コルベールの生涯と執政の歴史(18) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

 コルベールの生涯と執政の歴史(18)

 

p.339 

第17章

1.1672年の収支

2.戦争が必須とした財政政策の特別案

3.この種の事がらに関して収税吏の巨大な利益

4.農業および工業への無用な官職

5.コルベールはすべての職人団体を税収増のためにギルドに編入

6.コルベールは初めて徴税請負制を敷いて新税を採用

7.国家はタバコの独占権を掌握

8.新たなラントの発行

9.国債に関するコルベール、ルーヴォア、ド・ラモワニョン(De Lamoignon)の見解

10.借款金庫(Casse d’emprunt)といわれる銀行の設置

11.コルベールは講和がなると、直ちに重税となっていたラントを廃止する

12.行政における財政操作の要約

13.支出を収入にもとづかせるためのコルベール立案の計画

 

1.1672年の収支

 1672年の経常支出予算は71,329,020リーヴルであった。その8か月前、国王は自らの手で予算を以下のように定めた。

 王室           8,500,000

 軍備のための特別支出     300,000

 糧秣供給                    2,000,000

 対ドイツ交渉                  2,468,000

 対イギリス交渉               3,000,000

 対スウェーデン交渉         1,200,000

 大使                                400,000

 国王の手持ち現金              800,000

 建築                             2,200,000

 細かい施物および航海        500,000

 特別支出                      2,000,000

 バスティーユ                   100,000

 海軍    p.340               7,000,000

 ガレー船                      1,500,000

 国内防備施設                   800,000

 スイスとの同盟                200,000

 商業とマニュファクチュア 150,000

 両大洋間を結ぶ運河          300,000

 公共事業                         100,000

 パリの舗装                      100,000

 返済引当金                      200,000

 軍備の特別支出            33,321,020

 軍用パン                      4,000,000   

 合計           71,339,020

 

 国王の民間への出資はどうか? … 王室、現金、小銭と航海、特別支出、建設、官吏への特別手当の合計=4,200,000リーヴル(総予算の5分の1)

 

 くり返しになるが、州行政の費用、徴税費用、官吏の俸給のいずれもがこの時代においては予算の中にくり入れられていないことに注意しなければならない。

 1672年の支出予算は以上のように計画された。しかし、実質的な支出額は87,928,561リーヴルであった。1670年のまだ平和な頃の予算支出は70,000,000リーヴルで、実質支出は77,000,000リーヴルであった。追加予算は予算が組まれるとすぐに編成された。その翌年、戦争が持続したことはしだいに支出額を膨張させ、1679年には131,000,000リーヴルに達した。p.341  さらに未払いの支出に引きあてるべき必要性はこの数値を1681年には141,000,000リーヴル、1682年には200,000,000リーヴルに上昇させた。コルベールが死去した1683年には115,000,000リーヴルとなった。

 

2.戦争が必須とした財政政策の特別案

 このような支出増に直面したため、コルベールは当時、「特殊事件affaires extraordinaires」と呼ばれた手段に訴えざるをえなかった。この「事件」の数に応じて官職の設置は概して大きな役割を果たした。しかし、これは害悪をさらに大きくする方策にほかならないが、今回もそれに堪えなければならなかった。コルベールはまず、国王付秘書(secrétaires du roi)、フランス財務官(trésorier de France)、公証人(notaires)、管財人(procureurs)の官職の価格を引き上げた。

 同時に90万リーヴルのラントが設けられ、1638年に線引きされたパリ境界線の外側にいる居住者に建物税が課され、首都の新たな範囲内で国王に所属する毛織物・亜麻布工場とすべての建物が売却されたが、これらのことにコルベールは極端な苛立ちを募らせた。これら諸々の施策や他の幾つかの手段によって14,320,000リーヴルを調達できたが、そのうち、過去の苦い体験が思い出されて、また将来への備えのために6分の1,すなわち2,333,333リーヴルが元の状態に戻された。

 

3.この種の事がらに関して収税吏の巨大な利益

 かの「事件」に付随して他の利益1,320,000リーヴルを、14,320,000リーヴルの税について、したがって、国家は11,667667リーヴルを受け取ったわけである。徴税請負人が国家に300万リーヴルを与えることに同意したのは事実である。p.342 残余は10回払いで3か月ごとに支払うことになった。

 

4.農業および工業への無用な官職

 こうして政府は再びこれらの「特殊事件」に引き込まれ、多年、国民を脅かすことになる。不幸にして、それだけで終わらなかった。1672年の致命的な戦争〔オランダ戦争〕の結末はこの種の多くの「事件」を誘発する。この時期に設けられた官職のなかでは農業と工業の発展にもたらされた同じ量の桎梏として子牛の売り子、豚・鶏・皮・鮮魚の売り子、検査官および仲介人、穀物検査官、木の鋳物工、秣仲介人等々が引きあいに出される。いろいろな官吏に与えられたタイユ税の免除は300万リーヴルの収益をもたらした。帰化した外国人に対する課税は50万リーヴルになる。最後に、ルイ十四世治下のこの期間内の「特殊事件」の合計は1,500万リーヴルに上った。そのうち徴税請負人は減免した6分の1を先取した。

