F. ジュブロー「コルベール研究」(12) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

 

第4章 3のつづき

 

p.355 東インド会社設立のこうした熱烈な賛辞はとどのつまり、以下のような結論にたどり着く。すなわち、インド貿易の根拠地としてサン=ローラン(Saint-Laurent)島またはマダガスカル島 ― ここにわれわれはすでに幾つかの施設をもっており、同島は周囲700リュ―以上あり、肥沃な土地にして気候は温和 ― を保有すべきである。この島を通してわれわれはインドの全域、シナ、日本に向かって放射線状に拡がることができるし、つごうよくエチオピア海岸沿いのアビシニア皇帝の領土(そこでの商業はほとんど知られていなかった)を通り、その全土のなかで最も豊かな金鉱の発見されたセフォラ(Séfola)、ガマ(Guama)、メリンド(Mélinde)、紅海、ペルシア湾へも足を伸ばすことができる。最後に、或る学者の話によると、マダガスカルは世界中で最も便利な倉庫であり、フランスのためにエルドラドの夢の世界を実現できるはずだという。この点でマダガスカルはバタヴィアに勝る商業的利点もつだけでなく、ヨーロッパのあらゆる果実、野菜、大豆等々が豊富にあった。米は3度収穫できる。ヨーロッパのあらゆる穀物、あらゆる家畜はそこでも飼育できるし、また、場合によっては繁生させることもできた。国民的な野心へのこの誘惑は学者シャルパンティエ(Charpentier)のレトリック以外のなにものでもなかったとしたら、だれ一人としてこの公表された計画に乗らなかったであろう。このように彼らの証言にもとづいて最初600万リーヴルと定められた会社の資本金は3年間に500万リーヴルの積み立てで1,500万リーヴルに達した。p.356  国王は毎年、その5分の3を負担すると約束した。この金額でもってマダガスカルに数多の植民者を移送するのに使われる800~1400トンの12~13隻の大型船が建造された。西インド会社に付与された40年の特権は東インド会社に対してはフランスから第一便が出航してのち50年間とされた。フランスから輸出される租界地向けの商品に対してはトン当たり50リーヴルという高額の奨励金が与えられ、これら植民地からフランスに輸入される商品についてはトン当たり75リーヴルが支給された。よって、植民地の整備に関する1664年10月26日に起案された規制法の諸条項があまりに厳しいと非難されたのはまちがいではないだろうか? 母国から植民地に送り込まれた植民者たちは国民中のエリートではなかった。つまり、彼らのモラル状態は厳罰制裁なしですますことができたであろうか? その問題がインドにおけるヨーロッパ人の植民史の前に的確に置かれたのであれば、その回答はコルベールの厳格さを正当化しなかったであろうことは疑う余地がない。以下に述べる規定があらゆる場合において賢明だという人は皆無であろう。すなわち、「植民地の原住民を奴隷として売却することや、それを利用して不当な利得を築くフランス人のすべてが彼らを迫害したり凌辱したりすることがないよう、人道的に取り扱うことが厳しく言い渡される。もし違反あった場合は体罰に処される。」周知のように、この問題に関しコルベールはいつもの慎重さのモノサシから遠く離れていなかった。しかし、未曾有の完全な失敗がより良心的な努力を伴った試しはない。

 1665年3月7日、520人を乗せた東インド会社の4隻の第一便はマダガスカルに向けて出帆し、7月10日に目的地に到着した。p.357  共通の希望の紐帯によりその植民地を母国に結びなおし、王国の繁栄と国王一族の心地よい愉しみを一つに束ねるため、ルイ十四世はマダガスカルの名を「神に感謝を捧げて」「王太子妃島île Dauphine」とした。

 この大仕事は植民地をフランス人で埋め尽くすことだった。だが、申し込みもなければ、その手だてもなかった。パリ中に拡がる貼り紙は街行く人々に、好むだけの土地を極めて安い税金を収めるだけでよく、何の義務もなしで貸し出すことを約束した。つまり、各植民者には運賃が只なうえに出航してから3か月間の食糧補給が保証され、こうしたあらゆる前払い金はカンパニーに供託された商品のかたちで返済すればよかったのだ。

 会社のデビューに関する詳細と当初の諸困難は、異なった資格をもつ2人の辣腕家の経験談が話題の核となっている。オランダ人カロン(Caron)はその敵手が言うところでは、同社を破産させる目的でのみ入社する機会を窺って、フランスに引き揚げた。そして、もうひとりのマルカラ(Marcara)は長い間インドで働いていたが、そこの言語や習慣に通じていた。p.358

