F. ジュブロー「コルベール研究」(10) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

 F.   ジュブロー「コルベール研究」(10)

 

p.333

第4章  外国との通商

1.保護制度の諸原理

2.トン税

3.カンパニー商業

4.コルベール執政の末期における問題状況

 

1.保護制度の諸原理

 国内商業が政策立案の俎上に上ったとき、コルベールが成功の前提と見なした締め出し政策(exclusion)が外国貿易制度 ― それなくしてフランスには進歩もなければ繁栄もない ― の大部分を占める。締め出し政策はもはや前提ではなくて、ひとつの法律であった。そして、もはや戒律ではなくて、商業が富裕をもたらす国民により相互間で告白されるひとつの信仰であった。ヨーロッパの最初の商人としてのヴェネチア人とジェノヴァ人に由来するドグマがこれら勤勉な共和国の最後の代表格オランダ人に到達したのだが、今度この教会に入るのはフランスの番であった。

 ヴェネチア人を駆逐した後にポルトガル人がスペインを威嚇しなかったのは、これら列強の各々が別々のもくろみをもっていたからだ。すなわち、アメリカとインドはこれら2国民が互いに野心を募らせるにはあまりにも広大な舞台であり、ローマ教皇による裁定を尊重すればこそ、領土について取り決められた境界の内部に彼らはとどまることになった。p.334 この神聖な裁定に導かれたこの境界内での偉大な行動、取り決められた法の遵守という精神は最も輝かしい勝利のひとつであると同時に、最も優れた権威の治績のひとつでもある。スペインの財宝に対し猜疑心または無関心により自重の道を選んだフランスはイタリア遠征以来、宗教戦争の内乱に巻き込まれ、アンリ四世が就任してのち漸くこれら列強との決闘場に姿を現わす。フランスはなおまだ嫉妬心というよりはむしろ怨恨に駆り立てられて武器を執ったのだ。つまり、フランスはスペインを挫くことを考えたが、海運帝国と争いたいとは考えなかった。シュリーは首相に書き送っている。「私が今のところ思うのは、スペインの威信の基礎としての東西インドを支配している、と私が考えるスペインの心臓と内臓を撃破する必要があります。」

  アンリ四世の大臣が敢えて挑戦しようとしなかったこの役割についてオランダは最も輝かしい成功をもって果たすべく、労働の忍耐の頑張り強さによって存分に力を発揮した。スペインからの独立を力づくで奪い取ったのち、p.335  オランダはアントウェルペンで海上交通を遮断し、バルト海で艦隊を保持することによりヨーロッパにおけるスペインを破滅させ、ポルトガルの艦隊を撃破してあらゆる通商を引き寄せ、それを自己薬籠中のものとした。オランダ人は18世紀後半に海上を制覇した。当時の彼らは、今日のイギリス人が世界中の供給者であるのと同じ役割を演じることになった。

 このようにスペインの前にはヴェネチアが、スペインの後にはオランダが力・富・繁栄を自らに課したが、こうした繁栄は永続した。これらが同時に生起したとは考えにくい。… したがって、これは嫉妬心に基づく争闘を求めるのではなく、社会法の位置にまで昇った継承関係でと見るべきである。富裕になるための唯一の手段は他者を滅ぼすことであり、コルベールが差し向けるあらゆる問題はただ一つの回答、すなわち、フランスの隆盛の出発点としてオランダを破滅させねばならないとの回答だった。これは商業的支配に適用された「カルタゴ滅ぶべしCarthago delenda est」である。排除(exclusion)・独占(monopole)・特権(privilége)この決まり文句と戒律の三位一体はあらゆる施設、あらゆる書簡、あらゆる方策、事実、理論のあらゆる処で見られるものであり、コルベール ― 彼が信奉する諸原理への確信は彼の会社が破産した後も生き永らえた ― は1681年に書いている。「利潤を譲渡させるためにはレヴァント、アフリカ、北方の商業に対して破産というかたちで訴訟手続きを終えなければならない。」p.336  ヴォルテールの誤謬は共犯者としてコルベールは強靭な確信をもち、コルベールの確信は歴史の証人に依拠する。しかし、オランダ海軍を壊滅状態に追い込むには、まず海軍を建設することから始めなければならなかった。

 

