コルベールの生涯と執政の歴史(16)
第14章
1.コルベールの家族
2.娘に与えた持参金
3.長男セニュレー(Seignelay)侯爵
4.コルベールが長男に宛てた覚書
5.息子らへの訓示
6.17世紀におけるパリの役割
7.コルベールが注釈を付けたセニュレー侯爵への覚書
8.セニュレーは21才で父の職務の監督をつとむ
9.セニュレー宛てのコルベールの非難の書簡
〔第14章の抄訳は省略〕
p.313
第15章
1.1655年における対英通商交渉
2.1667年のフランスの関税率の引き上げ問題についてイギリスの要求
3.関税率引き上げの内訳
4.「海の帝国 l’Empire des Mers」に関してのイギリスの自負
5.コルベールの実弟でロンドン駐在大使に宛てた注目すべき書簡
6.フランスのブドウ酒・火酒商人に対するイギリスの報復措置
7.対英通商交渉の再開(1671年)
8.コルベール保護制度がもたらした影響の評価(1710年の原稿による)
9.保護制度に関するコルベールの矛盾
10.1623年、或るフランス人著作家は全面的な通商自由の樹立を提唱
11.1677年、仏英間に締結された攻守・通商条約
1.1655年における対英通商交渉
1663年、わが国の港を訪れる外国船に対し設けられた50スーのトン税を課したことによってオランダに対し、どれほどか熱心に、かつ国民的利害を掲げてコルベールが対抗したかをみてきた。後にそれに劣らず重要で厄介な他の交渉、特にイギリスとの交渉は海運と商業の発展に対する同じような気遣いを発揮する機会をコルベールに提供した。つねに極めて困難で微妙な対英交渉はルイ十四世治世の半分以上の期間を費やした。1650年、マザラン卿の心底において認められるや否や、コルベールは、フランスがこの国との交渉を断念していることに苦慮し、枢機卿のために「対英通商覚書 Mémoire touchant le commerce avec l‘Angleterre」を上奏した。
この覚書の抜粋は、当時の通商の自由についてコルベールの考え方がどうであったかを端的に示す。p.314
「潤沢 ― この国のほとんどの州がそうであればよいが ― が政府をして政府だけで間に合う状態にするように思われるが、それにもかかわらず、神がフランスをこのような位置に置き給うたゆえに、フランスに固有の多様性は州から州へ、あるいは外国の地へ、それらがすべての有用性を引きだすのに必要な物を運ぶ交易の便宜がなければ無駄であり、しばしば重荷ともなり邪悪ともなる。
… 通商の自由のためには2つの望むべきことがある。1つは諸課税特にイギリス人がフランス商品に対する課税の免除である。スペインですら両国間の条約のおかげで税を免れているのだ。せめて平等な条件を求めるのは当然である。フランスの貿易はつねにイギリスにとって有益であり、わが国民の入国は少しも危険ではないため、フランス南部の住民の入国は…
第2の願望、それは特にギエンヌ、ラ・ロシェル、ナントの州に関連するのだが、われわれがつねづねオランダ製の毛織物を受け取る代わりに、仏英両王間に交わされた通商条約に従ってその毛織物を直接にもち込むことが許されるのだ。…」
1655年11月、保護貿易主義に対してオーストリアのアンヌ女王の、深いとともに極めて当然至極な反発にもかかわらず、マザラン卿のたっての願いにより、イギリスとの間に攻守・通商同盟条約が締結された。この条約は英仏間の交渉の完全な自由を刺激し、あらゆる点で完全に相互的だったが、それが含む唯一の制約はイギリス産毛織物について上質と見なされるものについては入港時に通常の検査に従わせるというものであった。アンリ四世とジェームズ一世の間に結ばれた1606年条約の条文に従ってこの毛織物はフランス産毛織物が没収されると宣せられたのに対し、欠陥品と認定されたときでもイギリスへ輸入されなければならなかった。しかし、こうした状態は長続きしなかった。p.315 フランスには海軍力が必要であり、この目的に沿って外国船に対して50スーのトン税が設けられたが、それはまた航海条例への対抗手段でもあった。じじつ、イギリスはその繁栄と救済はおそらく、他のすべての国家に対抗できる海軍の卓越性にもとづくという考えをすでにもっていた。
2.1667年のフランスの関税率の引き上げ問題についてイギリスの要求
これら2つの法令は両国間の通商関係をかなりの部分について変更した。しばらくして1664年、フランスはかなりの数の品目について関税率を引き上げ、そしてその3年後に再び引き上げたが、今度はオランダはむろんイギリス側からも非常に激しい苦情を呼び起こし、それが南仏の諸州に大きな打撃を与え、ひいてはそこで騒擾を惹き起こした。イギリスの業者は彼らの要求を支持するために数年来、フランス産ブドウ酒や火酒の引き換え品として彼らがフランスにもち込む商品の税が3倍になったと主張し、彼らはこの問題についてわが国の関税率と比較した次の一覧表を押しつけた。
3.関税率引き上げの内訳
1664年前の輸入税 1664年税率 1667年税率
絹靴下 2liv. 7sous 3den. 15 2liv.
