F. ジュブロー「コルベール研究」(11) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

第4章のつづき

 

3.カンパニー商業

 財務長官に対して少なからず光栄ある一致によってわれわれはコルベールの名前以前に彼の名前をカンパニー設立の中に見出す。しかし、いつものことながら、ある者の手を通しての素描にすぎないものは他の者の手を経て完成され、政府の制度と相呼応して築かれていく。

 工業制度に関してわれわれが提起してきた同じ問題がここでも提起される。カンパニーの設立はわが国の植民地で追跡されうる商業組織の優れた形態であろうか? 排他的なものから出発すべきか? 逆に、自由はより豊かで、より正当なものであったのか? ルイ十四世の時代よりのちの世紀の大多数の著者は皆カンパニーの設立を非難する点で一致を見る。だが、われわれは彼らとはこの点で意見を異にする。この見解の相違はその問題を支配する諸原理を克明に評価せよ、という義務をわれわれに課す。カンパニー設立に賛同する主要な議論は以下のとおりだ。① 資力がつねに脆弱であること。… 内外商業について自由はつねに排除を好む。というのは、最も富める者とて世界全体以上に富裕であることはないことを免れないからだ。p.344 ② 活動性の欠如。あらゆる排他的商業に付きものの無関心。… ③瓦解の反響。…

 これら諸点の考察は確かに重要であり、その重要性をうち消そうとまではわれわれは考えていない。しかしながら、決定的な反論は可能だとわれわれは信じる。つまり、それはこうだ。上記の事がらにおける誤謬の原因は … コルベール体系を判断するにあたってその非難者は後世に目を移すことなく、17世紀のみに留まっている事実のうちにある。コルベールはオランダの独占の片意地さと暴力に対しかつて勝利を収めた指導者であったのか? 排他的特権を有するカンパニーに頼って非常に長期間の商業を続けるという誤謬である。このような認可は類似したものを導く。つまり、このような認可なくして商業を始めよ、という妄想である。カンパニーの特権に固執することは偏狭な歩みを放置するに等しい。… したがって、コルベールの方法ついては、それ自体として信用、逞しさ、大胆不敵な発展を抑えつけるという直接の効果につながるといえる。だが、彼が生じさせた害悪を理解していない、これは重大な誤りである。彼が外国貿易の創設について非常に疑わしく、重要な成功を決定する支持力をカンパニー組織に与えなかったとしても、いったい彼に対し激しく非難する理由があるのか? 最初の行動を支えることなく、これに反して外国貿易をその揺籃中で産着のままに放置したことを以て当人を正当に非難したことになるのか? その問題についていえば、まったく実行しないよりは、悪くても実行したほうがよかった。p.345  無為からは何も生じない。一方、行動面の誤謬は正される可能性をもつ。すなわち、原理において不幸だったコルベールの誤謬は国民的才覚を対外貿易の企図に導くことによって豊かなものとして結実するはずだ。しかし、その結果は原因を伴って終わり、保護は弱点を伴って終わる。排他的権利は競争のために、それが海軍の中に行動の安全とあらゆる手段を見出すや否や、権利は譲渡されなければならない。だが、当初は状況がその制度を不可欠のものとした。

