コルベールの生涯と執政の歴史(7) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

コルベールの生涯と執政の歴史(7) 

 

p.186

第7章

1.フランスおよび外国の作家に与えられた年金(1663年)

2.外国の学者宛てのコルベールの書簡

3.この年金の政治的目的

4.ラ・フォンテーヌ(La Fontaine)はコルベールの愛顧を受けず

5.碑文、美文、科学、彫刻、絵画アカデミーの創設(1663,1665,1666年)

6.アカデミーフランセーズの会員コルベールによる授賞式での演説(1667年)

7.出欠簿

8.ルイ十四世の建築費用

9.ルーヴルの列柱

10.パリのル・ベルナン(Le Bernin)(1665年)

11.ヴェルサイユ宮の経費問題に関するコルベールのルイ十四世への助言

12.ルイ十四世治下における建設費総額

 

1.フランスおよび外国の作家に与えられた年金(1663年)

 マザラン執政下で年金授与の文士にメズレー(Mézerai)4,000リーヴル(1672年まで)がいる。

p.187 コルベールが政権に就くやいなや、大急ぎで文士の地位向上のために尽力する(1663年の法令):

  ラ・シャンブル(La Chambre)(王の侍医)      2,000

 コンラール(Conrard)                               1,500

  ルクレール(Leclerc)(詩人)                        600

  ピエール・コルネイユ(劇作家)                      2,000

  デマレ(Desmaretz)(作家)                      1,200

  メナージュ(Ménage)(批評家)                  2,000

 ピュール(Pure)(ラテン史家)                   1,000

 ボワイエ(Boyer)(詩人)                             800

  コルネイユ(Corneille, le jeune)(詩人・劇作家) 1,000     p.188

 モリエール(Molière)(喜劇詩人)                    1,000

 バンスラード(Benserade)(詩人)                  1,500

 ル・コワント、ド・ロラトワール(Le Cointe, de l’Oratoire)(歴史家)1,500

 ゴドフロア(Godefroi)(王の修史家)            3,600

 ユエ・ド・カーン(Huet de Caen)(Origèneの訳出者)  1,500

 シャルパンティエ(Charpentier)(詩人・弁士) 1,200

 コタン(Cottin)(詩人・弁士)                        1,200

  ソルビエール(Sorbière)(学者)                  1,000

  ドヴリエ(Dauvrier)(学者)                        3,000

 オジエ(Ogier)(神学・美文家)                   1,500

 ヴァリエ(Vallier)(アラブ語の専門家)            600

 ル・ヴォワイエ(Le Voyer)(美文家)           1,000

   ル・ラブルール(Le Laboureur)(歴史家)     1,200

 ド・サン・マルト(De Saint-Marthe)(歴史家)1,200

 デュ・ペリエ(Du Perrier)(ラテン詩人)         800

 フレシエ(Fléchier)(フランス・ラテン詩人)    800

 ド・ヴァロワ(De Vallois)(ラテン史編纂者)  2,400

 モーリ(Maury)(ラテン詩人)                        600

 ラシーヌ(Racine)(詩人)                            600

 ド・ブルゼー(De Bouzeis)(神学者・東洋語) 3,000

 シャプラン(Chapelain)(詩人)                    3,000

 カシーニュ(Cassigne)(詩人、弁士、神学者) 1,500 p.189

 ペロー(Perrault)(詩人、美文家)              1,500

 メズレ(Mézerai)(修史家)                         4,000

 1,200~1,500リーヴルの年金を受給した外国人、Huyghens, Heinsius, Bæklerus, Wasengeil, Issac Vassius

 

2.外国の学者宛てのコルベールの書簡

 明らかに科学や文学への愛好はコルベールのこうした決心は第二義的な動機であった。彼はなによりも外国人に対する見せびらかしを期待した。シャプランが1663年5月17日、コルベールに書き送った書簡を見れば、この点については疑いの余地がない。ドイツの貴族ヴァッセンガイル(Wassengeil)からコルベール宛ての書簡においてヴァッセンガイルは年金受給者名簿を描き、コルベールはスペインの同情を観察させるために同国に派遣したと述べているが、シャプランはコルベールに対し、このヴァッセンガイルは至る処で、とりわけスペインにおいて出身国の別なく文士について国王の恩師が与えられると吹聴している。

p.190

3.この年金の政治的目的

  コルベールによって外国の文士・学者に与えられた年金は2つの政治的目的をもっていた。というのは、それらが国外に対してフランスの偉大さと寛大さという高邁な印象を惹き起こし、与えると同時にそれら年金は取得対象となる人物をして文学の威厳とは両立しがたい諸個人の業績を政府に帰依させることになったからだ。

