F. ジュブロー「コルベール研究」(14) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

第5章のつづき

 

第2節 

1.関税の歴史

2.1632年、1644年、1664年、1667年制定の関税はイギリスからの輸入品に適用された

3.1664年と1667年の関税適用の結果:外国人、特にイギリス人とオランダ人によってフランスに対抗する禁止措置、その結末、2度目の廃棄、最初案(1664年関税)の再設置

4.この廃案に関するコルベールの見解

5.1671年の関税

 

1.関税の歴史

 フィリップ善良王が制定した輸出禁止的関税のもとで免税対象となった例はまさに数が多かった。1320年、フィリップ長躯王は輸出許可証の交付を、財務省(会計検査院)が指名した3人の委員に付託した。その後、この組織が明確に改革の基礎となったのは、輸出許可の申請手続が煩わしかったことと、認可が降りるまでの遷延に堪えなくてはならなかったからだ。全般的かつ規制的なやり方で執政官が思いのまま、しかも好きな時に、輸出から利益を引き出せる税率を定めるという方式はあらゆる難儀を排除する。最初の関税すなわち1342年の公設関税は羊毛の輸出関税であり、それより少し遅れて亜麻布と麻糸の輸出関税がそれにつづいた。工業で用いられるあらゆる物資、そして、商業の対象となるあらゆる物資も遅かれ早かれ、税をかけられた。たびたび改定された関税はしょっちゅう上下動をくり返し、中断されたり再設置されたりの変遷を経験した。… p.379  17世紀以前はほとんど例外なく、政策の性格は関税のそれと同じだった。つまり、関税は財政上の必要に従い、独占的利益をほしいままにした。しかし、17世紀以降となると、関税は機能を転じていく。関税は保護制度の一環となり、この制度の不安や気紛れまたは偏見の赴くまま上昇・下降をくり返す。市場は1632年以降は規制されるようになったのだ。これ以降は市場を混乱させるためには、のっぴきならない一大事変が必須となった。

 

2.1632年、1644年、1664年、1667年制定の関税率はイギリスからの輸入品に適用された

 諸現象を明瞭に示すために列挙しておこう。われわれはイギリスとゲルンゼー(Guernsay)島の商品に対するフランスへの輸入税率の中から一つを選びだした。p.380

 

品目

1632年

1644年

1664年

1667年

 

絹靴下(1足)

liv.   sol

      10

liv.   sol

      50

liv.   sol

       15

liv.   sol

       40

ウーステッド靴下(12)

    10

      50

 5     10

8

イギリス製胸当て

      20

 5

 5

10

les doubles

9

10

15

30

亜麻製ボンネット

      40

 

 8

20

石炭(1車両)

       2

 

         8

       24

イギリス産馬

4

 

20

 

4~26オーヌの毛糸

6

30

40

80

Bristoqの毳立毛織物

      10

 

       20

 

乾燥した毳立毛織物

      10

     50

  3

 7

他の毛織物

 

 

 

 

ostades(1反)

4

 

  8

 

サージ(1反)

      20

 5

10

12

 

税率の上昇局面はルイ十三世治世の末期から彼の息子の初期治世にいたる12年間についてのみ認められる。各品目についての違いは同率から4倍までの落差がある。… 税率が厳しいゆえにヨーロッパ各国から非難と報復を招いたコルベールでさえ、この高税率より遥かに下である。p.381  1644年から1664年までの20年間においても3分の1を超えることはなかった。

 

3.1664年と1667年の関税適用の結果:外国人、特にイギリス人とオランダ人によってフランスに対抗する禁止措置、その結末、2度目の廃棄、最初の案(1664年関税)の再設置

 1644年9月18日、コルベールが制定した最初の関税はフランスからあらゆる外国製品を締め出し、フランスの産物のために国家独占を確立する目的をもっていた。しかし、わが国の実業家とわが国のマニュファクチュア経営者は何らかの輸入を必要としており、フランスは彼らのために門戸は開いていた。しかし、国家産業は1664年においてもなお弱体であるため、さほど支援しなくてもよいと悟ると、すぐにコルベールは1667年の厳しい税率により外国製品の排除を宣告し、少なくとも絶対的排除に等しい犠牲という代価を払わねばならない場合に限って輸出を許可した。