ウーステッド靴下 2 10 6 3liv. 10 8
英国産半毛織物 3 8 6 4 10 10
英国産毛織物 36 17 4 40 80
英国産bayette 4 14 5 10
二重bayette 9 9 4 15 30
英国産メルトン 4 15 6 12
スコットランド産サージ 19 4 2 4
上表から、両国民の商業利害に関する交渉が困難を極めたことがわかる。しかし、そうした交渉のみが最も大きかったわけではない。自尊心あるいは外見的な虚栄問題が根底に横たわっていた。p.316
4.「海の帝国 l’Empire des Mers」に関してのイギリスの自負
両国の船舶が海上で出会したとき、どちらが先に挨拶を送るかの問題もあった。それは国旗掲揚の義務といわれる。イギリスは大西洋のみならず地中海でも先方が先に挨拶することを主張した。フランスの宮廷がこの奇矯な要求を認める気になっているかのように思われた。イギリス駐在のフランス大使は当時、財務長官コルベールの兄弟コルベール・ド・クロワシー(Colbert De Croissy)である。1669年の財務長官と大使の通信は両国政府の意向を完全に明らかにし、この点についての非常に興味深い情報を与える。
フランスは当時、オランダとの間に攻守同盟で結んでいたが、それを履行する気がなく、いろいろな理屈を挙げて実施しなかった。したがって、イギリス側は当時、フランスを丁重に取り扱わねばならない事情にあった。にもかかわらず、イギリスは国旗掲揚義務にせよ、フランス海軍の発展についてにせよ、極端に神経過敏になっており、わが国の計画の秘密を看破するためにいかなる手段を前にしても後に退こうとはしなかった。
5.コルベールの実弟でロンドン駐在大使に宛てた注目すべき書簡
そのことは、コルベールが1669年4月5日、ロンドン駐在大使に宛てた手紙が如実に表わしている。…4月27日付のもう一つの書簡を通しコルベールは弟に、わが国の海軍はけっして増えていないと喧伝しイギリス側に猜疑心を催させよと命じている。この書簡によると、国王の海軍力が語られるときはいつでも少なく見積もり、イギリス海軍力を追随できないし、商船はほとんど保有していないと知らせよ、と。
最後に、4年ほど前の1666年2月13日、オランダの大使ファン・ボイニンヘン(Van Beuningen)はパリからジャン・ド・ウィット(Jean de Witt)宛てに書いている。p.317 「私はまちがいなく、ハーグ駐在のロンドン大使ダウニング(Douningh)の言葉、つまり、イギリスの格言はフランスが強大な海軍力をもちたがっていないと言う。」
国旗掲揚についてフランスはきわめて単純な方法を提案した。それはあらゆる困難をいとも簡単に処理してしまうはずだった。すなわち、それは各国政府がその国の艦船にいかなる階級に属しているものであろうと、また、それに何人が搭乗していようと、出会った際に挨拶を送らないように命令することを決めることだった。この方法を提案したコルベールの書簡は1669年7月3日付である。その13日後、彼は大使に手紙を送って、提案が承認されたことを褒めたたえ、急いで国王とヨーク公による結果命令を出させるよう命じた。しかし、誤解があるようだ。イギリスはフランス大使が考えていたように約束はしなかった。これに続く書簡は非常に大きな利害関係に関して細かな問題を扱っている。
6.フランスのブドウ酒・火酒商人に対するイギリスの報復措置
以上が挨拶問題に関し、コルベールがパリから指揮した交渉沙汰の次第である。p.318 関税率引き上げに関する交渉もまた多くの障害に出くわした。それは限りなく長く続いた。p.319 かくて、交渉はイギリスをひどく苛立たせ、報復措置を招き寄せる。1670年5月23日のコルベールの書簡はこのことを的確に示している。
7.対英通商交渉の再開(1671年)
ともかく新通商条約に関する交渉は放棄されなかった。それはフランスの農業利害に密接に絡んでいる。1671年、ロンドン駐在フランス大使はコルベールに、イギリスとの条約が締結国で好き勝手に設定されている4つの異なった基盤についての裁定を委任した。これらの基盤とは以下のとおり。
① 処遇の完全な平等
② フランス人がイギリスで受けているのと同じ流儀でイギリス人をフランスで遇すること
