コルベールの生涯と執政の歴史(9) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

 コルベールの生涯と執政の歴史(9)

 

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第9章 

1.コルベールの産業制度

2.彼の執政以前におけるジュランドと親方制度の組織

3.マニュファクチュアとギルドに関する法規(1666年)

4.1480~1620年のフランスにおける産業の繁栄状態

5.同時代人により評価されたコルベールの制度

6.1664年の関税率引き上げ

7.コルベールの規制に対するマニュファクチュア経営者の反対

8.初犯者に適用された抑圧措置

 

1.コルベールの産業制度

 ボーヴェのつづれ織王立マニュファクチュアは1664年に、ゴブランのそれは1667年にコルベールによって設立された。しかし、この初期時代ののちもコルベールの産業制度が日一日とより明確になっていくのを認めることができる。この有名な制度はひと言でいえば、自然に形成された。産業がフランスにおいて人口と王国の重要性にどれほど比例した地位を占める分野であっても、コルベールの思想においては次の3つの要件が必要だった。

 ① 網状組織にすべての職業の労働者を積み込んだ強力に編成されたギルド

 ② あらゆる手工業者、マニュファクチュア経営者を法規に服従させること、その法規はあらゆる種の織物、幅、丈、染色、質に関する規程である。

 ③ フランスの産物と競合するすべての外国製品の国内からの締め出しを図る関税

p.216  18世紀のイタリアの経済学者が「コルベール主義」の名称を与えたのはこの体系であり、攻撃にせよ防禦にせよ今日でもなお大多数の私益を切り詰めるところのものである。… というのは、大革命もそれ自体を廃止することはせず、ナポレオン ― 彼は19世紀に対してルイ十四世治世の偉大さと欠陥の後景を与えるという作業を引き受けた ― はコルベールの業績の一部分を再現した。ここでは最も重要な部分の一つが問題になっているため、この問題について幾らかの仔細を述べる必要があるだろう。

 まずコルベールが採用した制度、すなわちギルドとマニュファクチュア規制について検討してみよう。翌世紀の作家フォルボネ(Forbonnais)は正当にもフランスに関し次のように語る。「不定期の税を課されたこの国家はひとたび懐いた誤った政策を維持するのに最も執拗である」と。ギルド制度の歴史はこのことの正しさを新たな証拠となる。

 

2.彼の執政以前におけるジュランドと親方制度の組織

 10~13世紀:封建的抑圧に対抗するためのギルド → これ自体が貧しい労働者にとって抑圧の道具となっていた。

 すでに13世紀に王政府の布告はギルドの影響の二重結果について述べる。1348年、勅令は、熟練したすべての者が親方職の認定を受けずに営業することを許可した。1358年、シャルル五世の石工に関する勅令は、ギルドの諸法規が「共通の利益よりむしろ各職人の利益のためにつくられている」ことを述べる。p.217  しばらくしてギルドはマイヨッタン暴動(1382年)において積極的な役割を演じたため、シャルル六世は彼らの特権を無効と宣し、パリ市長から独立する職業の巡察官を制定し、職人たちが集会をもつのを禁じた。ところが不幸にして、ルイ十一世はその封建制との闘争で職人層の支持を必要とし、彼らを保護した。まもなく彼らの要求は限度を知らないものとなった。親方試作の条件がつけ加わり、入会金は強化された。同時に、職業が無限に細分化され、それぞれがギルド法規を保持した。それで、非常にくだらないバカげた訴訟が巻き起こった。訴訟期間は1530~1776年、鶏屋と焼き鳥屋の訴訟が120年も続くことになった。

p.218  以上がギルド制度の最も明瞭な結果である。幾たびもくり返してオルレアン、ムーラン、ブロワの布告はギルド制に由来する悪弊を除去しようとつとめた。1581年12月、アンリ三世が発令した勅令 ― 最近までとかく問題視されてきた勅令だが ― はギルドに差し向けられたあらゆる苦情を要約する。アンリ三世は彼がその勅令において「労働は国家および国王に帰属する権利(droit dominant et royale)である」と述べたことについて非難を浴びた。したがって、この権利をギルドに付託することが必要ならば、国王または国家においてこの貢献がなされるべきではないのか?  職人組合の横暴について1581年の勅令の序文につづく概要はこの問題について最も明瞭にふれている。…〔中略〕…