1664年関税の支配思想は、輸出に際して徴収された異なる税を一つのものにまとめあげることだった。… もう一つの思想は飢餓の恐怖(彼の就任直後の大凶作)に鼓吹され、その思い出が絶えずコルベールの頭を支配したことだ。というのは、この災禍の複雑さは彼の執政初期における困難をかなり増幅したからである。

p.382  1667年、フランス産業には依然として保護の思想が支配していた。国王は言う。「われわれは以下を知らされた … 商業の発展とわが王国における種々のマニュファクチュアの設置は非常におカネがかかる」、と。したがって、われわれはフランスに同じような外国製品を、優先というこの満足を支払ってのみ導入しなければならない。

 

品目

1664年

1667年

椅子・家具用のつづれ織(100ペーザン)

  30 liv.

  50 liv.

Oudenarde, Flandre, Bruxellesのつづれ織

 

  60

 

100

アントウェルペンのつづれ織

120

200

染色済み蘭・英の毛織物(25オーヌ)

  20

  80

スペイン産毛織物(35オーヌ)

  50

100

 

p.383 1664年税率と比較して1667年のそれの上昇幅は2分の1から3分の1の間である。しかしながら、1632年と1644年の2つの税率の間に非常に大きな落差があっても、ほとんど不満を生じなかったのに対し、1667年の税率は、刺々しく激烈さの籠った非難の仕返しを誘発した。かつての寛大さと、この度の不満に違いが出たのは、1667年におけるフランスの繁栄と1644年における貧困によって説明できる。1644年のフランスは海軍を保有していなかったし、オランダ人がフランスの食品と産物輸出を独占していた。彼らは安値で買いたたいた物資を他国に運び、そこで高値で売りつけた。しかし、コルベールが海軍を設置したことが輸出取引における競争相手としてフランスを前に押し出したため、税率という足枷はオランダ人の目に破滅的な因子と映り、ルイ十四世の大臣は、1667年の税率を低めよとの要求に取り囲まれた。しかし、コルベールは動揺せぬよう注意を促し、1667年の諸条項を変更しないという拒絶の立場に固執した。幾ら要求しても事態が何ら変わらないのを見たオランダ人とイギリス人は、フランスの例を真似しはじめ、むしろフランス以上に強烈なしっぺ返しを試みた。つまり、イギリス人は税率を上昇させ、オランダ人はわが国の産物をすべてボイコットしたのである。

 まったく動じないコルベールはオランダによるボイコットにも、イギリスによる税率つり上げにも動揺しなかった。イギリスに対してコルベールはその試みの無駄さかげんをあざ笑った。… 事の成り行きを見てコルベールはいっそう安堵する。p.384  重税を課されてのち、つまり、イギリス人がわが国のブドウ酒と火酒に輸入税を課したのち、かつて輸入が自由であった時分よりもイギリス側の輸入量が増えたことをコルベールが知らなかったというのか? じっさい、イギリス側の史料に依れば、実情は以下のとおりだ。1663年の聖ミカエル祭(9月29日)から1664年のその祭日まで ― 当時はフランスのブドウ酒に関税はかけられていなかったが ― ロンドン港で6,828トンのブドウ酒が輸入され、火酒はまだ寡少だった。1664年の聖ミカエル祭から1669年の同祭日(イギリス側の報復関税の設置)まで1万7千トンのブドウ酒と3千トンの火酒がロンドンに輸入された。1672年の聖ミカエル祭から1674年の同祭日までフランスからロンドン港に2万2,500トンのブドウ酒が輸入された。1671年の聖ミカエル祭から1673年の同祭日まで7,315トンの火酒が、そして、1673年~1674年では5千トンの火酒がそれぞれ輸入された。

 こうしてイギリスの報復策は完全に失敗に帰し、本来的に輸出を止めるべき使命を帯びた策が却って輸出を促す結果となった。しかし、それらアルコール類の価格は明らかに、重い税金の影響のもとに屈服するはずだった。もともと(関税がないゆえの)低価格が消費を刺激していたが、価格は税率上昇を受け、消費は増える一方で価格のほうも上昇した。1667年の重課税の翌年におけるラングドックのブドウ酒は47エキュを支払ってようやく1樽にありつけた。p.385