 今日、海は掃き清められて海賊から安全である。今日、各国海軍はその国旗のために暴力的な行為を危惧しており、われわれは安心して大航海することができる。…

p.346 … カンパニーの支援なくして対外貿易での成功は覚束ない。これは熱狂や模倣のレベルの問題ではなく、純然たる信念の問題である。カンパニーを外れてなされた試みの不成功によって彼らが告白する意見がある。p.347  … フランソワ一世は1537年と1543年の宣言により東インド商業を奨励したが、その資力に応じてなす行動の自由を与え、排他的特権は与えなかった。ポルトガル人およびスペイン人との競争に敗れ、この遠隔地での企画と危険に自ら参画した数少ない商人は、強力に組織されたカンパニーに接近する以外の機会をもたなかった。しかしながら、カンパニーがその船員数と選択により十分な国家の海軍 ― それの創設は必然的に商船隊の組織化をもたらすが ― の支持力をもたないかぎり、カンパニーさえも危なっかしい存在となる。ジラール(Girard)は1604年、アンリ四世にカンパニー設立計画を提出し受容された。彼は1611年、ルイ十三世からインド会社の資格で特認状を受け取った。この計画に引きつづき、1626年にサン=クリストフ・カンパニー、1628年にカナダおよび新フランス・カンパニー、1637年にマダガスカル・カンパニーとなった。1642年には名前を変えてオリエント・カンパニーとなった。1651年にはシナ、コーチシナ、トンキンおよび近隣諸島カンパニーなどが続々と設立された。これらすべての計画は不幸なことに名称だけが違うだけで中身はほぼ同じである。成功もたまにはあったが、時間の経過とともにこれらのカンパニーはすべて不振に陥るか、解散の憂き目に遭うかして次々と姿を消した。

 コルベールは試行の手始めとして推薦を決めた。しかし、以前の失敗を有効に活かすために彼は一般的条件を変更することで新しいカンパニーの成功をめざした。p.348  トン税は魔法をかけたかのように、海軍の創設につながった。活気を増したブレストとトゥーロンの港、わが国のすべての海岸、特に造船業が創建されたノルマンディ海岸は彼の計画に容易に活用できる機会を提供した。1663年2月23日、彼はアメリカ農場カンパニーのすべての所有物を購入させ、西インド会社の設立を思い立った。設立するにあたって彼が与えた理由はこうである。すなわち、植民地と航海は唯一かつ真正なる商業繁栄のための手段であるゆえに未来を安心させるため過去を説明しなければならない。買い戻された土地の譲受人が成功を収めなかったのは、彼が海軍をもたなかったからである。1628年、カナダはカナダで、1642年のアメリカの土地の譲受人は植民地の発展に専心せず、自分の土地を外国人に売却することに熱心だった。これはむろん譲渡の目的に逆行するものであったが、コルベールの希望と計画の観点からいえば、カイエンヌ、アマゾン川からオリノコ川にいたるまでのアメリカ農場、カナダ、アカディア、ニューファンドランド、カナダ北部からヴァージニア、フロリダに到るまでのすべての海岸、その他の諸島と農地を含んでいた。

 西インド会社への入会は貴族にとって爵位剥奪を伴うことなく、また特権を奪うことなくできた。p.349  1664年6月1日以降、4か月のあいだすべてのフランス人と外国人に対し3千リーヴル以上の出資の用意ある者は、西インドに関心をもつという条件で入会が認められた。これにもランク差がある。

・1万~2万リーヴルの出資者はフランス人・外国人の区別なく総会への参加権と議決権

・2万リーヴル以上の出資者は、支配人に選出される資格

・20万リーヴルの出資者は、当人の居住する王国内の諸都市でブルジョアの諸権利

 西インド会社に上記の額を出資した外国人はフランスに在住しているかぎり、帰化人になることができた。20歳以上の生粋のフランス人とその両親はフランス国内で彼らの財産を引き継ぐことを許された。こうした便宜のほかに国家は利子を負担した。

 カンパニーの総司令部がパリに設立された。この本部はカンパニーが選出した9人の総支配人(directeurs généreux)― うち少なくとも3人は商人 ― から構成された。毎年、カンパニー総会が開かれ、その場でカンパニーの全体の問題を討議した。

