F. ジュブロー「コルベール研究」(9) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

第3章のつづき

 

p.321

第2節 マニュファクチュア

1.コルベールの諸原理

2.規制

3.この制度の評価と懸念

4.設立されたマニュファクチュア

 

1.コルベールの諸原理

 わが国でマニュファクチュアが繁栄した時代は少なくない。特にアンリ四世末期と彼の息子ルイ十三世の治世の初期がそれに該当する。ルイ十四世の幼年期における嵐は極端なカオス状態に、非常に大きな混乱に陥れたため、かつての繁栄はほとんどまったくといっていいほど影を潜めた。マニュファクチュアを再興するあたり、コルベールはそれらのマニュファクチュアが被った衰退の原因を考察したいと思った。ここに彼の説明が残されている。「王国内にかつて大々的に設立されたすべてのマニュファクチュアは完全に衰退してしまった。オランダ人やイギリス人は多種多様な策略を用いてそれらを自国に導入したため、わが国には今や単に絹織物マニュファクチュアが残っているだけである。いかに衰退したとはいえ、その産業は依然としてリヨンとトゥールに残存する。」コルベールはマニュファクチュアの再建により2つを狙っていた。すなわち、①国内産業を振興すること、②外国市場を征服すること、したがって、原材料を除き外国の製品を締めだすこと、フランス製品を外国に売却すること、言い換えれば、わが国のマニュファクチュアの繁栄を保護制度の原理のもとに置くことである。他のあらゆる問題と同じく、この問題に関しても特権を是認し、彼の計画を補完手段として特権を活用した。手工業組合からする抵抗に対しては、マニュファクチュアの創設に際してコルベールが追求したあらゆる手立てを駆使する。・・・ この制度は選択の支配者であるとしても、おそらく選びぬかれたものではなかった。しかし、状況の圧力は彼に拒絶する自由を与えなかった。p.322  フランスに新工場を設立するべく招聘される者の要求をしばしば受け入れ、彼らが心中で懐く恐怖心を和らげ、彼らの要求に妥協しなければならなかった。外国で繁栄しているマニュファクチュアをフランスに設立するという決心がついた以上は、保護制度という幻想と特権の罠を光らせることなくして、どうしてそれらをフランスに呼び寄せ、維持し、馴化させるというのか? じじつ、新産業が誕生した際にすぐさま周囲からの敵対行為が始まったが、繁栄に浴したいという希望によってフランスに引き寄せられた労働者たちは、もしコルベールが彼らが当然受けるべき特権への反対の処置法を予め準備していなければ、この種の新産業はまちがいなく破産していただろう。そして、労働者は競争相手が向ける嫉妬心と激しい競争の犠牲になったであろう。・・・

 特権の付与こそ、競争相手と同業者に対する武器であるとともに競争相手と労働者に対する武器でもあった。各産業がすでに一人前に育っている今日、それら産業の発展を伝えるのに、われわれがかつて父のような庇護者であったことを今や忘れている。われわれは、国家による実業教育の艱難を堪え忍んだ者に対し多くの便宜(徒弟奉公のための期間が免除されたこと)の効用を知っている。じじつ、産業の黎明期にあっては熟練労働者を養成するために、どれほどか前払いを必要としたことか! 徒弟が一人前の職人になる前に未熟な徒弟が台無しにしてしまう絹の多さ! 機械をつくり、それを維持し、操作し、修理するための費用の多額さ! 絶えざる心配とたえざる熱意による犠牲の力で、p.323  ライバルがより安く買いたたく欠陥品に対して、親方の安寧を保証する熟練労働者に取り囲まれる日が来るのはいつことになるか? 特権なくして裏切者を連れ戻すのにいかなる手段が必要なのか? 特権のみがこれら逃亡兵を野営キャンプに固定し、産業の軍旗のもとに彼らを引き留めることができるのだ。

多くの年月を経たとしても、今日の産業もかつては同じ制度にあったのではないか? われわれの発明特許状とは何か? それは近代的なひとつの名称のもとでなされたひとつの特権である。だれがそれを要求するのか? それは道理を弁えた人物である。なぜならば、発明特許状の廃止は産業における発展の死滅を意味するからだ。したがって、われわれはコルベールの諸原則をいまもなお保持している。その熱意の点でコルベールはわれわれよりも遥かに強力さをもち、それは熱意以外になにものでもない。注釈の施されていない(陳情書の)全集を読んでみよう。読者は頁をめくるごとに、外国のマニュファクチュア経営者がフランスにそれを創立するべく来訪したいという申出を、あるいはフランス人が招聘したいという申出を見ることだろう。

 