 1668年  47エキュ

 1669   54

 1670       53

 1671       55

 1672       50

 1673       56

  つづく1674年になると、これら同一のブドウ酒は70エキュもした。そして白ブドウ酒のすべての品質はそれらが1667年の価格の2倍にも跳ね上がった。

 かくて、わが国のブドウ酒と火酒に対するイギリスの報復課税はイギリス側に価格上昇と消費量の増大をもたらす結果となった。したがって、コルベールが情熱を燃やして高関税策に固執しただけに、この頃のイギリス人はわれわれから以前より多量の物資を受け取ったことになる。概算によれば、絹・亜麻布の輸出高は年々80万リーヴルに上ったが、イギリスからの輸入高は8万5千に達していない。イギリスの生産者たちはフランス側の輸入額を9万リーヴルにも達していないと思う一方で、わが国の生産者たちはイギリスへの輸出高は32万リーヴルを超えたと捉えていた。コルベールにとってこうした数値は彼の政治経済学の勝利を告げるものだった。わが国からイギリスにもち込まれる輸出高とイギリスからわが国への輸入高の相違を見て、コルベールは貿易差額制度の例を悟ったのだ。p.386 一方、1667年制定の関税が通商関係におけるある事実 ― その複雑さが将来的にあらゆる関税の高率を混乱させるはずだが ― を惹き起こし、ヨーロッパの君主間で取り交わされた密輸入を誘い込むであろうという雰囲気に彼は気づいていなかった。或る商人の述懐によれば、同じころ、わが国のマニュファクチュアにとって非常に有害なイギリス人の密輸入好みの性向や、コルベール体制がこのような乱れに導くことをすでに見抜いていた。

 対オランダ貿易はどうか。オランダの場合は1667年の高税率によりイギリスより遥かに大きな重税を課され、その影響は深刻だった。特に、オランダへの輸出貿易に適用されたため、オランダは以下のような物品を世界中に拡散すべくフランスから輸入していた。つまり、ブドウ酒、火酒、酢、塩、クリ、木炭、板ガラス、ガラス食器、乾燥子牛革、ビロード、サテン、金銀混紡毛織物、リボン、レース、飾り紐、ボタン、編み紐、帽子、羽毛、肩革、平籠、鏡、マスク、針、ピン、金物、リンネル類、亜麻布、マットレス、ベッド、時計、腕時計、手袋、羊毛、生糸、紙、櫛、掛布団、サフラン粉、石鹸、蜂蜜、アーモンド、オリーヴ、洋風鳥草つぼみ、プラム等々。

 トン税交渉で優れた手腕を発揮したフランスの高名な外交官ド・ポンポンヌの算定によれば、オランダが毎年フランスからもち出す産物の総額を3千万リーヴル以上と見積もった。p.387  1662年の条約のために、オランダ人はわが国に魚油や鯨髭を除いて、あらゆる商業物資を自由にもち込むことができた。1664年の関税がすでに彼らの不満を刺激していた。つづく1667年の高関税は彼らのあいだで恐ろしい噂を拡げた。しかし、彼らの抗議はコルベールの頑強な姿勢を前にして圧し潰されてしまう。彼の目論見はオランダの中継ぎ貿易を破滅に追い込むことであり、その手段が1667年の関税であったのだ。

 ヨーロッパで比肩するものがないほどに豊かで栄華の最中にあったアムステルダムはスペイン艦隊より遥かに強大な海軍を保持し、アントウェルペンにつづく海路を封鎖することによってのみ、そして、インド洋、バルト海沿岸、全世界で営まれる商業をすべて引き寄せることによってのみ、こうした高度な繁栄を築いた。アムステルダムはこのような優越を保持し、この町だけでほとんどすべての国の決議を動揺させ、世界の7分の1から8分の1の貿易を独占した。1648年の蘭・西の間に締結された講和条約の第14条により、オランダは、エスコ―川を通じてであれ、他の運河を通じてであれ、スペイン王またはその臣民の船舶はアントウェルペンとのあらゆる通商を抑止する権限を得た。しかし、このような妨害はスペインに差し向けられたものであって、フランス人に対しては適用されなかった。ところで、アントウェルペンの船荷輸送および船舶の接岸はアムステルダムよりも便利であったため、オランダ人はそこの通商が己の手を離れてフランス人およびフランドル人の手に渡るのを見るか、p.388 あるいはフランスとの間でより有利な条件で妥協を図るか、どちらかの危険を冒さねばならなかった。問題はそのどちらのケースも一筋縄ではいかない難しさをかかえていた。オランダは歩み寄りをしきりに求めたが、コルベールのほうは1667年の高税率を弛めるのに同意するどころか、オランダ人からバルト海貿易を奪い取ることを求めていた。交渉の決裂は目に見えていた。財務長官はそれを懼れるどころか、決裂を早めることのほうを望んでいた。