 さらにこのサービスは国家にとって高くはつかなかった。その結果は恩賜に対する大げさな額と何らのかかわりをもたない。p.191  フランス人と外国人の文士に対する年金額はけっして総額で10万リーヴルを凌駕することなく、外国人への年金が廃止された1672年以降は7万5千リーヴルだった。

 

4.ラ・フォンテーヌ(La Fontaine)はコルベールの愛顧を受けず  〔略〕

 

5.碑文、美文、科学、彫刻、絵画アカデミーの創設(1663,1665,1666年)

 年金により学者たちを奨励すると同時に、コルベールは多数のアカデミーを創設することによって彼の野心の中で最も気宇壮大な目的を呈示した。つまり、美文アカデミー、科学アカデミー、絵画・彫刻アカデミーがそれだ。

 彼はリシュリュー枢機卿を模倣する。美文アカデミーは1663年12月に設立された。当初はアカデミーフランセーズ内の少数の会員から組織されたため、同アカデミーはメダル、襟章のために頻繁に使用される碑文や銘句を作りだすためにコルベールの古文書館に参集した。ここから東インド会社の高慢な鉤句が由来するのだ。p.192  当時、美文アカデミーはまだ小さなアカデミーにすぎなかった。というのは、同アカデミーは4人の会員、すなわちシャプラン、シャルパンティエ、カッサーニュ、そしてブルゼーのみから成っていたからだ。しかし、この仕事に参画する会員の数はしだいに増えていった。修史家の資格でラシーヌとボワロー(Boileau)が協力した。他方、つねに増大しつつあったメダルへの愛好心はアカデミーの重要性をつねに増大させ、事あるたびごとに同アカデミー会員はブロンズまたは大理石に国王の称賛の辞を大げさなスタイルで彫刻させた。

 科学アカデミーは幾何学、天文学、物理学、力学、解剖学、化学を完成させるために1666年に設立された。

 

6.アカデミーフランセーズの会員コルベールによる授賞式での演説(1667年)

 アカデミーフランセーズはコルベールを会員に加えた(1667年)。p.193  同アカデミーの歴史家ドリヴェ(D’Olivet)神父の信条にもとづいてコルベールを任命することにより、コルベールが入会演説を許可すると述べ、このような恩恵はコルベールにのみ与えられると述べた。コルベールがこのような特権にほとんど満足しなかったように思われる。

  コルベールは慣例に倣い、入会演説の義務を全うした。暫くして手間をとってアカデミーは辞書編纂に着手し、その完成に40年を費やす。会議時刻を8時間と定めた。

 

7.出欠簿

 同時に辞書の公刊を早め、アカデミー会員の熱情を刺激するためにコルベールは出欠簿を付けはじめ、参席者には日当を支給した。

 

8.ルイ十四世の建築費用

 しかしながら、文士のための年金やアカデミー創設はコルベールの美術に対して与えた奨励と較べると微々たる部分しか占めない。1664年1月2日、ルイ十四世はラタロン(Ratalon)卿の後任としてコルベールを建設大臣(Surintendant des Bâtiments)に据えた。この部署は以前こそ資金不足ゆえにさして重要な職ではなかった。だが、財政秩序が再建され、コルベールがもともと熱意のあったせいで、建設省はその性格を変えた。結果からみると、ルイ十四世が建築のために費やした費用は莫大な額に達した。 p.194 後世の著名人による概算を見てみよう。

 ヴォルテールは5億リーヴルと見積もり、ミラボーは12億と見積もる。さらに、ヴォルネー(Volney)は46億リーヴルと見積もった。ヴォルネーはルイ十四世に関する記録簿を焼却してしまったと言われる。ところが、この記録は再発見され、王立図書館に多くがコピーで保管されている。これによると、16億5千万リーヴルであることがわかる。当時のフランスの年々の予算額平均は9億リーヴルであることから、これがいかに多額であるかがわかる。…20年もの間、コルベールのこの出費の処理をほとんど全部任されることになった。p.195  また、彼はイタリア旅行の際に育んだ美術に対する鋭い鑑識眼をもっていた。さらに彼は国王を喜ばせ、彼を気に入らせる確実な方法とは、建築、絵画、彫刻の驚異で王を取り巻くことを知っていた。彼は国王のために有能なすべての芸術家を招き入れ、彼の活動を彼らに紹介し、彼らの計画を検討し討議した。