2.トン税

 リシュリューが華々しくかつ精力的に試みたため、わが国の海軍は当初こそ繁栄の兆をみせたが、やがてその運命は曲がり角にさしかかる。海軍設立のための偉大な審理はマザラン卿の執政末期に再開された。不成功に終わる。それはそれが真の領域に位置していなかったせいではないか? 先決問題つまり有名なトン税によって道を切り開くべきではないか? この税はわが国の港を訪れる外国船について船舶重量トン当たり50スーの税を課すことから成る。むろん、わが国の船舶は免除される。この策の由来を尋ねると、これはコルベールが最初に課した税ではない。その創設はフーケの執政にまで遡る。しかし、コルベールこそが極めて熱心にこれを取りあげ、実施に便宜を供したため、事実上、彼が創設したといってかまわない。

p.337  わが国の海運再建のためのあらゆる試みは空しいものに終わったはずだ。…

〔以下、トン税に関する条文説明 … 略 …〕

 三段以上の甲板をもつすべての船舶の存在および繁栄の条件となるのは商船隊の存在であり繁栄の前提でもある。遠洋航海は、沿岸航海の商業に使用される大多数の船舶をもつ国民によってのみ可能である。この仕事のために雇われる船員のなかにすばらしい水夫の温床が宿る。p.338 すなわち、おそらく彼らは小さな海軍の中で生活しながら、大海軍の一員となるだろう。じっさい、外国の艦隊はこの本質的な操作においてそうした大艦隊が数多くの小海運により補完されなければ、その船荷をどうして売り捌くというのか? これらの原理を無視したために2つの強国が繁栄のピークから滑り落ちた。ポルトガル人はリスボンをヨーロッパの倉庫とすることで満足する。彼らは世界で未曾有の海運大国となるのを望まなかった。同じような誤謬により、スペイン人もカディス港に製品やアメリカ産の食糧を集積するといった野心のレベルで立ち止まった。彼らは他国民に沿岸航海の気遣いと利益をすべて任せてしまった。われわれはオランダ人がどれだけか急いでその代役をつとめ、世界中に物資を供給する作業を引き受けたかを知っている。かくも華々しく、かくも上首尾に、かつ多くの利益をわがものとして、彼らは長い間、この昔の役割を演じつづけている。

 最初の東インド会社の没落を導くにいったまちがいをフ-ケは免れなかった。しかし、トン税を課し、フランス海軍の創設を可能とすることにより彼は大いにコルベールの使命に貢献することになった。さらに、彼は先任者と較べ、先見の明があったことに驚かされる。その歩みはすべて追跡された。その産業の発展、地理的特性などはフランスに、大艦隊を創設するという重要な責務を負わせなかったか? 明らかにただ産業上の成功にとどまることはとりもなおさず、その真正な目標を拒絶することにつながる。海岸の住民は海産物を愛好しているため、政府のこのような無関心を極めて辛辣に非難し、彼らは長い間、この国家的才覚の欠如に抗議し、母国が拒絶する仕事を求めて外国の艦隊に参加した。p.339 世論はしだいにこうした無頓着を克服し、輝かしい修正への道を整えていく。すなわち、あらゆる遷延はわが国の繁栄への侵害となる。わが国の製品と食糧の運搬という唯一の商業によりオランダがヨーロッパにおける第一級の海運大国にのし上がったとすれば、フランスはそれの無視によって犯した誤りを修正しなければならなかった。

 事態は、それがすべての者の関心を呼び覚ます地点にまで到達しており、輸送の必要性にせよ、住民の数にせよ、船舶の調和関係の違いは不愉快そのものであった。オランダ人はオランダだけで当時のヨーロッパにおける船舶総数2万隻中、1万5千から1万6千隻を保有しているのに対し、フランスは沿岸航海用の船舶を含め、辛うじて500隻を保有するにすぎない。

 あらゆる代価をはらってでも、このような劣勢を挽回しなければならなかった。いつものことながら、専ら手段が求められた。ここで出発点のおける熱意は論外である。それは利潤と必要性の二重の視点から直ちに正当化される。なぜ外国人に対してわが国の製品・食糧品の輸送の便宜を供するのか? わが国民以上に正しく着手するのはどの国民か? フランス人にこの利潤の方法を提供すること、それは借金を支払うことであるにしても、けっして簒奪を成就することではない。つまり、このことは自然的権利の行使であって、外国人に対する侵犯ではない。

