F. ジュブロー「コルベール研究」(15) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

第5章のつづき

 

第3節 国内関税

1.1664年関税の国内関税への影響

2.外国と見なされる諸州の関税とコルベールの関税についての見解

 

1.1664年関税の国内関税への影響

 これまで見てきたように、コルベールは諸州に斉一な制度を拡げようと欲した。1664年の関税に従うことに関し州によって受け止め方の違いが見られた。このため、いきなりの斉一化はむりなので、諸州を区分する必要が出てきた。それを全面的に受け入れた州を5大税区の州といい、部分的に受け入れた州を外国と見なされる州とされた。

 5大税区の州について1664年関税はノルマンディで以下の慣行をきっぱり廃止した。

p.393  ① 1633年にルーアンの利益になるように入市税として設置され、1655年にルイ十四世により失効とされ、1660年にエード税と一括されたニュイ当たりブドウ酒に対する5スーの税。

② ノルマンディの貿易商人の要請にもとづき1598年1月23日の宣言により設置されたトン当たり1エキュの税。

 アンジュ―はこの同じ関税は以下の(1)~(5)を廃止した。

(1) アンジューの外国貿易という名で知られ、輸出向けブドウ酒に対する1ピプ当たり20スーの税。

(2) 1581年2月21日宣言の実施令。同州が産出するカード、紙、季乾材木についてイギリスで徴収されるアンジュー税。

(3)ロワール川通行税。

(4)ロワール川を上り下りするあらゆる物資について徴収される税を成す新アンジュー税。ロシュフォールとクラン(Craon)攻略の費用を捻出するためにアンリ四世が1593に設置したこの税は講和とともに廃止されるはずだった。1599年12月20日宣言により、講和時に廃止されるどころか、逆に数多の商品に拡大され、アンジュー新税の名のもとに続くことになった。p.394

(5)ソミュール管区でアンジュー州へのブドウ酒に課される1ピプ当たり15スーの税。

 ノルマンディとアンジューに特有の1664年関税の影響のほか、ブルゴーニュ、シャンパーニュ、ベリー、ブルボネ、ピカルディ、ポワトゥー等の諸州に適用されたこの関税は、商品価格にもとづいて強制的に徴収される特殊地方税のため、収税吏、商人、運搬業者間で商品評価について重大な紛議を招いていた。これらの税を単純化され、斉一的徴収規則に改められた。

<1> 食品と商品の輸出税:夢税、縁日税 … 1369年、1376年、1382年、1488年、1540年、1549年、1581年発令の勅令にもとづく。

道路税、アングランド荘園条約(Traite domaniale d’Ingrande)、アンジュー新税(ロワール川通行税)ソミュール管区で徴収されるブドウ酒1ピプ当たり15スーの税 ― これらはノルマンディ、ピカルディ、シャンパーニュ、ベリー、ブルボネ、ポワトゥー、アンジュー、ボーモン、トゥアール(Touard)公爵領、シュノンソー(Chenonceaux)領地において、勅令に付加された税率にもとづき商品と食品の積荷について最寄りの局で支払う均一税に変換された。

<2> 食品と薬品の輸入税 ― この税は1549年9月と1572年1月の勅令によって、p.395  ルーアンとラ・ロシェル港で徴収されるが、この2港は大西洋岸由来のこれら商品の輸入が認可される唯一の場所であった。

 1554年のミョウバンに課された税、食品と商品について1581年に命じられた他の税、ロワール川通行税、新税などは単一の輸入税にまとめられ、その徴収は水路であれ陸路であれ、商人と運送業者がふだん利用している陸路または水路の最寄りの局で徴収されることになった。

<3> 最後に、1664年関税はアンジューとノルマンディで徴収された地方税と新税は廃止された。前者は販売人(vendeurs)、管理人(contrôleurs)、検査人(essayeurs)、検査官(visiteurs)等々の名のもとに設置され、後者は収税吏(massicaudt)の名で知られる。