 他の原因がないため、彼ら2人の確執不和は会社を破産させるのにほとんど十分だった。おそらくこの会社の急激な衰退について他の説明を探すのは無駄であっただろう。オランダの圧倒的優越やオランダ人との競争という危機に直面し、東インド会社は設立者の団結・統一・倹約によってのみ成功を期すことができたのだが、これらの要素は同社にまったく欠いていた。ともかく、マルカラの覚書 ― 非常に重要な史料だが ― が残されている。同史料によると、マルカラが非常に努力したこと、オランダ側からの多種多様な妨害に直面したことが記されている。スラート(Surate)に海外支店を設置したのち、彼はマスリパタム(Masulipatum)にもう一つの支店の設置を許可したゴルコンド(Golconde)王の恩寵をどうにかこうにか得ることができた。長年、その成功に嫉妬を覚えたオランダ人はあらゆる種の陰謀を通じて、マルカラがサン=トメ(Saint-Thome)で結んだ関係を裏切り、彼らの習慣に従って、この会社の設立の原理を正当化しようとしたわが国の代表を暗殺するまでした。このような危険、このような暴力もマルカラを落胆させなかった。しかし、マルカラの熱意はこれら障碍に抗してたたかい、襲い掛かる危機に精いっぱい抵抗したが、最終的には徒労に終わる。会社の繁栄は彼の努力に報いることはなかった。1668年9月21日、すでに200万リーヴルを出資していた国王はさらに418万リーヴルを出した。p.359  これは、この金額の最初の10年間に同社が証明した全損失額の全体の埋め合わせとして使うものだった。暫くして茨の道に入り込み、株主に対してその出資額の3分の2のうち、最初の3分の1を放棄することで同社から手を引くことができるとの条件付きで強制的に支払わせる必要があった。この「強制」という用語はいたる処でパニックを惹き起こし、それがますます大きくなったため、政府は株主にとって耳障りな表現から利害関係者を安堵させる必要を感じた。というのも、株主の大部分はむりに勧誘され、命令または人類愛の名において参画したからである。「強制」が消されたばかりでなく、支配人は、敢えて「強制」を語る者はすべて1万リーヴルの罰金と損害賠償金を課すと宣言した。カンパニーからの新規の配当金もこの不穏な動きを抑えることができなかった。インドはすべて混乱と無秩序に巻き込まれた。そして、その出口は浪費から始まった破産への道に繋がった。害悪の原因を探り当てるためのアンケートは以下のことを明らかにする。

 ①カンパニーの顧問はパリで植民地長官との間で交わされた契約を無視し、マダガスカルで同社に支払いの保証なしに植民者の維持費や食糧の負担を負いこんだ。

 ② フランスで適正な基礎にもとづいて決められた事務員の指名が法外な出費を招いた。

 ③ 無償奉仕の条件で雇われた者に賃金が支払われた。

 ④ 国王の叙勲もなく、また、カンパニーが指名しないにもかかわらず、資格や称号が授与された。

 ⑤ 海軍の吏員や船員の手当が増額され、その一般的報酬を超えて被雇用者は特別の手当を受けた。

 ⑥ 植民地で貨幣が流通していたため、ほとんどの事務員や被雇用者は禁令を無視して商売に手を出し私利をはかった。p.360

 改革が必須となり、2つの措置が講じられた。その一つは、1670年12月12日の法令によってカンパニーの顧問会が廃止されたことである。第二は、1671年1月11日の特認状にもとづき、スラーテにマダガスカルの新たな顧問会が結成されたことだ。不幸なことに、このような刷新は制度面でもカンパニーの実務面でも何ら変化をもたらさなかった。そのほとんどがコルベール宛ての一連の資料は、彼の努力とこうした不祥事が相次いだことに由来する無駄な犠牲とを証拠づける。それでも彼は落胆することなく、絶望感に苛まれながらも、あらゆる強靭な人間がそうであるように、新たな闘志を燃やしつづけた。彼は忍び難きを忍びつつあらゆる処で新たな希望の光を探し求めた。オランダの成功に魅惑されていたため、彼は過去の惨状の原因を究明することによって未来の幻想をつくり上げようとした。万策尽きたため、彼は彼自身を誤らせる可能性のある別の種類の誘惑にわが身を委ねさえしている。1675年9月13日、株式の総額を支払った全関係者には10%の配当金を支払った。この配当金は第2,第3の3分の1の割当額を満たすために8千リーヴル以上を注ぎ込んだ株主の借入金から充てられた。他の者はこの配当に関わらなかった。しかし、こうした試みは他の試みと同じく、株主たちを満足させなかった。1676年、ほとんどの株主はその出資予定額を達成していなかった。国王が純粋な下賜金として、前貸し金をインド会社のために放棄すると宣言したが、それでも無駄だった。p.361  こうして同社は完全な不振状態に陥ってしまい、ついにその特権までも断念せざるをえないはめになった。1681年12月26日の法令と翌82年1月20日の法令により、東インド貿易は、運賃を支払って母国と東インドを往還するのに東インド会社の船舶を使用し、会社が設置した倉庫にその商品を販売するという条件ですべての者に開放された。