 

5.コルベールはすべての職人団体を税収増のためにギルドに編入

工業にいたるまで国家財政のこのような窮乏状態のせいで生産組織が実害を蒙った。というのは、この勅令は次のように規定しているからだ。すなわち、商業、食糧品または工芸の仕事に就いている者でギルドを形成していない者はギルドを、ジュランドを設立して法規を受けるべし。― 1673年3月。フォルボネによると、この「事件」によって30万リーヴルが捻出された。

 

6.コルベールは初めて徴税請負制を敷いて新税を採用

 実際に有効な政策 ― それはまちがいなく不便宜をもたらしたが ― はそれまでも取るに足りない金額のためにエード(aides 臨時納付金)の賃貸借契約において理解されるポストに対する特別税が設けられたことである。p.343  1464年に純粋に政治的目標のためにルイ十一世によって設立されたため、そのポストは事物の力によってやがて普遍的利用のための機関となった。しかし、長い間、その監督がうまく機能しなかった。…コルベールの執政の最初の半分の期間ですらそのポストは10万リーヴルだけを国家に与え、徴税吏だけがここで財産を築きあげた。1654年、パリの商人組合が国王宛てに出した「極めて些少な建言 Très-Humbles Remontrances」はこう述べる。我慢を超えた税の取立ては他の証拠を必要としない取立てを誘発した。また、小書記官および特認状の配布に関わりをもつ者が金持ちになる早さは親方になったり、かなりの数の官職を買ったりする状態においてまもなく見出される。」コルベールはポストをエードの賃貸借契約から切り離し、非常に自由な新税を採用した。2~5スーの4つの税しか含んでいないこの間接税によると、特認状は25リーグの距離に対しては2スーしか支払わず、非常に遠隔地にある場合は5スーである。つまり、特認状が2倍になったとき、地域ごとに1スーだけ増えることになる。したがって、コルベールは官職の収益を請負事務所に置き、国家は最初の賃貸借契約から20万リーヴルを取得した。

 

7.国家はタバコの独占権を掌握

p.344  それと同時にタバコの請負から約50万リーヴルを得た。タバコの栽培はそれまで特別の地域に制限されていた。平和が訪れると、コルベールは自由栽培制度に戻すことを望んだ。この問題について彼の覚書はこう述べる。「タバコや印紙の徴税請負制は廃止すべきである。というのは、国内商業にそれが有害であるからだ。」しかし、そうしている猶予はなかった。なぜというに、50万リーヴルからタバコの徴税請負制は160万リーヴルに上り、彼の後継者たちが彼の立場に従うのを差し控えたばかりか、為すのがいとも容易だった密輸入を抑圧するために彼らはそのマニュファクチュアを規制するためにコルベールがおこなった厳格さを真似し、許可なくタバコを栽培した者をカルカン刑に処した。

 最後に、領地に依存する大多数の小土地所有者はバラバラに離れさせられ、1674年に王国全土、特にブルターニュ州とギエンヌ州でただならぬ雰囲気を醸成した税が錫食器や証紙に対して設けられた。

 

8.新たなラントの発行

 しかしながら、これらすべての財源をもってしても戦費を賄うには不十分だったので、国債とラントの設置に依存せざるをえなかった。コルベールは最後の手段に訴えざるをえなかったのだ。

 彼によると、国家にとって非常に有害なものは信用の濫用だった。同時代人は言う。司法会議所が罪を犯した財務官や謀反人を弾圧した頃、p.345  コルベールは国王に金を貸した者すべてに死刑を科すことを定める勅令を出した。しかし、いかなる法律集にも同じ勅令に関する記述は見えない。それはともかくとして、国債発行に対するコルベールの反発は首尾一貫しており、彼が窮余の一策としてかねがね懐いていた賢明な用心にもかかわらず、外国人がフランス人と同じように処分する能力をもつために市役所にラントを得ることを認め、それを借り受けたことは確かである。この一例をとっただけでもコルベールがいかに使い道を必要としていたかがわかる。

 

