コルベールの生涯と執政の歴史(15) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

コルベールの生涯と執政の歴史(15)

 

p.283

第13条

1.商業会議所の結成

2.商業倉庫の創設

3.コルベールはフランドル=スペイン間の輸送のために尽力

4.貴族が爵位を喪失することなく海上貿易への参画を規定した勅令(1669年)

5.マルセーユに信用保証所(Chambre des assurances)の設置(1670年)

6.港湾および兵器工廠における度量衡の統一のための布告

7.コルベール以前の貨幣操作

8.貨幣操作においてコルベールが新たに導入した改革

9.貴金属の輸出禁止

10.仏西貿易

11.各時期にフランスにあった貨幣の量

 

1.商業会議所の結成

 コルベールは商業会議所の創設の栄誉を与えられているが、この種の集会はすでに1604年にアンリ四世治下で手がけられており、それは、同王が特に桑の樹の栽培を奨励するために設立したものである。

 1626年、リシュリュー枢機卿は常設の商業会議所を設置し、そこでの指導に当たった。リシュリューと共に4人の国家参事と3人の請願書審理官が加わる。フォルボネによると、その成員の資格は経験や承認にも埋め合わせがつかなかったため、この新たな試みは最初のものほど成功を収めなかったと述べる。しかし、暫くして実務家がこの会議に招聘された。というのは、フーケの父(かつて船主)は植民地貿易で巨富を入手したが、彼がそこに席を占めるよう指名されたからだ。p.284  したがって、コルベールはかつての制度を踏襲したにすぎない。その後それは完成され、ド・シャミヤール(De Chamillart)長官のもとで新しい組織が結成された。国王任命の6名以外に、12人の貿易商人が参画した。12人はパリ、ルーアン、ボルドー、リヨン、マルセーユ、ラ・ロシェル、ナント、サン=マロ、リール、バヨンヌ、ダンケルクなど港町に拠を定める商人である。3大会議所(すなわちマニュファクチュア、農業、商業)はここに始まる。

 

2.商業倉庫の創設

 外国商品のフランス領土内での輸送を奨励するためにとられた措置で、貴族が爵位を失うことなく海上貿易に参画できることを宣言した勅令、マルセーユにおける証券保証所の設置などは1669年に遡る。それらはコルベール執政期におけるあらゆる種の布告の中で最も実り豊かな布告・勅令・規制となった。1664年の関税率が二重の関税鎌という手段でそれを甘受していたプロヴァンスを孤立させたことはまだわれわれの記憶に新しい。全交易を妨害していたこうした事物の状態は、5大税区の範囲で円形に位置する11カ所の倉庫の設置によって幸いにも1664年に是正され、これによって外国と見なされる州に由来する商品を再輸出していた商人たちは税が完全免除されることになった。1670年2月、倉庫の恩恵はすべての海浜都市に拡大された。

 その目的について勅令は語る。「あらゆる種の商品をそこに保管し、あるいはフランスでそれらを売却するために、そしてあるいは国外にそれらを輸送するために王国の諸港を役立てるという便宜を供することで幾つかの国の商人に便宜を拡大する」ことである、と。輸入税の復元は他のものに対する賃貸借をもたなかった。これは、商人が非常に困惑するところだった。p.285  そして同じように、コルベールが商品が消費される時にのみそれら商品に対する税を課すことによって、同じように深刻な不便宜を防止しなければならないとは思わなかったことは驚くべきことのように思われる。

 

3.コルベールはフランドル=スペイン間の輸送のために尽力

 フランスは今日でもなお、幾つかの国が消費する商品の輸送のためにフランスの領土を借りていること、ならびにその地理的位置のゆえにヨーロッパの大部分の運送業をおこなうといった自負を許したことに極端な重要性を与えていると言われる。こうした先入見はおそらく1669年にもあったと思われる。つまり、最近フランスに併合されたリールおよび他の都市の貿易商人がスペインからル・アーヴルまで陸路で商品を送ることに参加するために多数の手紙をコルベールは書いた。スペインで彼らは多くの関係を結んでいた。それは、スペインがかつて彼らフランドル人の本国であり、またインド貿易のためであった。さらにこうしたコルベールのやり方では、商業上ならびに外見上の目的以外に非常に道理にかなった政治的目標が定められていた。なぜならば、フランスに併合された諸都市の利益を増大することにより、早急かつより確実にそれら都市をフランス本国の統治に馴染ませることが望まれたからだ。コルベールはまず最初にフランドル=スペイン間の運輸税を廃止し、リールからルーアンまで商品の輸送を営ませるために経営者に、それまでおこなっていたドイツで仕事をさせないためにも、より有利な取引を許可した。同時に彼は国家の船舶の幾隻かを商人たちに貸与した。次いで、懸念が極端にまで膨らんだので、コルベールはフランドル知事に書簡を書き、こうしたあらゆる気遣いを惹き起こした。

p.286 

4.貴族が爵位を喪失することなく海上貿易への参画を規定した勅令(1669年)