 フランスのブドウ酒の税率アップがもたらす脅威についていえば、イギリスにはさほどの威嚇にはならなかったが、オランダ人にとってはさらに無駄だったように思われる。1667年3月21日付のコルベールによるオランダ駐在大使ド・ポンポンヌ(De Pomponne)宛ての返信にはこう書き記されている。 〔書簡原文 … 略 …〕

p.389  同じ頃、コルベールはオランダ人に対抗してポルトガルとの同盟締結問題に没頭していたが、そのわけはオランダ貿易およびオランダ海軍と対抗する戦争を有利にとり運ぼうとしたのだ。… インドに多くの財産があったのか? ゴア、ジャワ、その他幾つかの島はほとんど頭になかった。よって、それらの地域の財産はシナにまで商圏を拡げていたオランダ人の手中に落ちることになった。p.390

 ポルトガルとイギリスが参画することを拒否した当のよき施策はフランスが孤立を恐れたため数年間延期されたが、1672年についにそれは対オランダ戦争として炸裂した。オランダ人の絶望的な行為は … 極めて切迫しているかのように見えた破滅を免れた。嵐の後に勇気がふたたび戻ってきた。1678年に征服王ことルイ十四世から征服地の返還と1667年の関税率の廃止を勝ちえた。この時からコルベールの死去にいたるまで、1664年の関税のみが適用されることになった。

 

4.この廃案に関するコルベールの見解

 ナイメーヘンの講和により集結したこの記念すべき戦闘が関税戦争ではないことにやや疑点が残るとしても、p.391 そのような疑点はオランダ人が課した条件の性格によって一掃されることになろう。ルイ征服王はオランダを一時的にせよ、彼の征服地に編入した。・・・ 戦争の原因としての1667年の高税率の埋め合わせとして、少なくともこれを約定とするために、王の軍事的脅威の記念碑としてそれは残らなかったか? 恐るべき隣人としての付きあいの危惧があったにもかかわらず、オランダ人はその征服地スペインの併合に同意したが、しかし、1667年関税の撤廃を強く要求した。したがって、ナイメーヘン条約で犠牲にされたのはコルベールの政治経済学のほうだった。保護制度に関しわれわれが知悉しているところでは、これは最初の失敗だった。・・・ コルベールはこの不幸をけっして諦めることなく、1681年にルイ十四世に宛てた覚書の中で、自分がおこなった2つの関税制定の支配的原理を自慢気に述べたあと、… その長所を挙げる。

 「外国製品には1664年の関税が定める税率を適用されなければなりません。」「1667年の関税により税率を上げる必要があります。」

 そして、彼は1667年の関税の廃止について慨嘆する。「1667年の関税がもし再制定されるならば、それは国王の臣下にとって多大なる恩恵を与えるでありましょう。」 

 結論において彼はこの関税の再制定にまたも言及する。

 「陛下 … もし可能であれば、私の希望は1667年の関税を再制定することであります。」

 これは商事一切をコルベールから引き継いだルーヴォアの意見でもあった。p.392  そして、われわれは成功を記した幾つかの政策が上首尾の成果を挙げたのを見る。

 

5.1671年の関税率

 コルベール関税政策に関する長ったらしい目録(nomenclature)とその歴史を完璧なものに仕上げるにはピレネー条約とエクス=ラ=シャペル(Aix-la-Chapelle)条約でフランスへの土地割譲事件でなされた1671年の関税にふれるだけで十分であろう。1671年の関税は上記条約により割譲された諸国、つまりフランドル、エノー(Hainault)、アルトワに対してのみ適用され、その税率は総じて商品価格の総額の5%と定められた。