 極めて悲劇的なこの顚末はコルベールが設立した他のすべてのカンパニーに共通する運命となった。彼はより多くの気遣い・犠牲・偏愛の対象以外のなにものでもなかったため、会社の破産は最も重要な教訓を残した。そして、少なくともこの資格においてその原因を究明することが肝要である。われわれの見解では、これらの原因は一般的なものと特殊的なものに分けられる。つまり、一般的な原因は国民性にある。シュリーはオランダ駐在大使ジャナン(Jeannin)に書き送る。「われわれから離れた財産はフランス人の性格や頭脳に釣りあっていない。非常に残念なことに、フランス人はこのようなことに必要な忍耐心と先見の明をもたない。そして、フランス人はしだいに彼らにふれる物事の維持に対してのみ、彼らの活力、精神、勇気を発揮する。… 領土や海によってわが国から分離するようになったことはわれわれに大きな負担や小さな効用をかけない。」 p.362  早くもシュリーの時代においてこのような国民性についての評価が実証済みであるとするならば、いったいいかなる新しい力がわれわれをそれから分断した幾世紀もの歴史において求められようか! 第二の一般的原因は特権カンパニーによる貿易制度そのものに内在する。貿易の成功を保証する資質の最も精力的な刺激物は責任である。個人的な試みや私的な企図においてはその規則は活力・倹約・秩序である。カンパニーによる試みにおいてはその特性は「除外」である。すなわち、各人は手段に心を奪われることなく、富むことを求める。そして、「除外」が権限を与える濫用に応じてのみ関心をもつ企業から素早く手を引きたいと思う。個人企業はゆっくり形成される。それは慎重さ、使用すべき手段の慎重な処理と評判の気遣いを要する。これとは逆に、カンパニーにおいては個人がなしうる個人的財産は社会が生じさせる害悪に応じてそれが失われる。このようにして前者にも後者にも無頓着となるのだ。

 東インド会社の衰退の特殊な原因についていえば、それは以下のとおり。

 ① ルイ14世治世のほとんどを通してのイギリス、スペイン、オランダの覇権争い。こうした敵意の持続は古い施設に害悪を与え、確実にそれらを壊滅させる。

 ② 資金の欠乏。

p.363  ③ 国民性の相違。コルベールは、オランダ人の国民性、すなわち節度があり、厳正かつつつましい商人と、一般的に放蕩と浪費の傾向をもつフランス人との間にある風俗の相違を十分に考慮しなかった。もう一つの相違点つまり政府の違いは、有力な一族を競争相手国に雇われる代理人の出費に導いた。彼らの習慣を支配している簡素さをオランダ人は政治面で保護した。フランス人はこれとは正反対に、政治において私的な習俗の豪奢さのかたちで誇示する。したがって、カンパニーの幹部は資本の一部を浪費する。その結果はどうなるのか? 10%で取引される借入金、年間5~60%の利率で行き当たりばったりの借入金に依存せざるをえなくなる。このような負担にいかなる利益がもち堪えることができるのか?

 

p.364 【北方会社】 コルベ―ル立案の3番目の会社は北方会社である。その名称は財務長官の計画を存分に示している。東西インド会社は別の競争がすでに起きている舞台であり、そこでオランダの独占を攻撃した。北方会社はその独立の承認が長年、この共和主義国家に完全に自由に独占をほしいままにさせるのを許す領域において攻撃を開始した。すなわち、同社はこの独占と相対して獲得し、これをその領域にまで投げ返した。別の資格を欠いていたため、コルベールの企図に根気あるイニシアティブを与えるのを拒絶するのは可能だった。1669年7月に創設された北方会社は同年7月1日以降20年間の特権を付与されたが、同社はゼ―ラント、オランダ、スウェーデン、ノルウェー、モスクワ、その他交易できる領土と島と交易する目的をもった。1年のあいだすべてのフランス人と外国人に開かれていたので、同社は参加に同意したすべての貴族を貴族として扱った。株式は2千リーヴル以下ではなく、株主たちに彼らが思いつくかぎりの法規や規則を作る自由が与えられた。プレミアム率はカンパニーに輸出される火酒については1樽ごとに3リーヴル、他のすべての商品については輸出品および輸入品の別を問わず1トンごとに4リーヴルであった。同社は弾薬と食糧を自由に移出入する特権をもち、p.365 同社がフランスで艤装する船舶の建造のためにあらゆることをなす権限をもった。会社のために国の倉庫は開かれ、同社は要求された宣言に従い、その商品または輸送機関に対して免税での通過が許された。会社のための租界地、会社に開かれた市場は財務長官が新会社のために与えた価値であることを十分に示している。 〔以下、宣言の原文 … 略 … 〕