9.国債に関するコルベール、ルーヴォア、ド・ラモワニョン(De Lamoignon)の見解

 ド・ラモワニョンは語る。ルーヴォアは税が戦争を招来するゆえに税を懼れ、むしろ国債依存のほうを好んだ、と。同じ動機によってコルベールは国債よりも課税のほうを好んだ。しかし、ルーヴォアの信用は当時絶大であったため、風は戦争のほうへ靡いた。したがって、決断が必須となった。課税と国債のどちらを採るか決定する前に、ルイ十四世はコルベールと意見の異なるド・ラモワニョンに相談した。両者間には反目があった。この協議が終わったとき、コルベールはド・ラモワニョンに言った。「あなたが勝った。あなたは善行をしたと考えている。私はあなたと同じように、国王が借用すべき金を見出したということを知らないのであろうか? しかし、私はそれを申し上げるのを遠慮しただけなのだ。だから、そこに開かれた借金の道がある! 今後、国王の出費を止める手段がいったいどこに残されているというのか? 借金がなされた後には支払うための課税が必要となり、そして、もし借金に限度がないとしても、課税はそれ以上にはならない。p.346

 

10.借款金庫(Casse d’emprunt)といわれる銀行の設置

 したがって、くり返しになるが、非常に重い条件で借金がなされた。1665年、コルベールは利子率を20ドニエに切り下げた。1672年2月に国王に貸し出された資金の利子率はドニエあたり18%に切り上げられた。しかし、この利子率はどんどん上昇し、16、14、7、7.5%それ以上にもなった。フォルボネの述べるところをひと言でいえば、1672年から1679年までになされたほとんどの借入金について国家は75~70%も占めた。同時にコルベールは当時借款金庫と呼ばれるものを設立した。戦争のあいだ大きな仕事を受けもったこの金庫は世人がもち込む資金を保管した。

 

11.コルベールは講和が成ると直ちに重税となっていたラントを廃止する

 講和条約が調印されるや否や、コルベールが懐いた最大の危惧はこの予算の均衡を回復することだった。このために彼は戦争終結後最初にドニエあたり20%で操作することが可能となった借金の手段を用いてラントの払い戻しをおこなった。この償還状況は特筆に値する。新たな借入金がなされるのをコルベールが見たとき、彼は財務省が戦時中になされた借入金の設定を利子率で、そしてそれ以後の借入金についてはドニエあたり15%で証券と引き換えによって古いラントを支払うことを告げた。当然のことながら、債権者側は簡単には承知しなかった。それでも、償還は毎年古い債務から順に始めると宣した。1683年12月31日にその証書を提出しない債権者からすべての権利を剥奪すると伝達した。こうして100万リーヴルのほとんどの国債は極めて低い利率で償還された。・・・ p.347 ナイメーヘン講和の5年後、ほとんどすべての債務は一掃され、戦時期につくられた無用な官職は廃止された。その前払い額は700万リーヴルを凌駕しなかった。借款金庫は2,700万リーヴルだけを支払う義務があった。そして、負債は800万リーヴルとなり、戦前の状態に戻ったが、彼は再び平時以上にしてはならないことを心に命じた。

 

12.行政における財政操作の要約

 ここでコルベール執政の財政政策の結果を要約しておきたい。

 1661年、この大臣は8,400万リーヴルの税を見た。そのうちラント、給料または俸給分すなわち5,200万を控除する必要があった。したがって、財務省の純収入は3,200万残り、その形状支出は6,000万であった。つごう、毎年、2,800万の赤字となった。

 1683年、すなわちコルベールが死去したとき、税収は1億1200万リーヴルであり、そのうちラントや俸給に引当て分として2,300万が控除された。したがって、財務省の収入は8,900万、その支出は9,600万であり、差し引き僅か700万の赤字だった。このことから、戦争が戦争がおこなわれなかった時期の財政状態がどのようであったか推察される。

 このようにタイユ税を2,200万リーヴルも減らしたにもかかわらず、コルベールは2,800万もの課税から純収入を増やし、2,900万のラントや俸給を減らした。このことは実質的に5,700万の黒字を国家にもたらしたことを意味する。

 

13.支出を収入にもとづかせるためのコルベール立案の計画

 このような数値につけ加えるべきものはもはや何もない。この大臣が同意した大部分の「特殊事件」、特に自由な職人たちをギルドに編入した義務や、p.348  農業にとって有害な多くの官職を設置したことは確かに愚策ではあったが、200~300万の新たなラントを発行するよりはマシだった。また、明らかに税関やポスト、タバコの販売、証紙等を請負人に請け負わせるのではなく、これらの収益の開発を徴税局に付託したほうがよかった。そうすれば納税義務者を徴税請負人の誅求から解放し、納税義務者が現金化する巨額の利益を国庫にもたらすという二重の利点があったからである。しかし、彼の制度の欠陥や同時代の慣行に由来するこのような部分についてコルベールが配慮した2つの懸念は秘匿すべきだった。2つの懸念というのは、まず、タイユ税の負担が当時においてまちがいなくこのような平等の理念から外れているため、消費物資に対する課税によって賦課負担を可能なかぎり平等にすること、もう一つは収入に合わせて支出を抑制することである。

 コルベール以降、彼の後継者たちは国債への道を歩む。たとえば、1715年、公的負債総額は約1億6千万から2億リーヴルに達した。