 フロンドの乱が終結し、平穏状態が戻り、ルイ十四世の幼年執政の希望表明とともに未来の栄光と征服は容易に予見され、そのことは海軍創設の必要性 ― 道具または城砦、膨張または防禦、支配または安全の手段 ― を刺激する。p.340 もし海軍好みの風潮がフランスになかったとしても、大きな犠牲をはらってでもそれを創設する必要はあったであろう。したがって、それを無視することがどれほど罪深い行為であったことか? そこに計画があれば、ここに執行が引き受ける。海運に対するフランスのこの好みを成就するのを放置しておかないのが容易であれば、それを甦らすことはさらに困難であり、連続する2つの失敗はその仕事が大変な難事業であることを証明した。 大打撃を与え、断固とした措置を講じる必要がある。つまり、トン税はその交渉、その不平、ファン・ボイニンヘン(Van Beuningen)とボレール(Boreel)間の往復通信に見られる極めて効き目のある薬品であった。この政策を十分に理解するために…要求と実際の政策を対照する必要がある。海軍はフランスにとって欠くべからざる戦力である。他の手段で代替できるだろうか? 商業の自由はまだ事物の状態を変えていない。少なくとも商業の自由は、トン税が数年でやり遂げる革命を幾世紀もかかってやるのだ。オランダ人は優先権・経験・数において勝っており、したがって、態度・信頼・力は彼らに味方する。熟練の水兵は財務官に対しては不正な手段を講じる。… p.341 他方、手段の選択については無関心であるため、彼らは独占の維持のために彼らの名誉と同じほど簡単に彼らの利益を犠牲にした。彼らは競争相手をうち倒す手段として安値で販売する方法を案出した。彼らがわが国の北方会社に対して勝利を収めたのは、特にこの犠牲の方法を通じてである。このような条件のもとでたたかうことを引き受けることは一種の敗北の機会を引き受けるに等しかった。第一の義務は将来に備えることあり、将来に備える唯一の方法は過去を変えることである。遠ざけることによってのみうち勝つことができると思っている競争相手を前にしては、闘技場から遠ざけることから始める必要がある。理性が認めているように、この政策は事実によって最も争いがたい方法により自己を正当化する。イギリスは海洋法をつくり、そしてごく最近にいたるまで、この法律を維持してきた。その格率は一語一語1660年9月の有名な法律中に見出される。その敵はフランスにとってと同じように、イギリスにとっても同じものである。それはいつもオランダの商業である。イギリスにとってはオランダ排除の必要性はフランスにとってほどに緊要ではなかった。というのは、英海軍はわが国の海軍よりも非常に数が多いだけでなく、対オランダへの敵意は極大だった。こうした厳格さは事実によって正当化され、あるいは否認されるであろうか? ルイ十四世治下のわが国の海軍の勢威、今日の英海軍の優越はその有効性を証明する。わが海軍の以前の状態、インド会社の破産はその必要性と手段が効果あるのと同じ程度に絶対的であるという証拠となる。

p.342  トン税交渉に引き続く異なった局面を述べようとは思わない。われわれが呈示するのは歴史的言明ではない。… フーケの排除は必須だったかもしれないが、それはだしぬけの事件であった。つまり、推移を無駄にしてはならない事情があった。オランダ海運なしでわが国の交易が上首尾に進む時代はまだ来ていなかった。コルベールはそれを滅ぼすことを選んだほうがよかった。彼は助手となるのを懼れた。フランスとオランダの和親・同盟・通商条約(1662年4月27日、パリで調印)の条項は外交的手腕と経済的予見の鑑のような例である。第1条でトン税緩和がオランダに与えられたが、オランダは航海ごとに、そしてわが国の港を出港する時にのみこの税の支払いを強制された。第2条はこの税をフランス産の塩を積載し船舶については半分に減じることを規定する。当時のヨーロッパでポルトガル産の塩という競争相手がいたこの食品をフランスから仕入れる利益を保護したのである。第3条は、1662年条約の修正のもとでフランスに対するオランダ側の同一条件を惹き起こした場合、相互性を取り決めた。事物の力により、しかも体系的な抵抗にもかかわらず、わが国の海運の発展のための従順な道具としてのオランダは極めて効果的にその発展に値したため、1662年での手心は1667年にはもはや無用の長物となった。こうした力の増大の表明、この年の関税率は1664年の用語より高慢な用語を使う。

 われわれのみるところ、トン税の設置がなければフランス海軍の創設は不可能事であったことは否認する余地がない。p.343 コルベールが非常に好ましい実施をおこなったというこの真理の舞台裏での立役者はフーケであり、これを銘記しなければならない。