p.219  同じような序文は結論として親方職、コルポラシオンとジュランドの廃止を謳う。「勅令の文そのものに従って、職人がたくさんいることが人民を利して非常に高い価格で商品を手に入れることが知られているため」アンリ三世は、報酬を受けて親方試作を免除された一定数の親方をつくるにとどまった。同時に彼はまた、ジュランドのいない町なくしてすべての職人が親方試作なしで済ますのを許した。この同じ勅令によりフォブールの親方たちはその町に居を定めることを許された。リヨンの労働者は国内外においてひとたびリヨンの親方から承認を得たならば、自由にパリのパルルマンの管轄下で年季奉公させることを許された。パリで承認された親方は国内のありとあらゆる処で工業を興すことができた。そして、この勅令の最後の節は、ルーアンのパルルマンがパリの親方がその管轄に入らないという条件でのみそれを登録することに同意する背景となった。 

 最後に、パリでの入会金は60~200エキュ

     その他の場所での入会金は30エキュ

     小さな村落での入会金は1エキュ

 したがって、1581年勅令は多くの労働者や消費者にとって大きな改善をもたらし、ギルド制度が私人の利益を妨害したのであれば、これほどに強力にならなかったであろうことは疑いを入れない。しかし、不幸にしてギルドはまもなく強力になった。名士会の請願(1597年のルーアン)にそれが見られる。

 アンリ四世は親方法規を再制定したが、戦争のため暫くは実施されず。1597年の勅令をみてみよう。「多くの有能かつ優れた職人・労働者は自分らが居住している町において徒弟奉公をなしえないため、親方として承認されえない。…」

p.220  当時のパリでは職人たちが親方試作を仕上げることなしに、あるいは親方職の許可証をもたずして営業できる特権をもつ多くの場所があった。それはタンプルの囲繞地、フォブール・サン=タントワーヌ、フォブール・サン=マルセルである1597年の勅令はルーヴルの回廊も付加した。数年後の1604年、金および絹の毛織物のマニュファクチュアの設立に関する勅令はこのマニュファクチュアですでに3~6年働いた労働者に対して親方試作の義務や親方免状なくして店舗を開く権利を与えた。この種の他の例外規定は後における一連の勅令によって与えられ、1625年、1628年、1644年の布告が有名である。これらによって親方職の権利は無償で承認され、また、少なくとも植民地において6年間仕事をおこなったフランス人は親方試作の義務は免除された。私的利害が公益の仮面を付けるようになったとき、人間のなせる法律はいかに惨めな結果を招くことか! それは新世界においてである。フランスの貧民は奴隷買いに走るのだ。

 だが、ギルド制や親方制に向けられた執拗な抗議が1614年三部会の会期中より起った。それによると、ブロワ三部会の1576年以降に創設されたすべての親方職は廃止さるべきこと、営業はすべての貧しい臣民に解放され、専門家によりその作品を臨検し、警察監視員(juges de la police)がこれを監督すべきであることを要求した。さらに三部会は工芸に関するすべての勅令は将来、いかなる親方免状についても税を課さず、いかなる勅令も工芸のために税を徴収できなくなったからには廃止すべきであること、p.221 商人や職人がその営業許可にありついても、あるいは開業にあたっても裁判所の官吏に対してにせよ、親方監視員および商品臨検官に対してにせよ、金銭を支払うべきでないことを要求した。最後に1614年の三部会は、商人や職人が宴会または他の目的のために裁判所の官吏および親方監視員のために公的費消までして出費させるべきではないことを訴えた。

  しかし、かくも純粋に原則的で理に適った1614年の三部会の請願は不幸にして忘れ去られてしまう。だが、この同じ時期に政府の恩恵や世論の影響を受けて親方制度に関する規制は多くの諸点についてごまかしがあることが判明した。

 以上がコルベール以前のギルド立法が経験した大まかな変遷である。ギルド立法についていえば、それは特権を厳しくし、飽くことを知らない必要だった。貴族的封建制度は聖職者にとっても都市の住民、商人またはブルジョアにとっても有害であり、彼らの王権に対する抗争はフロンドの乱とともに終わった。これとは逆に、産業上の封建制度は国王から最も貧しい農奴にいたるまで王国全土に重くのしかかった。すなわち、或る者は商品価格を思いどおりに定め、また或る者は一度に価格によって、独占によって法外な利益をものにした。