 

2.外国と見なされる諸州の関税とコルベールの関税についての見解

 1681年、国王への報告に関する世に有名な覚書の中でコルベールは州の国内関税について見解を述べる。すなわち、関税受け入れの拒絶は放置すべきとした。「輸出・輸入品の税についてはやるべきことが山ほど残っております。」――この見解を諸事実によって正当化することは難しくない。

p.396  ①ボルドーの護送船団と会計税 …… ボルドー管区全体でずっと昔から商品の輸出入に際し、会計税(comptablie)の名で知られている税が徴収されていた。この税は大小二つの慣習が合体したものである。大慣習税の始まりはボルドーの入市税として課された。1041年、ギエンヌ公爵ギヨーム八世はサント=クロワ(Sante-Croix)大修道院で小慣習税を課した。しかし、当時はボルドーの城壁外に位置したこの大修道院の門徒らは、混乱と暴力が横行するこの時代に度々起きた侵入を気遣って、彼らの修道院がその壁を城壁内の垣根とするという条件で彼らの税を破棄した。1548年、アンリ二世はその所領で大・小二つの税をまとめ、次いで1563年6月、シャルル九世は布告によって会計税を定めた。この法規の最後の部分で、ブドウ酒のみが輸出に際しての強制課税となった。その他の商品はその価格に比例して課税された。税率は、その商品が外国産であって輸出する場合はリーヴル毎に12ドニエ(トゥール貨)、または商品価格の6%とされた。これら商品が国産品である場合は6ドニエまたは2.5%であった。輸入する場合は商品に14ドニエ、または商品価格の5%で、それは大慣習税、1%は小慣習税であった。フランス国産と見なしうるものを輸入するとき、これら商品はリーヴルごとに8ドニエ(オボール貨)または商品価格の3.5%(そのうち2.5%は大慣習税、1%が小慣習税)のみの支払いで済んだ。フランス人と外国人のこうした差別はボルドーに特有のものである。ブール(Bourg)、ブレー(Blaye)、リブルノ(Libourne)の諸港では、税はリーヴルごとに12ドニエ、または商人価格の5%であり、輸出入とも同率だった。1563年の法規によってボルドーおよび他管区の港湾を出航する同管区のブドウ酒は1トンごとに21スー(トゥール貨)― うちわけは大慣習税20スー、小慣習税1スー ― が課された。p.397  ガロンヌ川上流地方のブドウ酒は1トンごとに26スー(トゥール貨)―うちわけは大慣習税25スー、小慣習税1スー ― を支払った。商品に対する課税の価格(その評価については異議申し立てできる)にもとづいて支払わなければならないと同様に、1563年の法規は領地および価格算定の裁量権をフランス財務省に与えた。… 商人と官僚の合意にもとづいてなされる算定により、恣意的課税をどんなにか多く無効と宣せられ、そして、商業に有害な遅延ののちに利害関係者からする異議申し立てがどんなにか多かったことか。

 会計税または大小の慣習税などは全体的な税を形づくり、ほとんどすべての商品に課された税だったが、その外にもある。すなわち、輸出品に対してのみ、あるいは輸出・輸入の品に課される「ボルドーの護送船団」という名で知られる税もあった。輸出品については酢、火酒、クルミ、クリ、レーズンが対象となり、輸入品はブドウ酒、蜂蜜、塩、プラムが対象になった。この税の起源は詳らかではない。ただし、推測されるところでは、この税は1586年、当時ギエンヌ知事であったマティニョン(Matignon)元帥により、時代の必要に対処するために設置されたといわれている。それ以降、同州が内戦および対外戦争に悩まされた最中にも課税されつづけた。アンリ四世はこの税を国王の所轄に移し恒久化したが、税率を約半分に切り下げた。1613年、ボルドー市民は、自分らの通商を保護する目的で当てがわれた船舶の維持のために税を課すことを許可された。そして、この二番目の税は最初の税と合体された。

p.398  コルベールがうち立てたこのような内国関税の狙いは次のとおり。

① 事務局の数 ― コルベールは述べている。「収税吏は適正と思われる事務局の数を定める責務を有する。この者は臣下に対して大きな責任を負う。」「これらの事務局を必要最少限度に減らす必要がある。」