 航海と同じく商業についてのカンパニーのもつ特権は40年間と定められ、これに違反した者は船舶と商品が没収され、利害関係者のあいだで分配された。しかし、漁業の自由はすべて開放されたままである。フランスの港からフランスの植民地に運ばれた商品についてはそれが港に着いた時点でトン当たり30リーヴルの奨励金が、p.350  植民地からフランスへ運ばれた商品についてはトン当たり40リーヴルの奨励金が付与された。フランスの植民地から外国へ送られる商品は輸入税が免除されるが、そのカンパニーがそれらを外国へ移送する場合はあらゆる輸出税が免除された。同じような免税は、カンパニーによって設立された現地の精製工場で砂糖精製がなされる場合に、そして、フランス国内で精製された砂糖についてもそれらがフランス国籍の船で輸出される場合に適用された。

 弾薬・食糧・カンパニーの消費に必要なすべての物資、船舶の武装に必要な物もあらゆる税を免除された。つまり、カンパニーがフランスで建造する船舶の建造のために外国から輸入するすべての物資も同様の措置を受けた。

 カンパニーが征服し、住むすべての土地は1642年にカンパニーが譲渡することに同意した場合、利益となるように所有権と領有権を払い戻すという条件であらゆる所有権と領主権がカンパニーに与えられた。最後に、国王はすべての権限をカンパニーに与えたが、その象徴が30マルクの重さの金製の王冠だが、その授与の代価としての臣従の誓いは留保した。もし以前のカンパニーが幾つかの権利を要求していたならば、国王はその授与に賛同したはずである。カンパニーは、カンパニーが有用と見なしたサンス、ラント、領主権などを売却する権限をもっていた。そして、開くべき鉱山、溶かすべき大砲のためにカンパニーは国王から慣行にもとづき権限を譲り受ける必要があった。会社の船舶 ― 会社は必要なだけの数を建造し、好きなだけの武装を施した ― は国王の利益のためや、戦時においては国王の同意を得ることなく船舶を利用できなかった。p.351 船舶が拿捕された場合、カンパニーは唯一の所有者として処理しなければならなかった。カンパニーはその隣人と攻守同盟を締結し、戦争を宣言し、軍事的手段に訴えて彼らを追撃し、あるいは彼らから身を守ることができた。攻撃の場合、国王はその費用の援助に加わった。カンパニーにより承認された裁判官が裁判する場合はパリの法慣習に倣わねばならなかった。カンパニーの租界地で身を立てようとするすべての者に対しては、当人がフランス国内にいるのと同じ自由と権利が与えられ、こうした恩恵は彼らの子弟およびカトリックに改宗した原住民にも与えられた。10年間、当地で仕事をした職人は彼らが好むフランスの都市で親方として身を立てることができた。

 特権の期限満了となり、それがもはや更新されない場合、カンパニーのすべての土地と征服地、動産・不動産の別を問わずあらゆる財産は例外なくカンパニーに帰属するものとされ、その土地を外国人に売却する際は国王の許可を取りつけるという条件で会社の好きなように処分できる能力が与えられた。

  最後に、国王は4年間、カンパニーの出資額の10分の1を提供する約束をしたが、その期限の満了後となると、カンパニーは利子なしで前貸し資本を国王に返済しなければならなかった。正当な事由による損失がある場合はその総額はさらなる4年間無利子でカンパニーの手に委任できない以上は国王金庫に返納しなければならなかった。8年経って損失額が証明されると、カンパニーは国王の前貸し金から損失額を控除することができた。

 1664年8月の東インド会社が設立されたのも西インド会社を模したものである。しかし、この会社はさして熱意をもって支えられなかったが、業態については派手派手しく報告された。p.352 同社はオランダ東インド会社に対抗して設置された。おそらくこの騒動は予測された諸困難に応じて生起したであろう。すなわち、そうした諸困難はじっさい極端であり、コルベール以外のすべての者を落胆させた。西インド会社は正確にいうと、創設されたというよりは再建されたといったほうがよい。農地会社によって設立された施設は西インド会社に移された。

