F.    ジュブロー「コルベール研究」(8) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

 F.    ジュブロー「コルベール研究」(8)

 

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第3章 工業

 

第1節 手工業ギルド

1.コルベール時代における問題状況

2.現行制度の危機

3.手工業に関するコルベールの見解と規制

 

1.コルベール時代における問題状況

 すべての物ごとと同じく、コルベールが工業面で着手したのはつねに伝統に対してである。ところで、工業の過去はたいそう立派であった。工業は数年前ですら将来を保証しうるほどにかなり輝かしいものであった。したがって、その組織はこの時代における他のすべてのものと同様に封建制度にタイプを見出すことのできる政体に範をとった。宗教、権威、試練 ― これらが騎士道を導くのと同様に工業のいたる処で出会う原理である。アトリエと同じように、楼、城郭と同じくコミューンがある。職人の旗は貴族の小旗と同じく聖人のイメージを与え、同じ庇護のもとに整列する。人に拍車を履かせるのと同じく、道具を揃えるために権威者の同意を必要とし、小姓の相次ぐ試練は徒弟や職人の試練に劣らず、長く堪えがたいものである。p.312  もしある人が小姓に手柄を要求すれば、徒弟と職人からは親方試作を要する。ひとりの実業家を養成することはひとりの騎士を養成するのと同じほどに難しい。あらゆる職業は真面目さを要する。そして、社会福祉の発展がそこでなにかを失ったとしても、職業上の徳性が再びそれ以上のものを得ることを認めなければならない。時代がこのように遠く隔て、これら諸原理と現代的諸原理のあいだに大きな違いがありながら、信心深く慎み深く、堅実で良心的な商人の重々しい面相は真似るよりもむしろ崇めるという時代に対する崇敬を強要する。われわれは貴族に対してと同じように、商人に対しても同じ尊崇の念をもたないか? 貴族とブルジョアジーは到達すべき同じ身分ではなかったか。今日まですべてが同等であるならば、同質性はさほど遠いものではない。すなわち、親方試作の審査官は、彼が切り拓く問題に関わる重要な利害関係をもつ。審査官がそれを承認すれば、審査官はその作製者において優れた手腕を見出すだけに、より恐ろしい競争者となりうる。そして、党派に対する懸念がしばしば判定の公明正大さを乱す。騎士の密集集団は散開することで勝機をつかむ。勝利は大きな戦闘を経てつねに決着がつく。・・・ 彼らは大多数の生産者を怖がる。つまり、ひと言でいえば、新しい芽は後者に対する信頼と同じ程度に前者への反感を懐かせる。徒弟制度以外に2つの他の制度が異なった産業の内部組織を完成する。親方制度は徒弟制度と職人制度によって獲得された諸権利を承認し、諸特権から得られる利益を確実なものにする。ジュランド制度は法規の持続と国内警察の維持につとめる。

 コルベールが考えた第一の問題はこの制度の改廃に関わる。だれが生産者を得るのか? だれが消費者を得るのか? 工業そのものに対する影響はどうなのか? 生産者の利益 ― コルベールが手工業とマニュファクチュアを考察したのは専らこの見地からである― は問題になりえなかった。p.313  中世の制度は生産に万全の保証を与える。親方制度とジュランド制度はその特権を確保し、親方試作の試験は進歩または凡庸、安全または不安を前にして、思いがけなく上がったり下がったりするハードルとなる。それは何らかの競合産業によって乱されたか? 諸規制は資源、それも致命的な訴訟の資源(=扉)を開く。しかし、パルルマンの記録簿は実業家が嫉妬心を自制しないと、その嫉妬心はしばしば、そこに効果的な保護を見出すのを攻撃するほどになる。幾世紀ものあいだ、靴直しと靴屋、焼肉屋と鶏小屋のあいだでつづく争いの例が想起される。

 

2.現行制度の危機

 消費者の蒙る小さな害悪はそれではなかった。競争がないために消費者は多くの損失を蒙る。今日のあらゆる産業を支える労働の自由の制度の発展は価格下落となって直ちに跳ね返る。競争の拘束を生みだす装置が壊れることを想像しただけでもぞっとする。問題なのは、すべてがそこに在るのではないことだ。このメカニズムをよく理解するためには、問題について産業そのものに即して考えなければならない。