2.規制

 特権は必然的に規制を伴う。労働する権利が権力に依存するのであれば、権力者が己を労働の諸条件の支配者である見なすことは正当であろうか? p.324 1669年8月の有名な一般法規の由来はそこにある。同法はあらゆる種類の毛織物、サージ、カムロ、バラカン、ドロゲ、およびフランスで製造される他の羊毛製品の丈、幅、品質を定めた。そこから、あらゆる型のスペイン風(灰色・白色・混色)毛織物は1.5オーヌの幅をもち、1反の丈=21オーヌと定めた。また、エルブーフ(Elbeuf)の深緑色の毛織物、ロモランタン(Romorantin)、ブールジェ(Bourges)、エスダン(Iesoudun)、オビニー(Aubigny)、ヴィエルゾン(Vierzon)、サン=ジュヌー(Saint-Genoux)、ラン(Laon)、サルブリー(Salbry)、セニュレー(Seignelay)その他については1オーヌの幅、1反の丈=14~15オーヌをもつことになった。ベリー(Berry)およびソローニュ(Sologne)のサージ、シャロン(Châlons)、ランス(Reims)、シャルトル(Chartres)の毛織物は等しい幅をもち、各反の丈は両縁を含めて20~21オーヌと定められた。シャトールー(Châteauroux)の毛織物は両縁を含めて1オーヌ幅、1反の丈=10.5~11オーヌと定められた。1671年2月19日の国家参事会の法令は以下のとおり。高級毛織物は両縁を含め1.25幅をもち、並質毛織物は1オーヌごとに40~45スーの価値をもち、0.75幅、18~19オーヌの丈をもつこと。これら種々の織物はギルド監視員によって刻印されたうえ、それらが必要な強度、仕上がり、品質をもち、法律に従って染色されていることを確認したのちに国内で販売してもよいとされた。

 

3.この制度の評価と懸念

 産業の格付けはその実施において誤った思想を引き入れることになった。この思想はいつも執政者を誘惑する。p.325  秩序の熱狂者たちはその格付けの中に秩序を見出し、自然の外見をもつものの中に作為あると信じて疑わなかった。そこから人為的思想が押し寄せるのだ。すべてはカテゴリーのもとに整序し、ジャンルと種類によって名前を付け、番号によって答える。事務局においてこれは秩序の達成となるのだが、これがどうして産業における無秩序なのか? その根本は形態にもとづいて決められる。前者は後者の保証となる。そして、文明が法秩序によって定められるように、産業の状態が定められるのは規制によってである。これこそがコルベールの主要な関心事であり、これが彼の政治経済学の否認であるとすれば、それは彼の警戒の勝利のうちにある。彼の執政の最初から最後まで、彼はこの目的のために勅令や布告を山と積み上げることをやめなかった。彼の懸念は丈・幅・色・品質の全面を覆う。今日、彼が注意を差し向けるのは染色であり、明日になればそれは達成されるであろう。しばしばこのベールを剥ぎ取る必要があった。しかし、あらゆる種類の深い失敗をくり返しても無駄に終わる。この失敗は不運な忍耐の努力を知って挫折し、それらがたびたび訪れることは沈黙させねばならない熱意を刺激するのみである。

  最初の試みから得られた教訓はなぜ最後の企てに際して見落とされたのか? 第一に、欠陥は時代が負うものである。つまり、格付け制度のもとでは規制は義務となる。際限が措かれなければ、どのようにしてその限界を守るというのか? 存続の道具としての規制は進歩のための道具となることを渇望する。そして、これこそがコルベールが全生涯を通してうち立てる要求をもつ役割である。この欠陥は彼の原理の中に釈明の理由を内包する。

 産業は国家の繁栄のためのバネである。・・・ 個人的労働の気紛れに国家がその執行を任すことは … 既存の秩序に最も重大な振動をもたらす。最も厳しい規程がその方法を維持できるとしても、それは甚大な苦闘を経て初めて可能となるのだ。新しい労働形態の侵入はやがてあらゆる部分から、比較的弛めの法律を破ることから始まるであろう。 p.326

  したがって、こうした厳密さは何に向かうのか? 時代の精神においてその正当化に十分な保存の義務を超えて、この厳しさはなおまた二重の利害関係をもつ。すなわち、国内産業の繁栄と外国市場の制覇である。これら2つの利害関係はその中に最も狭い相関関係をもつ。実業家の作品は国内または外国に向けられるが、その成功の条件は変わらない。つまり、需要にしがみつくのは製品の優位さである。良品をつくることの必要性は生産の慣行の中を通るのだが、外国市場の制覇はそこからは極めて容易となり、義務そのものが普遍法の性質をもつゆえに拘束的性格を弱めるであろう。そこにこそ規制を奨励する理由がある。コルベールの原理の純粋さによってひとりでに高揚した勇気は産業における欠陥を、名誉拘禁の処罰しうる違反と同一視することによって終わる。

