コルベールの生涯と執政の歴史(14) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

 コルベールの生涯と執政の歴史(14)

 

p.272

第12章 

1.1662年飢饉についての新しい内幕

2.政府の措置

3.コルベール以前における穀物取引に関する法律

4.コルベール制度の解説

5.コルベールはどう弁護され抗議されたか

6.17世紀における小麦の平均価格

7.小麦取引に関するコルベールの書簡

8.彼が敷いた制度の結果

9.州の極度の窮迫

10.レディギエール公の奇妙な書簡

11.穀物取引を扱う際にコルベールの誤謬の原因

12.この問題に関しなおまだ残っている偏見を教育で是正することの必要性

 

1.1662年飢饉についての新しい内幕

 われわれはコルベールが就任したのは飢饉の年であったことを思い出す。すなわち、1662年のことだ。コルベールの書簡の形になっているものを以下、内容面から書簡を箇条書き式に直してみる。

・豊作州はそうでない州に救いの手を差し伸べ、諸個人は自前の倉庫を開いて適正価格で食糧を売るべし。

・ダンチヒおよびその他の外国に可能なかぎり小麦を売る。

・私の貯金を以て購入させる。

・パリ、ルーアン、トゥールその他都市の貧民に大部分を無償で供与する。購入能力をもつ者には買い取らせる。

・価格を低廉にとどめよ。

・小麦配給が急にはできない農村には資金を供与する。

 以上がコルベールによって鼓吹された施策である。われわれはすでにこうした用心や施しが害悪のほんの足しにしかならなかったことを見てきた。p.273  1662年の飢饉の思い出はコルベールの心底に深く刻み込まれた。そして、こうした気遣いこそが、最も重大な王国の経済状態に対し実施するという誤謬の根因となっていく。

 

2.政府の措置

 1661年8月19日、パリのパルルマンは商人が「穀物取引のために結託したり蓄蔵したりすること」を厳禁した。3週後にコルベールは政権の座に就き、1662年の欠乏の主要原因となった8月19日の法令が破棄しなかったばかりか、輸出を承認することによって、この長官は動揺しながらも年々、その重要性を減じて周期的な飢饉を招くにいたる制度を採用した。

 

3.コルベール以前における穀物取引に関する法律

 穀物取引に関する法律はコルベール以前のフランスでは数多い変遷を経験していた。昔は取引は自由だった。専制政治の一形態にすぎない禁止はずっと後になってから始まる。シャルルマーニュからシャルル五世の治世末まで、すなわちおよそ500年間、穀物輸出は共通の権利であった。1537年6月20日の極めて細かい内容をもつ勅令においてフランソワ一世は彼の前任者たちの幾人かが留保していた穀物取引の自由を再建した。

シュリーの政治について、それはこの賢い大臣が農業に与えた保護で特に著名であり、その結果、小麦輸出に反対する法令の問題に関し書き送っている。すなわち、王国内のすべての判事が同じことをするなら、やがて陛下の臣民は貨幣を失い、その結果、陛下もそのようになられるでありましょう、と。

 1631年、ルイ十三世の勅令は体制による処罰のもとに小麦の輸出を禁止した。しかし、ルイ十四世の治下ではフーケが政権の座に就いている時は1657年8月24日の国家参事会の法令は国外への小麦の輸出を許可した。この動機は注目に値する。「州の住民は任意の価格で小麦を売ることを禁止されていたため、p.274  そのタイユやその他課税を支払うことができないのだ。」

 

4.コルベール制度の解説

 穀物取引に関するコルベールの体系は周知のように、18世紀のエコノミストの側から激しい攻撃に曝された。不幸にして、この攻撃はあまりに根深かった。われわれは1661~1669年までこの取引について公表を要する法令を何らもたない。しかし、1667年からコルベールの死去にいたるまでの間に発令された29件の法令は蒐集され、熟考を経たのち、彼の政治のなかで重要部分について評価することができる。

 この14年間に穀物輸出は基本的に禁止されただけでなく、その後も含め56年間禁止された。1664年の関税率によって定められたニュイ(nuid)あたり22リーヴルを支払うことによって許された8件の法令が発令されており、5件はこの賦課の半分ないしは4分の1を支払う。8件は全賦課の免除であり、まさに禁止的法令といってかまわない。最後に、穀物輸出の承認が3~6か月、非常に稀有なケースとして1か年の間だけしか許されるものでないことは注目に値する。

 

5.コルベールはどう弁護され、抗議されたか

 コルベールの弁護論者はこの法律をさえ支持することによってより一貫した体系であることは明らかによりよい結果を招いたであろうこと、だが、特にこの長官は、人々が非難しているのとは異なり、体系的に穀物輸出に敬意を表したのではない。なぜというに、14年間のうち9年間はそれを許したこと、彼は他の理由にもとづき一つの決定をおこなうために穀物の作がら状態に留意しなければならなかったこと、そして最後に、いとも簡単に穀物輸出を許可しない有力な動機を彼がもっていたこと ― すなわち、ルイ十四世がほとんどいつも軍の支配下に非常に多数の兵員をかかえていたここと、政府が安価に彼らを扶養するにそれが好都合であったこと ― を述べる。p.275  じじつ、ほとんどすべての禁令は「国内の潤沢を維持し、冬季に軍隊に容易く食糧を供給できる」必要性に根拠をもっていた。