 公式の職業は「パリ6商業組合Six corps de marchands」のあいだに割り当てられ、これだけがパリの商工業を代表した。これら団体の各々が明瞭かつ分割された特権を保持する。p.314 それぞれはそこに閉じ籠り、それらを防禦する以外の心遣いをもたなかった。さらに、その特権は同一人物の上にあったため、各産業は動かずにじっとしていることが必要だった。工程における発展の少なさはその存立の条件を変えてしまう。・・・ この不動性の利益 ― 今日と正反対だが ― はわれわれにとってはつねにまちがいであるか、誇張であるかのいずれかであるように思われる。しかし当時は、それはまちがいでも誇張でもなく、事物の本性が強制した結果であるにすぎない。この不動性の利益は、それがさらに重々しさを提供するものと同じではない。不動性が工業にもち込む不振は素早く人心を支配し、そして、そこから工程は変化をもたず、徒弟奉公期間は終わりをもたなくなる。諸君はおそらく実際に徒弟奉公期間の長い年月を終えた人は異議なく親方に昇進するものと考えるであろう。しかし、答えは「否」である。この年月が満期となったのち、その人物は最初の親方の許で、あるいは同業の他の親方の許で働かねばならないのだ。いったいいかなる職業においてこうした長い年月が明けるであろうか? これら2期間は商品を知り、それを目的地にもっていき、畳み、荷造りし、関税を支払わねばならない者の処へ運ぶことを教えるために必要だったのだ。秘伝伝授の類は第三の時期になって初めて実際に教えられた。p.315  非常に困難なそうした職業がかくも長い徒弟奉公と研修の期間を要したことは十分にありえた。しかし、大胆に確認できることは、通常の徒弟奉公期間に要する長期の期間は無駄な期間であること、それら長期の引き延ばしののち、人が産業の慣行というよりは因襲に漬かる機会を多くもつということ、人が人生の佳き期間をこうした試練のために使い果たしてしまうことである。こうした徒弟奉公期間のぐずぐずした長さは人を親方試作の試験から守るようなことはなく、新会員には親方が課した犠牲を強いることになることに着目したい。周知のように、この制度は労働の活力を遮断し、労働意欲を減退させるために案出されたかのように思える。

 この工業活動の拒絶は単に人に影響を与えるにとどまらない。・・・ その製品が先ほど述べた6つのカテゴリーに入る者以外のすべての労働者は、単に商業会議に参席する名誉を剥奪されるだけにとどまらず、しばしば特権という名のもとに生産する権利を拒絶された、いわば雑役夫のような存在となる。多数の新産業はそれら産業に打撃を加える締め出しを嘆き、手工業ギルドのカタログにその範囲を拡大するよう要求する。特に帽子製造人、皮なめし工、白皮なめし業者、金・絹毛織混紡業者らは大工業家族への加盟を懇請する。17世紀末、ブドウ酒が主要産品であり、内外における消費量が非常に大きい国家において、ぶどう酒商人が大商業都市でブルジョアの権利をもたないのは異例と言ってよいのではないか? p.316  そうした産業が数多いうえに重要であったため、彼らは7番目の手工業ギルドの名誉を与えるよう要求したが、それもついに徒労に終わる。彼らの正当な要求や争って然るべき称号に対して門戸は堅く閉ざされたままだった。

 

3.手工業に関するコルベールの見解と規制

 1789年以降、自由がわが国の産業にもたらした発展に対するコルベールの規制を判断すること、現実の組織、国家的労働についての現代の特権が当時の桎梏や特権にうち勝ったこと、これに疑う余地はない。しかし、そうした時代が到来する前に、この大革命を実現するためには社会の存在そのものを問わねばならない。1789年のあらゆる動揺や騒乱と引き換えに求められたのは、今日の諸原理を導き入れるために古い思想を一掃することだった。リシュリューの意味深い次の言葉、「大変革はほとんど常に危険な動揺を伴う Les grands changements sont quasi toujours sujets à des ébranlement périlleux」が該当するのは特にこの重要な刷新である。コルベールにとって技術および手工業の繁栄はマニュファクチュアの繁栄を規制するかに見えた。そして、彼は特権制度の中に手工業の保証を見出したように、この制度の中にのみマニュファクチュアの発展もあると信じた。しかしながら、手工業を親方制度の枠内に閉じこめる熱心さは誇張されがちだ。彼はこの制度の支持者であることは何としても否めない。というのは、この制度は彼にとってもともとの計画に合致したからだ。しかし、1674年 ― いろいろ事情あって彼は着手したのだが ― までは親方制度に税を課すことなく推挙するだけにとどまっていた。p.317  いろいろな事情に左右されてコルベールは己の意思に反して、元々の格率、理性、過去の業績を無駄にしてしまう特別の臨時税制の流れに引きずり込まれる。その頃になると、彼は己が受けた圧力を受けて立つことを決心し、親方制度の枠外に残ったすべてのギルドに対してこれらの制度を受けざるをえないように導いた。この政策が彼に有用に思われただけに、彼は厳しい態度でもって臨む。したがって、彼の頑迷さは ・・・ 彼が適用した制度において彼の信条にもとづく施策を与えるのみだった。