③ 旧条約を更新する場合における現状維持
④ 1664年の関税率の再訂および50スートン税の撤廃 p.320
コルベールはこの覚書に対し答えて言う。最後の項目の根拠は国王も欲していないし、いかなる形でもこれを許容できない。3番目についていえば、検討の余地はあるだろうが、前二者については自己流に解釈してはいけない。議論の主眼はこうだ。つまり、両国民の利益は他者の犠牲において一者の利益を追求することではなく、さらにまた、両者がおこなう商業の僅かばかりの利得を求めて相争うことにあるのではなく、徐々にそれを簒奪しつつあるオランダ人の手中から商業をとり戻すことにより商業を大いに発展させることのうちにあるということだ。欠陥品と判定された商品の検査 ― イギリス人はそのことをいつもくり返し主張するが ― についてコルベールは峻厳だった。50スーのトン税についてもまったく同様であり、この最後の事項に対して、これに対応するものにイギリスにおける3リーヴル10スーの関税を課しつつ、フランスで徴収される税の廃止を要求していることに驚きを覚えると述べた。そうした廃止はフランドル人、スペイン人、スウェーデン人やハンザ諸都市でも承認されなければならない。なしうるすべてのことは、両国が保有する船舶が等しくするために相互に免税を刺激することにあると述べる。
最後に、かなり経ってから、すなわち、フランスがオランダに対抗して戦争状態に入り、イギリスとは可能なかぎり親密に同盟することが望まれる頃になると、コルベールは最終的に犠牲をはらわねばならないと判断した。イギリスの使節がフランス大使に宛てた通商条約に関する文書に答えて言う。コルベールはこの最後の問題について必要とあらば、1664年以前にあった関税率 ― いわゆる1667年関税率を3分2ほど控除した率 ― に譲歩することを認めた。
p.321
8.コルベールの保護制度がもたらした影響の評価(1710年の原稿による)
結果的にかなり大幅な譲歩がなされた。これもそれも状況の産物というべきものであろう。この制度をそれに先行する制度によって判断するのは簡単ではあるが、これはわが国のマニュファクチュアの産物にとってかなり犠牲を強いることになった。
1700年頃、この制度がフランスにとって有益だったか、有害であったかを知ることは政府の軍団管区でさえ討議された。私がすでに述べた一つの草稿はこの問題について詳細に論じ、イギリスの通商の始まりについて述べている。毛織物の製造は1485年になって初めてこの王国に導入され、国内諸州に多数のフランドル労働者を呼び寄せるために、オランダに興った内乱を巧妙に利用したエリザベス女王の治世期に急速な発展を遂げた。セバスチャン・カボット(Sébastien Cabot)によるフロリダの発見(1496年)、その1世紀後にウォールター・ローリー(Walter Raleigh)によるヴァージニアの発見、1612年におけるバーミューダー群島の占領、ジャマイカ、アンティゴア、バルバドス、サンクリストファ諸島の一部、ガダループ、カロリン、メアリーランドの占領はその海軍にかなり重要度を与え、そのことがオランダとの抗争、すべての他の国を圧倒し、あらゆる市場特にフランスの市場に有利なかたちでイギリス製品を提供することになった。フランスの50スーのトン税の設定はこの繁栄に対してかなりの打撃となった。1710年の草稿は言う。p.322 「この新しい課税はイギリスで商業の通常の流れを完全に遮り、2世紀以上も前からフランスとの間に締結された条約に対する侵犯の象徴と受け止められ、有名な航海条例を根本から脅かしている、と。
1664年の関税率と1667年のそれ、特に後者はイギリスにとって大きな打撃となった。じじつ、それはコルベールの書簡中で取り上げられている報復措置を招き寄せた。
この長官が敷いたマニュファクチュア制度の結果についていうと、彼の死後30年経っても厚かましくも毅然と評価されているのをみるのは興味深い。
対英通商の覚書で十分に審議された最も重要な問題は次のようである。毛織物の見返りとして交換されるわが国の食糧品をイギリスが買ってくれる時代において国民的工業の産物のためにフランスが外国人から毛織物を買わないで、その土地の産物を売るのを停止するのはフランスにとって多かれ少なかれ利益となるだろうか?