p.366  水夫に関する1条項 … はカンパニーに対して、その水夫の半数を外国人から選ぶ権限を与えた。彼らは6年間の勤務を終えたのち、フランス人となることができ、あらゆる帰化証明書を無料で入手できた。国王は同社に資本の3分の1を出資し、その出資分は会社の最初の6年間における会社がもたらす損失の補填に充てる予定であった。この前貸し金は無利子で損失引当分を控除したのち2年間で支払うという。前例に倣って国王は新会社を保護し、その輸送船団と帰還船団に護衛艦をつけた。

 コルベールはこの新会社についてオランダ人の動向に幻想を懐いていなかった。会社という究極の制度をつくる前に、彼はポナン(Ponant)の海軍提督コルベール・ド・テロン(Colbert de Terron)宛てに書簡を書いている。p.367「北方会社は有能な人の手に委ねられているが、しかし、同社は宿敵オランダ人を警戒している。」彼が予測した諸困難はいつものことながら彼の熱意を倍加し、この同じ政策において彼の要求も倍化させた。彼は国王の臣民がそれに先行するカンパニーに関心を寄せることで満足する。この会社のために彼はもっと遠くまで行き、強制手段を採用した。すなわち、課税と税金の道によってそれの結成に取りかかった。この問題についてボルドーからコルベール宛てに1669年7月5日付の手紙がここにある。〔原文 … 略 …〕

p.368

【セネガルおよびギニア会社】 1664年5月の西インド会社の設立よりずっと前の1621年に、同じ名称をもつ会社がヴェルト岬から喜望峰にいたるまでのアフリカ海岸、つまりセネガルとの交易を独占的におこなっていた。1664年、新西インド会社は、同社が植民地へもち込み、あるいはそこから運び出す商品についての税の半額減免、および設立のための勅令によって会社のために保証された商品についてトン当たり30~40スーの奨励金と引き換えに、会社に譲渡された免税の権利とともにセネガル貿易を独占させた。カンパニーはセネガルにおいてフェルマネル(Fermanel)という名の植民者から居住地を得たが、会社のためになされたいかなる便益も、これを活用する術を知らなかった。それで、参事会は一時期、会社がもつ広範囲で、かつ無駄な特権の一部を保留することを決定した。1673年、エグロー(Egrot)、フランソワ(François)、ラグネー(Ragunet)らは西インド会社からセネガル、ヴェルト岬およびガンビ川を含む周辺地域の利権と租界を30年間 ― 西インド会社は40年間の期限を与えられていた ― を買い取った。売り手たちはフェルマネルの居住地にいる黒人を売ることを失念し、ラグネーの会社は9100頭の皮革、1万2千ペーザンのゴム、しめて7万5千リーヴルを保有した。譲渡人は30年後にかれらが譲ったすべてのものを買い戻さねばならなかったが、カンパニーは1674年に開放され、p.369  その財産は国王の所管に移され、西インド貿易は全フランス人に対し開放された。

 1675年10月13日、西インド会社の領地の支配人はこの領地の徴税請負人ジャン・ウディエット(Jean Oudiette)と契約を交わし、これによって4年間毎年、アメリカのフランス諸島に少なくとも2千人の黒人を1人当たり13リーヴルの手当を得て送り込まなければならなかった。 … p.370  しかし、彼はこの契約を履行しなかったし、奴隷不足のせいで耕作地が荒れ果てたため、セネガル会社を頼らざるをえなくなった。ジャン・ウディエットと交わされた約束は1679年3月の法令により破棄され、ギニアから喜望峰にいたるまですべての海岸に亘る黒人奴隷貿易が全面禁止され、彼が受けていた手当はログネーの会社に譲渡された。さらに、アフリカと同じく、アメリカにおいても黒人売却に由来する税の半分は減免された。しかしながら、1681年、生じた損失と出費のために破産したこの会社は操業不能となり、手を引かざるをえなかった。いかなる破産も、フランスでは誤った計画、まちがった原理の結果として代表させる代わりに、それを突発的事件のせいにする説明でのみ許された。… この会社の没落の原因は、それがかつて結成された当時の戦争にあった。それでもコルベールこれで退くことなく辛抱強く1681年7月2日、新たなセネガル会社をつくり、セネガルとギニア貿易に当たらせたが、つづいてブラン(Blanc)川からシエラ=レオーネ(Sierra Leone)川までの部族国家との通商に限った。しかし、この新ギニア会社と同じく、新セネガル会社も長続きしなかった。