コルベールの生涯と執政の歴史(17) | matsui michiakiのブログ

matsui michiakiのブログ

横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

コルベールの生涯と執政の歴史(17)

 

p.329

第16章

1.1667年の関税率引き上げに伴うオランダの生産活動への影響

2.オランダで鋳造された貨幣に関する真実

3.1672年におけるオランダの侵入の真因

4.フランス側の外国商品の輸入税率引き上げに関するファン・ボイニンヘンの通信

5.オランダへの報復

6.オランダ報復に関するコルベールの書簡

7.オランダの侵入とその結果

8.1678年、1697年、1713年に仏・蘭で締結された攻守・通商条約の要諦

 

1.1667年の関税率引き上げに伴うオランダの生産活動への影響

 しかしながら、オランダに関するかぎり、1667年のフランスの関税率引き上げはその非難の仕返しの手厳しさや、その恨みが導く報復の激烈さによって判断しなければならないとしたら、この国はまさしく極端な激怒を見たといえる。この国は当時、非常に批判的な位置にあり、つづく重大な諸事件を評価するうえでそのことを考慮しなければならない。1672年のオランダ侵入問題に関しヴォルテールが述べるところによれば、「この小国との宥和に傾いたあらゆる敵の中で戦争の口実を挙げないものはひとつとしてない」。じじつ、その動機が仏・英がもっているもの〔注:軍事力のこと〕を欠いているならば、その国にとって非難することがいかに辛いことであってもそれを認めなければならないし、言うべき理由がこのように欠けているため、ルイ十四世の準備が完了し、不意打ちを食らわしたとき、仰天したオランダは王に向かって言う。…

 

2.オランダで鋳造された貨幣に関する真実

 2世紀以来、オランダはその金貨と虚栄を鼻にかけることでルイ十四世の怒りを買ったとしばしばいわれてきた。p.330  このような説明はそれが真実であるとすれば、フランスにとってあまり名誉なことではなく、むしろ国王や財務長官の側の嘆かわしい軽率さを証明するものとなろう。しかし、事実をみれば、それは完全に当てはまる。実をいうと、オランダは以下のような金メダルを刻ませていた。「堅固な法律、洗練された宗教、救済・防衛・結合する国王、仕返しされた海洋の自由、平和なヨーロッパAssertis legilus; emedaits sacris; adjustis, defensis; conciliates regilus; vindicate marium libertate; stabilita orbis Europe quiete」。しかし、この金メダルがルイ王の猜疑心を喚起したため、彼らはそれを壊して金貨をつくった。ファン・ボイニンヘン大使がその刻印を命じたのを非難されたことは真実であり、新任のジョスエ(Josué)がそれを中止させた。

 しかし、こうした非難はまったくの中傷にすぎなかった。それを知ったファン・ボイニンヘンは、広がりつつある騒動を否認するためにド・リオンヌ(De Lionne)に書簡を送ったが、ド・リオンヌはそれに答えて言う。「君の弁明に関しては真実が廷臣たちを説得するであろう」、と。ファン・ボイニンヘンの書簡によれば、件のメダルはその敵の想念の中においてのみ存在したと推定できる。

 

3.1672年におけるオランダの侵入の真因

 したがって、オランダの侵入にはそれ以上に重大な原因が絡んでいた。その原因の一つはわれわれがルイ十四世とチャールズ二世の間の秘密条約によってすでに検討してきたが、p.331  英・蘭の共和国があらゆる他の君主に対して恣意的君主および首長に自らを任じる大胆さのうちにある。それはエクス=ラ=シャペル(Aix-La-Chapelle)条約の締結時に役割を演じた。もう一つの原因 ― これは前述の原因以上に決定的なものだが ― は、1667年に参事会がオランダ産毛織物に対しておこなった高率関税の報復としてフランス産ブドウ酒・火酒に課した税の引き上げをしたことである。このように、「メダル戦争」と考えられているもののその大部分が関税戦争であった。

 この問題に関しては「百科事典」の記述も同じ趣旨である。すなわち「1672年の戦争の種は1667年の関税率にある。精神を苛立たせ、あらゆる種のフランスの虐待をもたらしたこの関税がなければ、いかなる利害関係をもってオランダはルイ十四世ごときの一介の国王に敵意を懐かせることができたか? … しかし、その新関税率は本質的に彼らの商業を攻撃するものとなり、その存在を危うくするものとなった。それ以来、彼らはもはやこれ以上に危険に曝すまいと決断するにいたったのだ。」