 財務長官は、彼が工業振興のために出した布告の範囲や承認を過大に見積もらなかったか? 過度の厳しさを超えてなおまだ他の側からの厳しさは過ちを犯さなかったか? 各産物が予め定められた方向性をもっているならば、コルベールの体系は理解されるであろう。すなわち、その目的が知られているため、手段をそれに合致させることは理に適っている。この場合、規制は予防以上のものではない。規制は補完するものであり、拘束するものではない。しかし、未知の物ごとに直面して一般的施策により工業についての工程、方法、数、措置について規定することは手足を失った者だけを再起させるべくベッド上に工業を引き延ばすことにならないか? p.327  もし消費者が諸君の布告に嫌悪の念を催させる好み、あるいはそれら布告が満足させることのない欲求をもつなら、諸君の刑罰に立ち向かうことによって生産者はそれを満足させなければならず、また、生産者は刑罰を尊重することによってそれをすげなく追い返さねばならない。その中間はありえない。彼が従わない場合、キミは処罰する。彼が従う場合、消費者は彼を見捨てる。なぜなら、非常にしばしば彼は不完全に終わる満足よりは絶対的な欠乏のほうを好むからだ。

 好みの問題に干渉しようとすることは重大な経済学上の誤謬である。品質の問題についてもこうした干渉は危険である。絶対的な欲求に対してのみ絶対的な品質がある。すなわち、これこれの用途に対してあまりにも凡庸につくられた物品は別の用途に対しては十分であり、幾つかの場合、消費者を決定する品質は別の場合には消費者を遠ざけてしまう。・・・

p.328  その問題を外国貿易の領域に置くことにより、これらの厳しい非難から執政を弁護できると思われている。もし国民が品質に関し自由寛大であるとしても、外国人がより厳格であり、非常にしばしば別の配慮が判断を左右することもある。第一に、流行の気紛れ、欲求の多様性は国内に劣らず外国に対しても要求される。第二に、横糸はこれこれの幅、縁はこれこれの長さをもつべきだと規定することによって、諸君はその製品に対して優秀なる評価をするだろうか? このような規制の厳格さによって工業は軍事に似た精密なメカニズムのもとに置かれる。それがすべてである。統制は便宜面では役立つが、商業は活動において便宜を失う。労働はインスピレーションである代わりに、ひとつの命令にすぎなくなり、労働に従うのは命令に対してである。努力や発展において失わざるをえないものは巨大である。正確さで利益を得るものは人々に対する便宜とは限らない。

 労働の権利としての好ましい事由は制度としてより好ましい事由ではない。自由は人々の作品に対して、彼らに威信を与え性格を与える。もし国家が生産者にその好みを押し付けるならば、国家は不正行為を伴うことなく彼にその保証を拒絶することはできない。自由な労働に対して国家は抑圧と障碍が終わる処で心に留めるこの一般的保護のみを負う。規制された労働は当然のことながら、損失を免れることを要求できる。もしその規制された労働が雇用者の気紛れにもとづくのであれば、その服従が彼にとって有害であってはならない。服従は彼に何の利益ももたらさないからである。服従が処罰されることで終わるのは工業制度ではなくて、それは奴隷制度である。自由の欠如している処ではすべて責任が多くの動機をもつ。すなわち、伸るか反るかの二者択一しかない。もしこのチャンスが一個人の計画から自由に出発するのでなく、外的な拘束によって決定されるのであれば、これに対してなす術はない。あらゆる法律が収斂するのはここに向かってである。 p.329

 

4.設立されたマニュファクチュア

 さらに、この問題において非難すべきは原理そのものである。設立への熱意、施設準備での寛大さは賛辞以外になにものでもない。1663年初、1661年のマニュファクチュアに関してなされたことを念頭においてコルベールは述べる。「陛下はゴブラン家に王立つづれ織工場を設立させられた。そして、陛下はルブラン卿による計画に第一級の画家を働かされ、彼はほどなくしてヨーロッパで最高の地位を認められるようになった。それと同時に陛下は多数の新たな金銀細工師、刺繍細工師、あらゆる家具商を働かせ、ルーヴル宮に未曾有な壮麗家具を備えつけさせられた。」