 ボルドーはこの革新が最も多くの不満を募らせた都市である。あらゆる「特殊な事件 affaires extraordinaires」の中でどれひとつとして民衆の情熱を掻き立てるものはなかった。そして、この町が1675年に舞台となる激昂は、親方制度の設立によって形成された民心の動揺を誘うだけに終わった。アルブレ(Albret)の元帥は1674年1月5日、コルベール宛てに書いている。「親方制度の施行はこの町では極めて微妙であります。この町は大部分が貧しい職人と極度に憤激した商人で満ち溢れており、この傲慢な行動を抑圧するのに私は軍隊ももたなければ、他の何ものももち合わせません」、と。暫くすると、同じ元帥は再びペンを執る。「ボルドーの住民は親方制度の問題を仲間で協議するために閣下の慈悲を乞うております。閣下が最初に命じられた4万エキュをこの町から免除されるようわれわれは希望しております。・・・」

p.318  しかし、アルブレの元帥の懸念にもかかわらず、ボルドーの住民を興奮させたのはこの親方制度の問題ではなかった。つまり、この騒動の直接の契機は何よりも食器の刻印税である。これは別の臨時的措置がおこなわれたときに発生した。なぜなら、第一に、この騒動は課税の直後に起きたのであり、第二に、この課税は最も貧しい者たちを傷つけたからである。

 さらに、これら悲しむべきエピソード ― コルベール執政に汚点を刻むことになるが ― は彼の商工業全般に関わる気遣いの長所を帳消しにしてしまうものではなかった。逆に、そうしたエピソードは … 彼が懐いた利益の熱心さの証明ともなる。実をいうと、彼は手工業ギルドを支配するための、もっと排他的で、さらに厳しい法律を準備中であり、その一方で彼の厳しい行為は、しばしば利益の源にすぎない不正利得の誘惑に対して製造過程での誠実さを保証したいとの願望に導かれたものであり、売れ行きという誘惑から製品の美しさや良質を守りたい、あるいは劣悪商品の販売機会を奪いたいとするところに狙いが定められていた。・・・ 彼のみるところ、外国市場を征服するための最も確実な手段は品質の良さにあった。こうした配慮がはたらいて手段における多数の規制、そして、処罰における厳しい刑罰を思い立たせた。親方制度もジュランドのいずれも存在しないあらゆる職業分野にギルドを設立して秩序を樹立する必要があるのはこの制度であり、この構想は彼のもちまえの諸原理と一致した。1691年の勅令は彼の死後10年近く経っているにもかかわらず、この同じ職業の中に世襲的な組合をつくった。

p.319  しかし、この制度が工業の発展と反対の方向に進み、その結果、原理にも逆行し、すでに1614年に諸階層は、1576年以降に設立された親方制度の廃止を要求したため、リシュリュー宛ての商人の書簡の中で、商人たちはリシュリューがギルドの独占を廃止し、ジュランドの濫用をやめさせる商工業の監視を懇請している。コルベール執政下の1667年にも同様な陳情書が提出された。コルベールもギルド特権の弊害を知らないわけではなかった。彼が問題視したのは、多大な費用が嵩み、入会に宴会を催さなければならないというむり無駄であった。ジュランドはすでにアランソン、ラヴァル、シャトー=ゴンティエ、モーヌなどの都市では廃止されていた。この訴訟においてもっと注意すべきことは …

p.320 

 親方制度またはジュランド制の廃止を招くためには、文明の支配下に他の錯綜がなく、事実の進行、芸術の発展があれば十分である。進歩が新しい産業を切り拓いた処では、・・・ (その育成のために)古い特権を犠牲にしなければならないこともありうる。1672年設立のダンスアカデミーに直面したバイオリン弾きのギルドはいかなる形、いかなる要求ゆえにそれを存続させ、あるいは存続させえたのか? 長い間、二者のライバル関係を解くよう指導されてきたが、ついに和解にはいたらなかった。・・・

 ジュランド制はいろいろな変革から保護された親方以上に生き永らえなかった。親方の裁判所は労働者の違反にとって、ガレー船送りと死刑を除けば、単純な罰金から最も厳しい刑罰にいたるまですべての処罰が用意されていた。1669年8月の勅令はこの管掌からそれらを奪いとり、労働者と経営者間に紛争がもち上がったときは、市長と助役が裁判にあたった。ギルド法規を執行させることも彼らの義務となった。