この問題はなおまだ未解決状態にある、と覚書の著者は言う。じじつ、一方では多数の工業がスダン、カルカソンヌ、アブヴィル、アミアン、リール、エルブーフで形成されていた。この工業はそれらが設置された諸都市を豊かにし、多くを産出した。さらに、慎重なあまり、外国で産するすべてのものを外国人から引き出すことを敢えてやめる道を望んだのであろうか? イギリスとわが国の交易が非常に栄えた時代にイギリス人は毎年、1千万リーヴルのわが国の債務者であったこと、p.323 彼らがわが国の亜麻、ブドウ酒、火酒、塩、帽子を必須としていたために、その毛織物に課された付加価値税がわが国のこれら諸々の物品を輸入するのを妨害するではないかといった懸念はないばかりでなく、おそらく十中八九まで彼らは以前にも増して大量の貨幣をフランスにバラまかざるをえないことがつけ加えられた。
9.保護制度に関するコルベールの矛盾
これらの理由がコルベールの決心に大きな影響力を与えたかどうかは甚だ疑わしい。今日でもなお、その理由のうち前者は同じような論点中でも数多く熱心な支持者を集めていることを認めねばならない。しかし、1700年以降になされてきた反対もまた特に重要であり、その問題はいわば留保中であるため、ここでは簡潔に紹介するにとどめたい。これら反論のうち最も大きなものは以下の7点に及ぶ。
① 1667年の関税率が制定される前は3種の毛織物、すなわち、上質、並質、粗質のものが製造されていた。フランスは並質のものとすべての粗質のものを産し、合計3千万リーヴルを輸出した。既にみたように、イギリスの輸出品は800万にすぎず、外国商人によって求められた小必需品となっていた。
② イギリス製毛織物の輸入の障害は、同国の商人が並質および粗質毛織物を作りはじめ、われわれがこれらの製造を所有している小必需品を外国人が直接に発送し、わが国の外国における毛織物販売の低下をもたらす因となった。
③ わが国の関税率の引き上げはイギリス政府をしてわが国のブドウ酒、火酒、酢の価格を引き上げさせると同時に、ポルトガル、ライン河畔、カナリア諸島のブドウ酒に対する旧税を存続させ、こうした報復措置によってフランス産ブドウ酒の販売をかなりな程度低下させた。
④ マニュファクチュア労働者が得た便宜はイギリス人をして、他国民の処へ赴かせ、彼らがかつてフランス諸州で入手していた火酒を取りに行かせることにつながった。p.324 諸州とはシャンパーニュ、ブルゴーニュ、プロヴァンス、ビスケー、ギエンヌ、サントンジュ、ラングドック、ルシヨン、オートブルターニュ、アンジュ―、ロレーヌ、ブレソワ(Blaisois)、オルレアネである。これら諸州のブドウ酒と火酒がもはや売られなくなってから、800リーヴルのブドウ酒を保有する不幸なブドウ栽培業者は市場を失ったために30リーヴルのタイユ税を支払う余力がないし、またはそうでないにしても(ブドウ酒を売ったとしても)イギリス人やオランダ人には低価格で売らなければならなくなった。
⑤ スペインから毎年1千リーヴルの羊毛を輸入しなければならなかった。p.325 フランスで製造される1オーヌの毛織物は16リーヴルであり、以前のイギリス産毛織物の販売価格より2リーヴルも高い。
⑥ 貿易の衰退は公賦課の歳入の減につながった。
⑦ 最後に、あらゆる奨励がなされたにもかかわらずマニュファクチュアは増えなかった。大きな家屋や多くの財産はけっして形成されず、軍需衣料の工場をもつ者のみが栄えている。
10.1623年、或るフランス人著作家は全面的な通商自由の樹立を提唱
要するに、この覚書に従うと、50スーのトン税は害悪の主要な源泉とみなさなければならないが、外国産毛織物に関して関税率引き上げ ― 有害結果は不可避であり、予見されて当然だが ― は害悪をさらにいっそう悪化させる。