 しかし、コルベールの活動が大躍進を遂げたのは1664年から1669年までの数年間であり、彼の卓越した施策の結果、その企画によって大成功を収めるにいたった。1664年中の彼は企業家に30年間の独占営業権とタイユ税免除という特権の付与によってボーヴェにつづれ織王立マニュファクチュアを創設した。なおいっそう恵まれたことに、彼は原材料の調達のために6年間で償還すべき3万リーヴルを前貸ししたうえ、マニュファクチュア建築費用の3分の2を引き受けた。1665年2月、特権を受けた石鹸製造業がバヨンヌで設立された。〔以下はその月別要旨〕 p.330

・カレー(Calais)… ソーダと瀝青工場

・アラス(Arras)、アランソン(Alençon)、オーリヤク(Aurillac)、サン=カンタン(Saint-Quantin)… 王立製糸工場

・ 5月 … 石鹸、ブリキ

・ 6月 … 大砲

・7月 … 毛織物

・9月 … ブルターニュ=油工場、オマール=サージ、フェカン=金・羊毛織物

・10月 … 亜麻、漂白、ガラス、瓦、石灰焼き窯、毛皮

・11月 … リヨン=クレープ、ディエップ=西・英・蘭ふうの毛織物

・12月 … 石鹸

 翌1766年もコルベールの熱意は冷めるどころか、日一日と活力を増したかのように大躍動する。信じられないスピードをもって1665年以来、種々の施設が相次いで創立された。アブヴィルでは亜麻布漂白工場とバラカン・マニュファクチュアが、ルーアンでは染色工場が、ランスとシャロンでは溶鉱炉がつくられたのは1666年のことである。

・1668年… リボン。ハンガリーふうの鞣革、ブローニュの大砲製造所。

 しかし、このように果敢に目標を達成したなかで新設工場が多い点では1667年がピークをなす。この年、王国内には毛織物部門で34,200もの企業が存在した。ヴォルテールは言う。「改良された絹織物マニュファクチュアは5000万反以上を取引しており、そこから引き出される利益は必要な絹布の買い入れ額を遥かに凌駕しているだけでなく、p.331 桑の木の栽培は業者を織物の横糸のために外交産の絹布なしですませる状態においた。」(Siècle de Louis XIV, Cap., xxix.)

 つづいて、これらマニュファクチュアの設置の結果として搾油がおこなわれた。コルベールは1667年にこれを企画し、その年のうちにローヌ川峡谷のすべての港において石炭倉庫を設置した。

 コルベールが当時のマニュファクチュアで重点を置いたのは製鉄、搾油、毛織物と亜麻布、その他の種類の織物である。同時代に誕生した理由で、奢侈産業特に宝石細工、金銀細工はその発展を彼の奨励と国民的嗜好に負うところ大であり、その成功は工業と国内外の商業の中で最も貴重な資源を形づくることになった。

 これら施設の繁栄を定着化するためにコルベールはそれらを積極的な監視のもとに置き、そのために1665年以降、マニュファクチュア特別監査役を設置した。1669年、彼はマニュファクチュアの点検のためにベリンツァーニ(Bellinzani)を任命し派遣した。

p.332 巡察の最中にコルベールに宛てられた報告は非常に克明に当時のマニュファクチュアの状態を伝える。ほんの一例を示すと、注釈の施されていない全集のページの1670年10月14日付の記事がある。すなわち、フェルテ=シュル=ジュアール(Ferté-sur-Jouarre)においてラルマン(Lallement)某によって設立されたバラカン=マニュファクチュアは85人の職工をかかえていたが、彼らはマニュファクチュア内の家屋で寝泊まりした。そのうち6個の機械が3日間放棄され、アブヴィル出身の1人は仕事を辞めた。2つの横糸通しに1人の補助者を要した。これらの職業は774人を雇い入れていたが、3人のフランドル人を除くと、残りのすべてはフランス人であった。その報告者によると、バラカン1反は23オーヌ半の丈をもつ。2人の労働者は毎月2反を製造し、1反ごとに10エキュの俸給を得た。そのマニュファクチュアには10万リーヴルの羊毛を保有しており、うち2万リーヴルはポーランド産起源である。その残りはソワソン、サン=カンタン、アヴェ―ヌ(Avesnes)起源のものである。あらゆる種類の染色用の貼り絵が用意されていた。

 製品の売却は順調だった。それはほとんどリヨンでおこなわれた。パリはこの同じ製品をアブヴィルから取り寄せた。… 品質に応じて1オーヌあたりの価格は3リーヴルから3リーヴル10スーの間を上下した。労働者の間では12~14の信仰がおこなわれていた。要するに、このマニュファクチュアとモー(Meaux)のマニュファクチュアはこの町に膨大な製品を供給し、多数の者を雇用した。