  これに関しボワギルベ―ル(Boiguillebert)、フォルボネ(Forbonnais)そして彼らを継承したエコノミストたちは勝ち誇ったかのように答えた。すなわち、3~6か月の間だけ穀物輸出を許可し、絶え間なくその所有者を禁令で脅かしつつ、或る場合には収穫の見込みで、また或る場合には軍用の食糧で、さらには敵対国が必要とする小麦を探し求めて防がねばならない必要性などにもとづいて、コルベールは耕作農民を落胆させ、穀物取引をほとんどまったくと言っていいほど許さなかった。したがって、すべての中位の土地は放棄されてしまい、人々はもはや最上質の土地しか耕そうとはしない。タイユの減税は幻想的な慰撫策でしかない。というのは、消費税が1661年以降10倍になっているというのに、土地の産物価格はほとんど横ばい状態のままにある。2000~2200万の人口をかかえたフランスが3年間飢餓を懸念しなければならなかったほど悲惨で明瞭な証拠は、ほとんどの生活必需品の価格が、小麦がほとんどいつも同じ価格で売られているのに、1600年以来3倍になっていることである。この問題についてボワギルベールは、人々が15スーで得ることのできた1足の短靴がその100年後の17世紀初には5倍の価格であったと証言している。フォルボネは1世紀間における小麦価格の比較によってコルベール体系の忌まわしい結果を証明した。ここに彼が挙げる数値がある。

p.276

6.17世紀における小麦の平均価格

1スティエあたりの小麦の平均価格

1596~1605年      10リ―ヴル

1606~1615        8

1616~1625        9

1626~1635       10

1636~1645       12

1646~1655       17

1656~1665(1662凶作)18

1666~1675       10

1676~1685       10

 

 フォルボネの観察によれば、上記表の後半の時期は実をいうと、小麦価格が13リーヴルを上まわる飢饉年があった。しかし、10年間の平均価格はスティエあたり約10リーヴル以下ではなかったか。すなわち、1626~1655年より7リーヴルも低い。

 それに先行する議論は不幸なことに、首尾一貫しない事実に根拠をおき、反証するに堪えないものとなる。われわれは付言できる。p.277  マニュファクチュアとの関連においてコルベールは穀物価格を可能なかぎり、低廉に維持するためにこのようなあらゆる努力をおこなったが、彼の体系は等しく有害な効果を引き寄せた。というのは、土地の産物は外国のそれ以上には上昇せず、国内でまさに低く売られたため、消費は耕作と同時に減少した。そして、未完成品の大部分 ― それは非常に重要だった ― が奨励によってその支持を停止したとき、販路の欠如のために落ち込んだ。

 

7.小麦取引に関するコルベールの書簡

  コルベールの膨大な数の書簡は穀物操作に関する仔細をほとんど提供しない。それに関係するごく少数の書簡が己の制度を非難しているのは極めて奇妙に思われる。1669年9月13日、この長官はオランダ駐在大使ド・ポンポンヌ(De Pomponne)宛てに書き送っている。つまり、「小麦がまったく売れないため、その所有者はその資産から何らの収益も引きだすことができない。このことは「確実なつながりによって消費を減らし、商業を衰退させた」、と。

1669年10月20日のディジョンの州知事宛ての書簡。

・ブルゴーニュは豊作

・ラングドック、プロヴァンス、イタリアで不作 → ブルゴーニ

  ュ産の小麦を移出の必要性

・運搬条件を報告せよ

・資金需要の状況

 1670年3月の知事宛ての回覧状はこう述べる。すなわち、国王は、国外に賦課なしに小麦を輸出することを3月18日から7月1日まで許可したが、この時期が近づいたため、「陛下がその叱正および臣民の商業にとって最も有利とお考えになって決定できるように」収穫状況が豊作かどうかを知ることが重要である」、と。

p.278  最後に1675年7月6日、国家参事会の法令は小麦輸出を禁止したが、コルベールはその数日後、ボルドーの知事にそれの公表を保留するよう書き送っている。1675年7月25日、ボルドーの知事は応答して曰く。自分はコルベールの命令に従った。そして、引き続く今の佳き時期が明らかに「この2つの州が過剰に所有する穀物を外国に売却することによって貨幣を得る自由を国王が承認なされる」のが新たな義務となりましょう。知事はこれに付言して、「この救いは農村がまったく資金不足に陥っているだけになおさら必要であり、タイユの徴税吏によって施行された規制があるにもかかわらず、税取立ての困難さは債務者たちの力によって日々昂進している。」

  コルベールに宛てられた膨大な量の書簡についてここで私は述べることはできない。

 

