コルベールの生涯と執政の歴史(8) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

コルベールの生涯と執政の歴史(8)

 

p.202 

第8章 

1.ラングドック運河

2.ラングドック運河を開設する動機

3.リケ(Riquet)によるコルベール宛ての提案

4.乗り越えなければならない困難

5.個人または国家が開設すべきかの討論

6.後者の採用にいたった理由

7.リケは同僚による羨望と中傷の的となる

8.コルベールはリケに真実の厚誼を示す

9.運が開設のための諸経費

10.この主題に関するコレネイユ(Colneille)の詩

11.オルレアン運河

 

1.ラングドック運河

 この運河の構想を最初に立ち上げたのはシャルルマーニュである。歴代フランス国王もこの考え方に飛びつく。フランソワ一世、シャルル九世、アンリ四世、ルイ十三世も国家参事会での議論に加わる。

 

2.ラングドック運河を開設する動機

 これが求められた動機は明瞭である。

・大西洋と地中海の商品が相互に運搬できる。つまり、ジブラルタル海峡は潮の流れが速く、航行は危険である。

・ラングドックまたはギエンヌが飢饉に瀕した際、穀物を容易く補給できる。

・麦作の豊かな上ラングドックから、貧弱な下ラングドックにほとんど費用をかけることなく運搬できる。

・リヨン近辺が産出するブドウ酒その他商品の交易が可能となる。

・当時、地中海と大西洋の2大洋間の運送は外国船に依存しており、その費用は莫大な額になっていた。p.203

・国威発揚

 オード(Aude)川とガロンヌ川は14リュ―の隔たりがある。当初、この2つの河川を運河で結合するのはさして難しくないように思われた。さらに、その計画が国家に、あるいは州知事の申請にもとづいて検討されるたびに、その実行は可能とされた。

 

3.リケ(Riquet)によるコルベール宛ての提案

 ピエール=ポール・ド・リケ(Pierre-Paul de Riquet)はプロヴァンス州の貴族でボンルパ(Bonrepas)の領主が計画案を上程。p.204 リケはコルベールにトゥールーズ大司教、サン=パプル(Saint-Papoul)司教およびその他の高身分の人たちが自分と一緒に現地に赴いて、運河建設の可能性を認めたと説く。

 

4.乗り越えなければならない困難

同計画の主要な困難はピエール・ノールーズ(Pierres Naurouse)という名の分水嶺まで水を引くことだった。この分水嶺の高度は海抜100トゥアーズあった。リケは付近の多数の小川から引水を考案し、かくて成功は確実視されるようになった。

 トゥールーズ大司教はコルベールに対しリケを推挙する。しかし、実際に着工されるまでは多年を要した。ラングドック議会が費用負担をしなければならなくなったとき、議会はリケ計画の検査のために委員を任命した。そして、リケはまず試作の排水渠を造成することを決めた。この試作のために20万リーヴルを要したが、彼は自信をもっていたため、その費用を自弁した。p.205

 1665年5月25日、リケはパリへ行き、ここで特許状を得て2か月後に帰郷。そして実施方法を討議するためふたたびパリに赴く。

 

5.個人または国家が開設すべきかの討論

p.206   こうしてすべてがリケの期待どおりに進展するかに見えたが、彼は今一度新たな試練を経験せねばならなかった。運河開設の費用は当初6千万リーヴルと見積もられた。しかし、国王もコルベールもこれほどに多額の費用を出資することを希望しなかった。当時の国王は単年度だけで6,242,828リーヴルを建築費に充てていた。ラングドック知事のコンティ(Conti)皇子は議会を招集し、運河建設の促進を訴えた。

・1666年2月26日の議会の声明:今も未来も運河の費用負担に応じない。

・リケの再提案:① 運河建設者に必要な土地を与えるため、これを国王に負担してもらう。この土地から上がる収益をもって工費に充当する

       ② 運河の両岸に城館、水車小屋、倉庫をつくる権利を付与する。

 