 親方試作、入会金、宴会、これらがプロレタリア的奴隷を生み出す元となった。

 1614年の三部会がこの制度を批難したことによって当時の世論を代表したものであることに疑いを入れる余地はない。最後に、この特権を打破し、弱め、その崩壊を準備しようとする王権の傾向はすでに引用したすべての勅令あるいは政府自身が17世紀の前半において労働者に対抗してギルドに関する諸法の適用を緩和したという事実をもたらした。

p.222  この責務を実行すべくコルベールが現われるのである。規制執行のこうした緩和が他の幾つかの結果のなかでも悪質商品の取引を招いた。これはまちがっていたのか? 経験により確かに範囲は修正された。しかし、コルベールが厳格さを助長する一連の条項を付加したことにより、旧来の親方制度に回帰しようとしたのは事実である。

 コルベールが最初に手がけた法規則は1666年4月8日付の王国マニュファクチュアおよび製造(manufactures et fabriques du royaume)に関するものであった。この時から1683年までこの問題についてコルベールが手がけた規制や訓令は44件以上にのぼる。コルベールが設置した巡察官や代理人の熱心さのために1683年から1739年までの間に230件もの勅令、法令、規制が発令された。そして、指導という名のもとに産業を規制し導くというこうした熱心さはテュルゴーの努力にもかかわらず、大革命まで存続するのである。

【コルベールの信条】

・フランスの産業を飛躍的に発展させること

・イギリス、オランダの毛織物業、フランドルのつづれ織、イタリアのガラスと絹産業に追いつき追い越すこと

・国内の再熟練のマニュファクチュア経営者を召集し、彼らの意見を聴取すること

p.223  1666年8月23日の勅令はこの問題に何らの疑義を入れない。序文は述べる。オマール(Aumale)のサージ=マニュファクチュアは過去数年来、非常に規律が弛んでいるため、労働者は勝手気ままに丈や幅の織物を作り、その製品の粗悪さゆえに販売量が恐ろしく減少した、と。第1条は述べる。「親方が1人もいないため、そのことが混乱と無秩序をもたらしている。したがって、陛下の御意にあるように同業組合を結成しなければならない」。

 1669年8月のもう一つの勅令はそうした非難を一般化し、以下のように述べる。「金・銀・絹・羊毛・糸のマニュファクチュアおよび染色と漂白に従事する労働者の規律弛緩が甚だしく、彼らが作る製品はもはや満たすべき品質を欠いているため、法規や規制案が完全に再建されるよう用意された。」

かくて、親方制度のない処ではそれが設置され、すべての同業組合に法規が与えられ、この手段によって優れた品質、堅牢な染色、均一な丈・幅が確保されるようになった。これがコルベール体系の本質である。不幸にも、ひとたびその目的が固定されると、すべてが目的達成のために向かう。諸特権が好まれ、それらは、それらが労働の自由に最も敵対的な諸条項を起草する規制のかたちで導入された。1581年のアンリ三世の勅令は1人の親方に1人の徒弟を許した。靴下・編物製造人の徒弟奉公期間は5年だった。年季奉公期間が終わると、職人奉公の期間が始まり、まず最初に30リーヴルの入会金が支払われ、その期間は5年以上になった。この期間が過ぎると彼らは親方試作を作ることを許される。つまり、靴下・編物を販売する権利を獲得するまでには実に10年を要したのである。同じような規定のなかで比較的に不都合でないものは同一家族内で仕事をさせなかったこと、競争者の数を制限したことである。

p.224  じじつ、規制は幾つかの例外を置いたのだが、それは親方の息子や娘に便宜が図られたことだ。毛織物業においては親方の子息は2年間の徒弟奉公を終えたあと18歳で親方になることができた。また、彼らは無理に徒弟奉公に服したり、親方試作を提出する義務をもたなかった。したがって、こうした免除はほとんどの場合ごく普通に見られるところだった。親方の娘については職人と結婚した者はなおまだ彼が職人奉公をしなければならなくても、その義務は免除された。靴下・編物製造人の娘たちはその夫の入会金の半分を免除した。…等々。

 このような制度とともに罰金と財産没収は無限大に増えた。

 罰金および没収財産の2分の1は国王が取得

 罰金および没収財産の2分の1はマニュファクチュアへ

 罰金および没収財産の4分の1は貧民救済へ