 オランダで、わが国を訪れるすべての外国船に対する50スーのトン税が設置されたときの動揺を忘れることはできない。その1年後、〔イギリスによる〕航海条例はオランダの海運にとってそれ以上の打撃となった。次いでわが国の関税率の引き上げがやってきて、次いで真実の禁止令に匹敵するほどのもう一つの引き上げがそれに続いた。このことは、オランダがその光輝の頂点に辿りついたまさにその時に続けさまにオランダを打ちのめし、いわば考える暇をもつまでもなく、別の市場を探し、その製造を修正せざるをえないという窮地に追い込んだのだ。たしかに、これは致命的な状況であり、国民と都市、特にマニュファクチュア都市においても同様であった。というのは、産業の固定資産というものは、需要あるいは満足の可能性とはまったく無関係に、いわば幾何学的割合で発展するものであるからだ。… p.332  したがって、こうした市井の状況はオランダから驚愕の長い叫び声を誘発し、フランスと戦うことを決意させた。もしコルベールがフランスの農業にとって有害な反撃を惹き起こすことなくマニュファクチュアを破滅させることができたなら、彼の計画が攻撃されなかったであろうことはまったく明白である。しかし、このような結果はまったくの不可能事であり、不幸にして生来、科学に関する知識が乏しいために実務と行動の人としてのコルベールは科学に一瞥もくれず、強権を用いて立案した制度の悪しき面を見出すのに必要な才能ももたなかった。

 

4.フランス側の外国商品の輸入税率引き上げに関するファン・ボイニンヘンの通信

 すでに1667年初、5年後に爆発する嵐が水平線上に現われていた。1662年の攻守同盟の交渉官でトン税に強硬な反対論者であるファン・ボイニンヘンは特使としての資格でパリを訪れていた。ヴォルテールは言う。「このファン・ボイニンヘンはフランス人の快活さを、同時にスペイン人の大胆さをもったアムステルダム市の助役である。彼はいかなる場合も国王の臆病な態度と喜んで衝突し、フランスの財務長官がとりはじめた優越性の物腰で共和主義的な頑迷さをもって反対した。…

 彼の名誉のためにつけ加えておくことがある。オランダ駐在のフランス大使デストラデス(D’Estrades)の証言によれば、ウィット・ファン・ボイニンヘンとベフェルニン(Beverning)の兄弟は当時、買収されることのない連合王国の唯一のメンバーであったという。p.333

 1667年1月14日、ファン・ボイニンヘンはラ・ヘイ(La Haye)に書きおくる。自分はそれを非常に重要であることを熟知しているため、情熱と勤勉さを以てマニュファクチュア以外のいかなることにも首を突っ込まない、と。さらに続けて言う。宮廷の多数の貴族は、この綱をこれほどにきつく縛りつけている王国の利害に自分は関心がないということを訴えるために事前に準備した理由を是認した。コルベール自身、その力を感じているように思われたが、毛織物マニュファクチュアを創立するという彼の計画を放棄するよう勧めるほどには十分に力を感じていなかった。そのような毛織物マニュファクチュアの成功は彼にとって、オランダによる毛織物貿易が自由になるかどうかと同じ程度に不確実なことのように思われた。ファン・ボイニンヘンが付言するところでは、われわれは報復(rétorsion)の道に引き返さなくてはならないことが危惧された。しかし、私〔著者〕はこれが講和前の状態であるとは信じない。

 数日後の1月20日、ジャン・ド・ウィットはハーグから彼宛てに返信して言う。マニュファクチュアについて同じような不穏な空気が流れているが、報復の手段は海軍省の行為がいろいろありで不可能である。その一つは、販売を拡げるためのもう一つ以上に要求を弛めざるをえないことである、と。すなわち、まさにそれが毎日明確に禁止されているイギリスのマニュファクチュアに関し適用されているように。