8.彼が敷いた制度の結果

 われわれはコルベールの穀物取引に関する制度がいかなるものかを述べてきた。ほかに多くの報告書でなされているように、極めて顕著なこの長官の誤謬は公民の呻吟状態や不幸な結果と見なされる。以下を言うのは悲しいことだが、農村住民の状態はルイ十四世の政治、すなわちコルベールが政権の座に就いている期間 ― つまりルイ王治世の絶頂期であり、その大部分を陰鬱にした大きなかつ致命的な戦争の開始期 ― ほどに悲惨なものはなかった。コルベール宛ての書簡はこの問題について最も悲しむべき諸事実から成っていた。

 1675年5月29日、ポワトゥーの行政官はコルベールに書き送る。「細民の間に熱病が蔓延し、農村には非常に大きな貧困が横たわっている」、と。同日、ドフィーネ州の知事レディギエール(Lesdiguière)公は同州の状態に関し非常に悲惨な状況を克明に表わす。

 

9.州の極度の窮迫 〔書簡序文 … 略 … 〕

p.279

10.レディギエール公の奇妙な書簡

 したがって、ルイ十四世の治下でガスコーニュ、ポワトゥー、ドフィーネ、そしておそらくは他の多くの州も同様と考えてよい。1687年、コルベールの死後のことだが、窮乏が際限なく広まったため、彼の後継者たちは毅然たるやり方(500リーヴルの罰金の刑罰)で穀物とあらゆる種の野菜、羊毛、大麻、生の亜麻の輸出を禁止した。

 次いで1699年、州間の穀物取引 ― この取引はコルベールはいつも尊重していたが ― が全面的に禁止された。p.280  ヴォーバンやボワギベールのような勇気ある作品、ラシーヌのそれ、フェヌロン(Fénelon)やカティーナ(Catina)の諫言は、これらのいろいろな施策の結果がどうであったか、王国の10分の9が当時どれほど大規模な貧困に追い込まれていたかを示している。

 

11.穀物取引を扱う際にコルベールの誤謬の原因

  さらにわれわれは、徐々に有名になっていく評価であるが、ヴォーバンは1688年に評価している。すなわち、人口のおよそ10分の1が乞食に身を落とし、他の9割のうち5割が施物を与えることのできない状態にあり、他の3割が借金をしたり裁判で窮屈な思いで頭を悩ましたりしている。最後の3割 ― 彼らは帯剣貴族や法服貴族、聖職者、貴族、政務官、富裕商人、金利生活者だが ― 1万家族を上まわらない。全体として安逸な生活を送っているといいうるのは1千家族にすぎない。

 シュリー …… 王国を豊かにしようとした

 コルベール … 穀物取引に関する法令を乱発して穀物農業を破滅させた地主や耕作農民を破滅させ、カネになる役職の占拠者や大多数のマニュファクチュア経営者や特権をもつ手工業者を保護

p.281  特権をもつマニュファクチュア経営者や手工業者は異なった制度で利益を得た。コルベールについては過度に誇張された気遣いがギルド規制、つまり布の丈・幅・品質の規制、不幸な結果をもたらす規制がいわれてきた。ここにそうした行きすぎこそが、彼の達成しようと望んだ目的から逸らすにいたった。飢餓に関して先入見をもっていたために、コルベールは約4,000万の住民を扶養しうる国家において2,000~2,200万の住民の一部が3年のうち1年は雑草、幹、樹木を食って生きるか餓死するかの分岐点にまで導いた。

 明らかにこのように行動することによってコルベールは当時の偏見に対して自己の責務を果たしたにすぎない。そして、こうした偏見ゆえに彼はより多くの状況においてそれらと抗争する機会に恵まれた。そのうちただ一度だけ、プロヴァンス州のパルルマンが1年間だけ穀物の輸出を許可した1671年12月31日の勅令の執行に没頭したため、コルベールはシュリーが同様のケースでおこなったことを実施した。その後5月10日、彼はプロヴァンスのパルルマンの法令を潰し、彼の当初の命令を維持した。

 

12.この問題に関しなおまだ残っている偏見を教育で是正することの必要性

しかし、コルベールの没後百年経って、少なからず有能で人望があり、賢明な長官が穀物取引の自由を尊重させるためにまさしく政権の座から転げ落ちたことを銘記すべきである。実を言うと、権威が強力であり、尊敬された時代を生きたコルベールは、この自由の結果がその精神を浮き立たせ、より規則正しく穀物輸出を承認したテュルゴーのケースと同じ境遇〔注:更迭のこと〕には出くわさなかった。不幸にしてコルベールはこのような欠点を抱えており、必要な知識をもっていなかったため、彼の執政が窮乏を招き、長官に特異なスペクタクルを与えたということができる。彼は国民の利益に対して一貫して偏見をもち、人民の状態を改善しようとする熱望を持していたにもかかわらず、人民に最も悪い害悪を与えてしまった。善意が為政者に十分にあるということ、一国民の物資的利害についての政治は科学をもたないと信じる者にとってなんと大きな教訓となることか!