② 税の収受形態 ―「これらの税は商品の価値にもとづいて徴収される。」「収税吏はいわばこの商品価値の判定人であり、したがって、彼らは容易に商人を欺くことができるし、商人にとって厄介な存在であった。」「単一の関税をつくる必要がある。」これがコルベールの結論である。

③ アルザック協定(Traite d’Arzacq)― アルザックの縁日協定(Traite d’Arzacq)の名で知られる税はシャロッス(Chalosse)などの地域からバヨンヌ、ベアルン、バス=ナヴァール、スール地方(pays de Seule)、外国に向けて輸出されるあらゆる商品に課された。

④ ラングドック免状(Patente de Languedoc)― 外国向けおよびエード税の課されていない諸州向けに水路、陸路を通じてトゥールーズ、ナルボンヌ、ヴィルヌーヴ=レ=ザヴィニョン(Villeneuve-les-Avignon)から輸出される商品と、p.399  フォワ(Foix)伯領からジブラルタル海峡を通過する輸出商品に課される税。

⑤ リヨン課税――この内国関税の設置に関しての来歴情報は分っていない。しかし、確かなことはフランソワ一世の即位時の設置であることだ。徴税対象は、輸入された絹・金・銀の交織毛織物に限定された。これらの税はフランソワ一世によって1540年の勅令によって、イタリア、スペイン、コンタ=ヴネサン(Comta-Venaissin)から輸入された絹はリヨンにのみ運ばれるべし。シュズ(Suze)の町はイタリア由来の商品の中継地であった。アヴィニョンとコンタ=ヴネサン由来の商品はモンテリマール(Montélimart)を通ってドフィーネに到達した。最後に、スペイン由来の商品はナルボンヌとバヨンヌに浸透する。税率は商品が国内に向けられたときは5%と定められた。商品が外国に向かうためにフランス国内を横切る時に限って2%だった。シュズの町はサヴォワ公に売却されたため、シャルル九世は1564年にイタリア由来の商品の入口としてこの町に換えてボーヴォワザン(Beauvoisin)の橋を指定した。この宣言の最後の条文により、リヨンに移送されねばならない商品は毛織物、金・銀・絹交織物や工作物を含むだけでなく、イタリア産のすべての商品およびリヨン以外のフランスで製造された毛織物と絹織物を含んだ。1585年、アンリ三世はこのような拘束に加えて、絹、山羊毛、呉絽(ゴロ)レヴァント産の他の商品をリヨンの税関を通過させる義務をつけ加えた。p.400  原料と織物の間の、そして、消費と輸送の間のあらゆる区分は消えた。スペイン産の絹と織物の輸入はナルボンヌのみに限定された。フランドル、ドイツ、イギリス由来の商品と同じく、ローヌ川、ソーヌ川を下ってフランスに来る商品、そしてイタリアへ向かうにせよ、マルセーユに向かうにせよ、あらゆる商品は内国関税を支払うためにリヨンを通過しなければならなかった。ラングドック、プロヴァンス、ドフィーネの商品はこの税に従った。これらの諸条項はヴァランス(Valence)の商人とドフィーネおよびプロヴァンスの市長との間に紛議をもたらした。つづいて1663年3月24日の国家参事会の矛盾した法令が発令されたが、それは以下の内容をもつ。上述の国家の商品は…リヨンを通過する義務はなく、また、内国関税を支払う義務なく、売却および運送を許されるが、それら商品がサヴォワ、ドゥー(Dombes)フランシュ=コンテ、ジュネーヴ、スイス、ドイツに輸出されるときはリヨンを通過することが義務づけられ、その商品は課税を免れることはできないとされた。

 

おわり