 しかし、コルベールは自前の計画を執拗に追求し、1667年8月になると、関税の一部を修正した。それで、ヴァン・ボイニンヘンはオランダ産毛織物と多くの他の製品を保護しなければなるまいと確信する。… フランス側がオランダの全商品を抑止したため、今さら不平を鳴らしても始まらない。この国をフランスの製品でいっぱいにするのを妨げ、それにより確実に現金を自国のほうへ引き寄せる手段を見出さねばならない、と書きしるした。p.334  ジャン・ド・ウィットは5月5日付の返信で言う。「わが国の製品に課された新しい税金 ― もっと正確に言うと、間接的な輸入禁止措置 ― がある以上、報復の道しか残されていない」と。

 

5.オランダの報復

 しかし、これは報復戦争の予備行為以外のなにものでもない。1668年、ファン・ボイニンヘンはパリを退去した。パリの雰囲気はこうだった。支配的になりつつある制度に彼が反対したために、また、彼の態度があまりに硬直的で柔軟性を欠いているために、彼の立場は極めて困難な状態になっていた。1669年と翌年のコルベールの書簡は彼が懐いていた思い出がいかなるものであるかを示し、極めてはっきりと反感を表わしている。コルベールは1669年3月19日、ド・ポンポンヌに書き送っている。「ファン・ボイニンヘンの片意地さや度をすぎた厚かましさにもかかわらず、フランス船舶へのオランダの襲撃問題について国王が報復の手紙に同意したとき、われわれが正当な理由をもつことができるようにするため、命じられた形においてつねづね懇請することが必要である。」

 

6.オランダへの報復に関するコルベールの書簡 

5月31日、6月21日、11月25日の書簡でコルベールはファン・ボイニンヘンの想像上の激越さと憤激について語る。次いで、同時期の1669年8月2日、(コルベールは)「ド・ポンポンヌがラインのブドウ酒の入港税の緩和を監視するよう懇請し、(コルベールが)わが国のブドウ酒や他の食品、および商品の買占めを防ぐために実施することを要求した手段を監視するよう要請した。」

 他方、コルベールはこの問題について強硬手段の訴えまでおこなう。コルベール談によれば、毎年、3千~4千隻のオランダ船がガロンヌ河畔やシャラント地方のわが国のブドウ酒を買い占めるべく来航し、それらをかの国に運びだし、そこで、このブドウ酒は輸入税を支払い、同地方での消費量の3分の1を吸収する。p.335  さらに3,4月ごろ、すなわち海上航行が可能になると、彼らはイギリス、バルト海諸国へ輸出し、そこで木材や大麻、鉄等を積載して帰港した。したがって、オランダ人は再輸出しなければならない物品について値下げすることなく、わが国のブドウ酒税を引き上げるならば、彼らはイギリス人やフランス人がこの中継貿易を彼らから奪い取るという危険に曝される。これとは逆に、もし彼らがオランダで消費されるブドウ酒だけに付加価値税を課すならば、彼らはその消費から150~200樽を減らそうとすれば、必ず同時に20人の水夫に食料を禁止することになる。したがって、コルベールの言うところによれば、彼らが「われわれに小さな損害を与えようとすれば、必ず彼らは自らの手で大きな損害を蒙らねばならなくなる」。彼らは「何ももっていない者に対して10万エキュの資金をもつ者(つまり、彼らは何も所有しないのに対し、われわれのほうは巨万の富をもつ)として振舞っているのだ。おそらくこの対比があながちまちがいとは断言できない。じっさい、以前、わが国のブドウ酒をガロンヌ流域やシャラントで積み込んだ3千~3千隻のオランダ船が何らかの理由でわが国の港湾を訪れるのを止めるならば、フランスは結果的にかなりの損失を受けねばならないことは非常によく理解されている。しかし、ファン・ボイニンヘンに擦りつけられた激情、激怒、想像力などはまったく開けっぴろげのように思われる。というのは、コルベールの書簡の多くの行間に示されるように、この問題に関しては彼自身のほうが、オランダ特使を非難した欠陥から自由ではなかったからである。

 ところで、コルベールが1672年の宣戦布告に参画したことを証明する史料がここにある。彼の書簡に関する以下の要約は明らかに決定的といえる。

 ド・ポンポンヌ宛ての1669年4月5日付の書簡には「私は陛下の行為から貿易に関するすべてのことについて専制的国家を見る。しかし、私は陛下がそれに堪えられるとは思わない。」とある。

p.336  オランダの報復は4年遅れた。次いで、1670年11月、長い間躊躇い、そして何も得ることなく危機に瀕したのち、オランダはフランス産のブドウ酒および火酒、他の商品について輸入税率を引き上げた。やがてド・ポンポンヌはコルベールに返答を送った。〔返答文 … 略 …〕