一方、東インド会社の施設はすべて新たに作られたものである。このような困難は一つでもなければ、また、数多いものでもなかった。1602年3月オランダ東インド会社が創設され、20年間この国における交易の特権を保持した。同オランダ東インド会社に投下された資本はわが国の貨幣換算で792万リーヴルに相当し、1605年以降、投資家は15%の配当を取得し、1606年には75%を取得した。つまり、これら両年の利潤によって彼らは資本の90%をとり戻したことになる。艤装、船舶の建造、その他の出費にもかかわらず、1602年、4千リーヴルの投資者は1613年には10,400リーヴルの利潤を得ても同社は株総額を維持したままであった。1661年、株主は40%の利益を獲得し、1663年には30%を得た。特権の更改時となると、同社は共和国に多額の恩賜を提供し、その総額は1643年には160万リーヴルになった。しかも、同社は8千人以上もの従業員を扶養していた。もし同社がなければ、それだけの人数を国家が面倒をみなければならなくなるのだ。したがって、あれほどに富裕で繁栄した、そして、強力につくられた、p.353 さらに非常に長きに亘って信用・関心・交易を維持したカンパニーの中に手強い競争相手を見出すのは当然に予想されたことだった。

 オランダの株主は平均して出資額の30~35%の配当を受け取り、彼らはしだいにヨーロッパ中で最高の金持ちになり、貨幣は彼らから見れば極めて溢れたものとなったため、土地の基金は世界中に例のないほどの高価格で売られた。例えば、封土としてのある土地は60分の1の利率で支払われ、平民階級の土地は50分の1の利子を支払われた。そして、貸し出された資金は30%だけの利潤をあげるだけとなり、ここから、資本の過剰状態は利子率を非常に低く保った。こうした繁栄はどこから来るものなのか? 彼らの菜園・牧場・土地の産物からか? オランダは小麦もブドウ酒もまったく産出しなかった。オランダはあらゆる物資から潤沢を確保した。オランダはこの潤沢をその商業、特に東インド貿易に負っている。その証拠は何? オランダに輸入されるあらゆる商品は6%の輸出税と2%の送り状を支払い、輸送料を含めて12%の利益を挙げた。このような条件下においてオランダがその富によってヨーロッパ最高の強国になったことに驚くべきであろうか? この偉大さに最も貢献したのはだれか? その財産の主要な負担を賄ったのはだれか? フランスはフランス単独でその輸入量の3分の1を消費した。しかし、フランスはこの外国人の発展のための奉仕 ― フランスの利益を凌駕し、その自己愛を技セにしてまで ― を継続するだろうか? 何だって! フランスは海軍を創設したばかりであり、冷静にオランダの東インドに向けての航海のために800トンから400トンの25~26隻の船舶の艤装を毎年見ているのだ。p.354 … したがって、われわれが自助努力によってなす利益や利潤をなぜ諦めねばならないのか? 彼らは対インド通商に従事する唯一の国民であるのか? イギリス人、ポルトガル人、デンマーク人もそこで彼らと同じように貿易をおこなっている。フランス人だけがそこで何も所有せず、また、そこへ赴かないというのか? コルベールの勧告を受けてフランス国民を大臣の計画のほうに振り向けさせる仕事を請け負った作家は、多くの対照法を用いてこの問題と取り組んだ。しかし、以上が根本的に的確であったため、その問題は形式の主張に打ち勝った。わが港、わが船、わが経験豊かな水夫、わが勇猛な兵士は、もしわれわれが多くの長所に恵まれていることを知りながら敢えて実施しないのなら、いったい何の役に立つというのか? フランス人、すなわちヨーロッパ最高の君主の臣民たちは他国民が身を立てたところで、自己の権利の主張をためらうのであろうか? 決断の欠如に甘んじるよりは力の欠如のほうがまだマシだ。なぜなら、決断力の欠如は単に蔑めばすむ問題であるのに対し、無能力はいいわけを必須とするからだ。われわれの競争相手はこれらの富裕国家に接近しつつある。…