 

9.ルーヴルの列柱

  コルベールが没頭した最初の計画はルーヴル宮の正門の建築である。国王の筆頭建築官ル・ヴォー(Le Vau)がデッサンを作成したが、コルベールは計画を白紙に戻し、パリの建築家に新しい計画書を委託した。医師のクロード・ペロー(Claude Perrault)を登用したが、コルベールはなおも躊躇する。イタリアには当時著名な芸術家がおり、彼はベルニーニ(Bernini)を招く。ベルニーニは渡仏を躊躇したが、3万リーヴルを与えて抱き込んだ。p.196 

 

10.パリのル・ベルナン(Le Bernin)(1665年)

 ル・ベルナンが子供と弟子を引き連れてパリを訪れる。国王の命令に従って、ベルナンが通過するすべての町の首長は彼に挨拶し、熱血王のみが用意なしうる公式の祝宴や貢物を提供した。

 有能な職人ル・ベルナンはルイ王の胸像をつくることを提案した。そして、ベルナンはルーヴル宮の建設プランを発表し採用される。かくて1665年10月着工。p.197 ところが、ル・ベルナンはすべての旧家屋の破壊を要求したため、国王およびコルベールの意向と真っ向から対立し、結局のところル・ベルナン案も流れてしまう。結局、クロード・ペローの案を採用することになった。ルイ王はル・ベルナンをパリに留めおくことを希望し、年額3千ルイ金貨を約束した。ル・ベルナンは冬の厳冬が自分の健康に有害であるという口実を設けてフランス辞去に固執した。しかし、本当の理由は、ル・ベルナンがルブラン、ペローおよびその他の悪意ある芸術家が彼の能力を疑ったからだといわれている。ルイ十四世は彼に3千ルイ金貨(3万3千リーヴル)を与え、年金額を3千リーヴルとし、弟子たちには1,200リーヴルを供与した。そして、彫刻・美文アカデミーの勲章を授与した。 

 6千リーヴルの年金は1683年まで与えられ、総額10万3千リーヴルに到達。ル・ベルナンはルイ王の胸像を作ったが、ローマからもルイ十四世騎馬像を送った。これはヴェルサイユに保存されている。幸いなことに、ル・ベルナンのルーヴル改造案はコルベールによって退けられ、クロード・ペロー案が実行に移されることになった。

 

11.ヴェルサイユ宮の経費問題に関するコルベールのルイ十四世への助言

 コルベールはルイ王の飽くことを知らない建造要求に手を焼く。これは明らかに財政を圧迫した。1667年以降、コルベールが懐いたこの危惧は非常に大きなものとなる。p.198

 ヴェルサイユ宮建造のために150万エキュを要した。この額面をどうして調達するかが至難の業となった。

 

12.ルイ十四世治下における建設費総額

 ルイ十四世が建築・美術、マニュファクチュアのために投じた費用の総額は1610年〔?〕から1710年までで165億リーヴルに達する。p.199 その内訳は以下のとおり。

ヴェルサイユ、教会、トリアノン、クラニー(Clagny)、

サン=シール、マルリ(Marly)装置、ユーロ(Euro)川、

ノワジー(Noisy)川, モリノ―(Morineaux)川                                                                                       81,151,414

 絵画、壁掛け、銀器、古美術品        6,386,774   

 家具、その他出費                                     13,000,000

 礼拝堂(1669~1710年建造)                      3,260,241

あらゆる種の他の出費           13,000,000

  ヴェルサイユおよび付属施設        116,798,229        

サン=ジェルマン(Saint-Germain)宮       6,455,561       

マルリー(Marly)宮               4,501,279        

フォンテーヌブロー(Fontainebleau)宮   2,773,746      

シャンボール(Chambord)宮         1,225,701        

ルーヴルおよびテュイルリー宮       12,608,969      

サン=タントワーヌ(Saint-Antoine)凱旋門   513.775        

パリ天文台(1667~1672年)          725,174  p.201        

アンヴァリード                                        1,710,332

ヴァンドーム広場と館                             2,062,699

ヴァルド=グラース修道院                        3,000,000

ムラン(Meulan)のアノンシアード(Annonsiades)修道院                                                                     88,412

ラングドック運河                                   7,736,555

ゴブランおよびサヴォヌリマニュファクチュア                                                                                   3,645,945

多くの都市に設立されたマニュファクチュア                                                                                       1,707,990

文士への年金および奨励金                        1,979,970

  総計                 165,534,315