6.後者の採用にいたった理由

p.207  なぜ、計画が個人に付託されたのか? 重要な史料を蔵する「ラングドック運河の古文書」によれば、参事会の大多数は絶え間ない監視と日々の出費を要する施設の建設を公共の管理に任せるのは適切とはいえない。所有権を個人に与えることによって彼がその企画の繁栄に関わらせることのほうが遥かに利点多く、かつ確実である。こうすれば、財政における一時的な困難も、国家の災難も状況が変わらないかぎり、その仕事についての妨害の心配はいらなかったし、同時に運河の堅実さ、維持、補修も確保された。

 

7.リケは同僚による羨望と中傷の的となる

 かくてリケの提案は1661年10月の勅令に結実する。リケは彼がこれまで費やした出費の穴を埋めるため新たな封土を購入し、この土地を運河建設に充てた。

  国王は運河通貨の商品輸送の料金を定め、これを費用に充当するために小売商人および塩商人の官職を設置することを命じた。議会のみがこれに反対した。6年間を費やしてピエール・ド・ノールーズの分水嶺とガロンヌ川の間に位置する運河の全体が完成する。リケの後援者のトゥールーズ大司教はその州都に向かってノールーズを出立し処女航海の旅に出た。p.208

  運河建設は成功したが、その反面、リケへの羨望と中傷が彼に集中したが、リケは動じなかった。

 

8.コルベールはリケに真実の厚誼を示す

 その後リケ―は幾たびも運河を修正し、工夫を凝らした。仕事を指揮し監督する者の総計は時によって1万2千を数えたため、p.209  幾つかのアトリエに分割し、各アトリエに1名の長官、5人の監督、15人の労働者がいた。リケは長男の補佐を受ける。

 コルベールは彼らに対して厚誼の限りを尽くした。リケはあらゆる財産をつぎ込み、いろいろな処に借金をした。

 1672年、リケは病に臥したが、コルベールは労いの手紙を送っている。

 

9.運河開設のための諸経費

リケが死去した(1680年10月11日)のち、6か月後に完成した。その全長54リュー、水門数は74か所にのぼった。p.210

 ルイ十四世の出資額は7,736,555リーヴルだった。ただし、運河古文書によると、この金額が全部注ぎ込まれたのではないことを示す。

 国王負担分    7,484,051  p.211

 ラングドック議会 5,807,831

 リケ       1,957,517

  セット(Cett)港およびトー(Thau)池から海までの連絡運河の作業

・国王が完成を引き受けた作業を差し引けば、        1,080,000

・1667と1682年の決算報告による運河総経費        14,169,399

この金額にリケ負担の特別の業務(倉庫、旅籠、水車小屋) 2,110,000

  つごう、運河建設の総費用は             17,000,000

 

10.この主題に関するコレネイユ(Colneille)の詩

 コルネイユのこの体系に対する解釈・・・〔略〕

・1684年 ・・・ リケ―とコルベールの死後、ルイ十四世はヴォーバンに命じてラングドック運河の総行程を点検させ、その結果、幾つかの改修工事をおこなった。p.212

 

11.オルレアン運河

・1679年3月の勅令:王の兄弟に実施させる。条件は航行、裁判、領主権の高給的享受。

・1606年 シュリーはロワール川の一方の河岸とロワン(Loing)川の一方の河岸を結ぶブリアール(Briare)運河によってセーヌとロワールを結ぶという大計画を企図。ブリアール運河の全長は20リューだが、ここに40門の水門の設置を要した。この運河は生活必需品や原料を首都に搬送できる極めて重要な運河であり、p.213  また、オルレアンとブリアールの間が極端に折れ曲がっているため、陸上輸送には大変不便だった。

 オルレアン運河はオルレアンの北方2リューに位置するモラン(Morand)港によってロワールと連絡しなければならず、モランの森を通ってモンタルジ(Montargis)近郊のスポワ(Cepoy)でブリアール運河と接続した。ロワール川の下流および大西洋から来るブドウ酒、火酒、木炭など多くの商品が輸送できる。オルレアン公はその権益を長く手放そうとせず、1692年3月5日になって同運河の自由航行を承認した。p.214