 貴族が爵位を失うことなく海上貿易への参画を許可する勅令が出されたのもこの頃のことだ。モンテスキューは述べる。「君主政治のもとで貴族がそれを為すのは商業の精神に反する」、と。これは著名な政論著述家(publiciste)の誤謬に、それ以上を付加する誤謬である。すでに1664年、東西インド会社が設立されたとき、貴族は特権を失うことなくそれに参加を認められた。1669年8月の勅令はこの権利を普遍化した。その序文はこう述べる。つまり、商業特に海上貿易は国家に潤沢をもたらすことに富んだ資源である。富を獲得する際、これ以上に理に適った手段は外にない。商業は非常に秩序ある国民間における偉大な深慮においてある。法律や布告は交通・工芸、土地の開墾のみを貴族に禁止している。しかし、海上貿易は貴族と両立しがたいというのが一般に行きわたっている世論である。以上はコルベールが依拠する動機である。もし彼の見解が理解され、貴族の保有するほんの僅かばかりの資本が商業に投資されるならば、富のみならず王国の力さえも強大となることであろう。p.287  商業の道を開かれた貴族たちは自己の所領をこれに捧げるであろう。明らかに栄誉は欠けているけれども、しかし戦場で為すことのできる他の行ないと同程度の有益さのために。不幸なことに、その一方では階級的偏見の根強い地方ではフランスがかつて突入した一連の戦争が、コルベールが当初期待していたほどの果実をもたらすことを1669年の勅令は許さなかった。同じ治世のもと、つまり1701年、司法官を除外して貴族たちが卸売取引に参加するのを許可する勅令が出された。しかし、この能力はいちばん最初のもの以上には追求されなかった。イギリスでは大商業が国家を豊かにし、その資源の重要さを倍加したのであるが、フランスでは資金や気運の不足のためにこうした大規模な操作を企図するのは皆無だった。

 

5.マルセーユに信用保証所(Chambre des assurances)の設置(1670年)

 信用保証所は商業上の有力な梃子となる。

 1670年6月30日付コルベールのプロヴァンス州のパルルマンの院長宛ての書簡:パリの信用保証所に似せてマルセーユに設立するよう命じた。その理由は「かつてそうであったようにマルセーユの商業を再建するのを支えるため」

 

6.港湾および兵器工廠における度量衡の統一のための布告

 1671年8月21日、コルベールは「フランスのすべての港湾および兵器工廠において度量衡の統一をおこなうための」布告を発布。← p.288  度量衡の不均一によって惹き起こされたあらゆる種の不便宜を取り除く、フランスにおいて均一の制度を設けようとした

 しかし、困難につきまとい是正するのに160日もかかる。特に地方州の反対多し。

 

7.コルベール以前の貨幣操作

 シュリー以前より貨幣操作はあったが、詐欺の入る余地はなかった。

 フィリップ善王…貨幣改鋳

シュリーの1609年の勅令:外国貨幣を貶したり流通を止めたりするのみならず、貨幣・非貨幣の別を問わず銀を国外にもち出すことを没収し罰金に処す。入獄の刑罰のもとに厳禁。→ シュリーへの非難強まる。→ 造幣局、パルルマンは国民・商業が猛烈に反対したため実施されず。

 1666年以前に貨幣鋳造についてどのような規制があったかをみてみよう。金銀細工師、銀行家または他の企業家が封印を打たねばならないマール(8オンス)の数に応じて一定の利潤を与えるという条件で土地と同じように賃貸借した。p.289  造幣局(La Cour des monnaies)は貨幣の純分(titre)や重さが契約に合致しているかどうか監視した。1662年、そうした賃借り制度はフランス全土でおこなわれていた。国王は貨幣鋳造請負師に国内から金銀製品をもち出させないように外国貨幣の流通を絶対的に禁止させ、製錬工が貨幣鋳造請負師の許可なくこれらの貨幣を鋳造しないように禁止した。さらに、貨幣鋳造請負師はすべての他の者に優先し関税価格で彼が必要とする材料を購入できる権利をもっていた。

 

8.貨幣操作においてコルベールが新たに導入した改革

  不幸なことに、コルベールはこうした桎梏の一部を承認したが、そこにはフランスの金銀細工の輸出に反対するという桎梏が含まれていた。しかしながら、現行法規はあまりに昔からあるもので、一般的な偏見はそれを不可欠と信じていたため、1666年、貨幣鋳造の賃借り制の更新が問題となったとき、コルベールはそれ以外の条件で仕事を請け負う貨幣鋳造者を見出せなかった。彼は出くわした機会を活用することに慣れていたため、急いで貨幣鋳造のために公社であると同時に企業を置くという一種のやり方を採用した。この頃多種多様な造幣局の工場長は資金でもって国家のためにそれらを買い入れ、製造し売った。

