非常に取るに足りない身分の召使、耕作農民に属する者もいる。

 しかし、前科歴を見てみよう。細かくいうと、私は全体224人のうち前科者は29人(うち2件は疑わしく不確か!)しか見出さなかった。つごう、12~13%となる。さらに私は、ここでメートロンと同じになる。すなわち、7人が政治的犯罪で、11人が一般に軽罪の前科をもつ。残りについてはもっと精査する価値がある。たとえば、或る者は単独で20件の前科をもっていた。密輸入の咎で20回も罰金を取られた、不幸なブドウ酒商人の例がそれだ。一方、インターナショナル派に属し、僅か3,4人のミリタンの前科持ちがいるが、うち、メジー(Mégy)はその名うての政治的犯罪のゆえ、そしてランデック(Landeck)は殴打で傷害を与えたゆえであった。いずれにしても、インターナショナルは昔から厳重に監視されていたのである。

 

K. ウイツァンスカ(Wyxzanska)夫人

 私が特に研究したポーランド人に関してアペール報告は矛盾だらけである。一方で440人のポーランド人有罪者がいるかと思えば、他方ではポーランド狙撃大隊には10人の士官と91人の兵士しかいないのだ。

 

M.ペロー(Perrot)夫人

 メートロン氏の諸見解すべてに私は興味をもっている。特に、現実のうえにメッキを貼られたイデオロギー諸説のケースがそうだ。私はまったく現代的な例を知っている。すなわち、1872年における労働条件に関するデュカール報告がそれだ。その基礎として国立古文書館の50箱の史料 ― 非常に貴重な史料だが ― がある。アンケートを取ったあげく、前のものと全く関係のない一般報告と実際的に矛盾する。

 私はまた一つの注意を喚起したいが、あなたがそれを悪く受け止めないでほしい。コミュナールの「基準」がどれほどであるかを再発見するという大問題があり、それは真実を把握することにつながる。しかし、多くの者には、革命家を道徳に導く願望があるように、私には思われる。p.121 革命家にして泥棒または売春婦はなぜいなかったのか? 特に蜂起の当初には革命下であれコミューン下であれ、運動参加で捕えられた者にはすべて「周辺人」がいる。一つは真実を求め、もう一つは品行を求めることである。

 

J.ルージュリ

 ペロー氏のいわれたことを私も支持する。私は明らかに関係していると思う。なぜなら、コミュナールの横領(一部分)をつくるのに、アペール報告を使ったのは私だからである。私はメートロン氏またはゴセ氏と同じく、所与の数値が正確であるとか、逮捕者が多くのコミュナールであるとかは思っていない。だが、やはりある程度一定の点で(職業、出生地、年齢)所与の情報に幾ばくかの価値があるように思われた。アペールは約4分の1の「前科」を数えあげる。この確証を「変える」確かな理由がある。軽犯罪、政治的罪 … インターナショナル加盟、ミリタンのみに関する私自身の計算はメートロン氏の計算と一致しない。そして、われわれはそこに非常に名誉と思うべき一団(un corps)をもつ。一つの軽罪を犯すこと、それは取るに足りない状況の所産であるだろう。パン盗みという古典的な窃盗の例を想起せよ。また、特定の社会に対する謀反のやり方でもあった。もっと一般的な言い方をすると、われわれはL.シュヴァリエの『勤労階級と危険な階級』(完全に道徳とは無関係な著書)が世に現れて以来、十分には考察し論議していない、と私は信じる。

 

J.メートロン

 簡潔に答えたい。私の断定を支持するマルセーユに関するオリヴジの報告を幸いと思う。ウイツァンスカ夫人に対して私はこのシンポジウムが終わったら、彼女の得た結果と私のそれを突き合わせてみたいと思っている。私は『人名辞典』でポーランド人叛徒の調査を試みた。そして、私はウイツァンスカ夫人も人名録の後に彼らの名前のリストを与えた。

 もとの論点、すなわち、私にとって非常に気がかりなコミュナールの品行の問題にたち返ろう。この領分において私は大衆とミリタンの区別にたいへん執着している。じっさい、もし大衆において革命時 ― そして、もし牢獄の門が開けられるようなことがあれば ― これはコミューンの最後の数日間において実際にあったことだが、あらゆる種の個人がごちゃ混ぜになったならば、事態は同じではなくなったのではないか。私は、ミリタンをここではインターナショナル派と呼ぶ者に関してこのことを示したのである。ある人々は、私がこの企図から、彼らを支持するにはあまりにも革命家たちと前科持ちのあいだに等しい徴候をみているという。コミュナール大衆において前科者が含まれていることを私は否定しない。同じことは社会のいかなる団体にも前科持ちが含まれていることもいえる。そして、ヴェルサイユ派にとっては当時のすべてのコミュナールが悪党であったがゆえに、歴史家は事を精細に究明すべき義務がある。私はほんの一例として次の事実を欲した。私が『人名辞典』のための検討に取りかかったとき、私はふと一人の人物が気になった。彼はヴェルサイユ軍事法廷に出頭する前の1871年1月に、20年の懲役刑に処せられていた。彼はどのようにしてコミューンに参加しえたのであろうか? p.122  じっさい、彼〔注:ブランキのこと〕は5月27日に出獄し、28日にヴェルサイユ軍に再逮捕されて拘留された。彼を再度処罰するにあたって2つの表が作成された。彼は回帰するのが不可能の徒刑場に送られ、コミューン軍参加という前科を増やした。こういうケースは唯一のものではなく、外にもある。

 周知のように、私は長いあいだ無政府主義者について研究した。ところで、「埒外」者、「辺境」人、ルンペンプロレタリアートが機能的な革命勢力を形づくっていたと信じる無政府主義者たちが一時(とき)いた。無政府主義者の一人ミリタンのポール・ドレザル(Paul Dresalle)は後にCGTの書記補となったが、彼もまた本主題に幾ばくかの幻想を懐いていた。彼はやがてたち返り、書物や口頭を通じて私にそのことを説明した。われわれ歴史家というのはロマンチズム、軽率さによって、また十分な分析の欠如から、正義を求める民衆運動において多かれ少なかれ疵のある個人の業績を見ようとする傾向を過度にもつ人々に議論を提供しようとするのか?

 終わりに、私は婦人についていま一度ふれたい。娼婦であった高級売春婦をもってわれわれを感動させたアレクサンドル・デュマ・フィスが続いてコミューン婦人を「死の間際に初めて婦人に似るような女性」呼ばわりしたとき、そこに反省すべき問題はないのだろうか? ある場合において売春行為は光栄の称号である。別の場合にはつね日ごろのまちがったやり方は非難さるべきであり、特にひとつの運動にとっての汚辱点にもなる。人はおそらくしばしば階級の区別を濫用したであろう。少なくともこの区別はただの一度だってわれわれが問題にする場合におけるほど明瞭なものはない。