イギリス人がかつてフランスにおいてその毛織物を売却したように自由を再建するために交渉の開始を利用し、その王国が産出する羊毛についてわれわれが関心をはらい、スペインからできるかぎり少なく輸入しわれわれが利用するこの国の羊毛を輸入するために北フランスのカレー港とイギリスの間でおこなわれている密輸入を奨励することが必要というのが結論である。じじつ、この交換のおかげでフランス貿易を1659年の状態にまで戻すことを自慢できる。というのは、その流れはその時中断されていたのであるから。じっさい、この頃のイギリスはすべての帽子をコードベク(Caudebec)から取り寄せ、リヨンはすべての絹織物を提供していた。イギリスはそれ以来、わが国のみが産出していた粗質毛織物のマニュファクチュアを意に介することなく、これらの物品のマニュファクチュアを設置した。他方、オランダ人がわが国の製紙業の労働者を解雇し、彼らは薄絹の製造法を学び、イギリスに供給した。しかし、少なくともオランダ産のものより上質のわが国のブドウ酒、火酒、薄絹用の亜麻布やポルトガル産のものより評判の高いわが国の塩の販売が増えることが予想できる。
p.326 以上が経験にもとづいた精神が貿易の自由についてもつ考えであり、ここにたどり着くまで130年もかかっている。… フランスはこの報告によると、屈辱的にして危機的な劣等国として非難されている。しかし、1667年における関税率の引き上げに帰される結果は不幸にしてあまりにも真実であることを認めねばならないし、また同様に、穀物に対する立法と化合することによって地方では事態はさらに悪化したのは事実である。主に農村では知事、司教、官吏がコルベールに伝達しなければならないと考えたような恐るべき窮迫状態が存在した。次いでこの長官が死去したとき、悲惨な戦争の結果と混同された穀物取引とマニュファクチュアに関する彼の体系の過大評価が王国をヴォーバンが慨嘆すべき表を作成した状態にまで切り下げてしまった。p.327
11.1677年、仏英間に締結された攻守・通商条約
ともあれ、1669年に通商条約を締結するために仏英間に始まった交渉 ― この交渉は事態の政治的利害関係で頭いっぱいのコルベールが1667年の関税率のみならず、1664年の関税率までも放棄するにいたった交渉になるが ― は結局のところ何らの結果も生まなかった。諸々の事件はその交渉よりずっと足早に進んだ。1672年、オランダ戦争が始まると、両国はイギリスの明白な利益に逆行して、その政策のためにチャールズ二世の情熱を利用することに長けたルイ十四世に唆されてチャールズ二世があらゆる種の誘惑に引っかかってしまったゆえに同盟として結実した。暫くのちにイギリスはその国王に強制し、国王はオランダと同盟した。しまいに数年後の1677年2月24日、仏英通商条約がサン=ジェルマンで調印された。しかし、この条約は単に2国間で戦争によって妨げられた関係を再建するだけの目的をもち、相互の関税に関わることは何も取り決めなかった。さて、問題の根底が以上のようであり、そして多くの外交的約定において長期の友好関係が問題となったものの、それにはふれられなかった。他方、じっさいコルベールの草案が確認したことであるが、p.328 ナイメーヘン(Nijmegen)の講和でフランスが不承不承に1667年の関税率を廃止することに同意し、これがオランダを利したといわれるのは確かである。しかし、フランスが1678年にこの国と調印した通商航海条約と同じく重要な決定については何の記述も見えない。その同じ恩恵はイギリスに与えられたであろうか? このような憶測をしても仕方ない。しかし、この国とフランスの通商について印刷物または草稿はこの点について何らふれていない。