 

7.オランダの侵入とその結果

 これら書簡から以下を学び取ることができる。コルベールは当時、オランダの侵入が計画されていたこと、宮廷の希望の星となっていたこの計画に反対するどころか、あらゆる力を尽くしてその計画を支えたこと、さらに、既述のあらゆる動機についても知っていた。彼が心底で少なからず懐いていたもう一つ別の動機をそれにつけ加えねばならないだろう。p.337  すなわち、それは、フランスの会社と比較した際のオランダ東インド会社の倦むことなく発展する繁栄であった。フランス東インド会社はそれへの弛まざる配慮・支援にもかかわらず、徐々に衰退の道を辿っていた。

  1672年5月、ルイ十四世はフランスの軍旗のもと、最精鋭の1万3千の軍を率いて戦争状態に入った。というのは、王国内すべての貴族は参戦する名誉を競いあい、金銀が軍服に輝いていたからである。この軍隊の司令官にコンデ、テュレンヌ、リュクサンブール、ヴォーバンらの名総帥たちがいた。不幸にもルーヴォアも鞍を並べていた。ルーヴォアは厳格で積極的でかつ油断のない行政官であったが、コンデやテュレンヌに妬みを感じていた。彼はルイ十四世を使嗾して戦争の主な目的を幾度も失わせた。この度の戦闘はいつもより勝利は簡単だった。ほとんどの都市は包囲されるのを待つまでもなく降伏し、少々抵抗することのできた都市は防御の任にあたっていた官吏により何某かの金銭によって売られた。400~500人の騎馬隊と大砲をもたぬ2個連隊による形だけのために論議される有名なライン横町についての真相を今日のわれわれは知っている。故意にオレンジ侯により誤って指揮された軍隊が恐慌状態に陥ったことも知っている。あらゆる処で見捨てられ裏切られてジャン・ド・ウィットは4人の代表者たちによって講和を乞わせた。ルーヴォアの悪い影響がフランスに特に致命的に出たのはこの時だ。ルーヴォアは彼らに耳を傾ける以前に幾たびとなくこの代表者たちを退去させ、彼らを我慢できないほどに残忍に扱った。時の外務大臣ド・ポンポンヌの献策にもかかわらず、参事会の意向はテュレンヌやコンデがそうであったように、無視されていたため、国王は代表者たちの提案を厳しくはね除けた。他の下劣な条件をもってルーヴォアはオランダが毎年、ルイ十四世のためにオランダをこの君主の自由に維持すると刻印した金メダルを送るよう要求した。これは一種の革命の口火となった。p.338  和平派の長で親仏派のジャン・ド・ウィットとコルニーユ・ド・ウィットは殺害され、オレンジ公は民衆の動揺を鎮めるとともに、これを活用した。そして1年後、彼はメダル、凱旋門、戦争の火種ができあがると、征服国フランスから帰国した。次いでナイメーヘンの講和によってフランスは、戦争の主因となった1667年の関税率を放棄せねばならなくなった。

 

8.1678年、1697年、1713年に仏蘭で締結された攻守・通商条約の要諦

 さらに、仏・蘭の間で調印された条約の第7条は以下のように規定する。「将来、両国間の貿易の相互的自由はいかなる特権、入市税もしくは個人的な譲歩によっても禁止され、制限または抑制されえない。当事国のいずれも特権、私益、贈賄または他の便宜をなすことは許されない。」

こうしてこの条項によりフランス政府は特権カンパニーを設立する権利と、幾つかのマニュファクチュアに効果的な活力を与える権利を剥奪されたため、これはコルベールにとって一重に屈辱的であると思われた。幸いにも、オランダ船に対する50スーのトン税の廃棄は同意をみなかった。しかし、この新たな譲歩、すなわちわが国の海軍力を増強しようとした彼の制度にとっては致命的となったこの譲歩は1697年のレイスウェイク(Ryswick)の講和条約においてフランスに要求された。そして少し遅れて1713年にオランダはユトレヒトで別の条項によりそれを更新することに成功した。