 政府はつねづね流通貨幣量を増やそうとしたといわれる。コルベールの貨幣操作は確かにこの主張をうらづける。当時のフランスでは多額のスペインのピストルや、標準貨幣ではない金のエキュがあった。それらの通用は禁止されたが、同時に造幣局に私人が招かれ、p.290  彼らはここで貨幣鋳造税(seigneriage)を控除することなくフランスの貨幣に等しい重量を受け取り製造した。→フランスにスペイン産の金銀を流入させ、フランスがスペインに売る食料品や製品量を飛躍的に増やした。

 

9.貴金属の輸出禁止

 金銀取引についてコルベールは同時代の偏見から自由であるようには思われない。「フランス財政史 l’Histoire financiere de la France」の著者で有能な作家はこう述べている。この大臣は貨幣商人や銀行家に対して金銀の延べ棒、鋳塊または外国貨幣を取引したり、それらを王国内のあらゆる場所へ運び込んだり―これは当時の布告により禁止されていた―する自由を与えた。」国外に移出することにはコルベールの2つの書簡そのものが、それが少なくとも法に準拠すべきことを物語っている。最初は1670年10月21日付の書簡であり、コルベールはデルニエ(Dernier)某に対し、リールで通行証なく併合された国の貨幣の流出を防ぐよう勧めた。第2回目は同年11月6日の書簡であり、それはリールの知事ド・スージイ(De Souzy)宛てのものである。彼に対しコルベールは延べ棒であろうと小銀貨であろうと、銀の流出を禁止する布告を送った。最後に同じ年に貴金属に関しての2通の書簡はコルベールの貴金属取引に対する極端な懸念を表明している。〔書簡内容…略〕

p.291  8月15日付のもう一つの書簡はブルターニュの知事に宛てられた。知事はコルベールにサン=マロの貿易商の苦情を伝えた。すなわち、その承認が国内に持ち込んだ莫大な量の貨幣が外国における等しい価値をもつと保証してほしい。これに答えてコルベールは曰く。「自分は今日までこの要求を承認することができないと述べてきた。もしサン=マロの商人が自分にデモンストレーションを要求するのであれば、おそらく幾つかの便宜を図ってもよい。しかし、実をいうと、貴金属がイギリスやオランダと較べてフランスでは価値が低いということを自分に説得するのは甚だ難しいと思うのだが。」

 

10.仏西貿易

 いわばその時代を貫いてル・アーヴルで100万リーヴルを積載した2隻の船の到着を知ってコルベールがどんなにか喜んだかが伺われる。100万の銀金であるのだ! これらの言葉は貴金属貿易の役割に関する当時のあらゆる幻想を要約している。じじつ、コルベールにとってこれら浅薄が100万リーヴルの金銀を積載して到着したのをみることは、商品を積んで帰ってくるのと別の満足を与えることになった。だがしかし、商品は貨幣と同様である。そして、貨幣の形をとる以前にそれら商品は100万の人手を雇って2倍にも3倍にも価値を増すであろう。しかし、これは当時罷り通っていた大きな偏見であった。すべての国民はそれらを貨幣に戻すことを求めた。このようにして対スペインとの交易は切望された。このために、この不幸な国はアメリカに財宝を求めに出かける精力的な人間の亡命によって貧しくなったのである。あらゆる方面からあまりに多くの売り手に取り囲まれ求められたために、この国は富に従属し、富そのものに圧し潰されてしまうのだ。明らかに、金とわが国の食糧または商品の交換は、もしフランスがその返礼として新たな仕事を受け容れる価値を受け取るなら、2倍となったであろう。したがって、一たびスペインが滅亡し破産すれば、p.292  スペインと交わしたわが国の利益およびすべての国民の利益はどうなったであろうか。それは何もあとに残らない。何も買うことなしに売り、あるいは多くを売りつけ、少なきを買うといった愚かしい思想を追求することによって得られるものがあろうか。

 

11.各時期にフランスにあった貨幣の量

 1685年   500万リーヴル

 1708    800

 1754   1,600

 1780      2,000

 1797      2,200

 帝政期    2,300

 1828      2,715

 1852      3,583

 1841      4,000

 

 上記の見積もりが正しいなら、1683年に1億1,400万リーヴルになる政府予算は貨幣の5分の1以上を吸収したことになる。今日、この割合はさらに高く、予算の数字は流通資本のおよそ3分の1になろう。しかし、所与の数値は正確であろうか? 少なくとも疑わしい。じじつ、貨幣政策は非常に長期間、この問題について公式の数値を保存していない。したがって、それに先行する資料に対して、それが供しえないことをもとめないのが賢明であろう。