コルベールの生涯と執政の歴史(6) | matsui michiakiのブログ

matsui michiakiのブログ

横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

コルベールの生涯と執政の歴史(6)

 

p.170

第6章

1.コルベールは東西インド会社を設立(1664年)

2.会社設立にあたって彼が懐いた懸念

3.1アカデミー会員によって起草された公衆への訴え

4.パルルマンと都市が(出資に)応じるよう誘われる

5.会社の銘

6.政府がなした努力

7.不成功に終わった要因

8.東インド会社に関するコルベールの覚書

9.会社設立8年後、この会社は解散のやむなきにいたる。

10.セネガル、レヴァント、ピレネー会社、北方会社もそれ以上の成功を収めなかった

11.東インド会社は諸個人があらゆる国と交易をなすことを要求せざるをえなくなる

 

1.コルベールは東西インド会社を設立(1664年)

 コルベールが政権の座に就いて4年が経過する。すでに彼の体系の全体像が露わになりつつあった。商工業に対するこの大きな奨励 ― 2つの著名な学派が18世紀後半に鳴り響く激論に取り込むところの一方の旗頭としてコルベールの名前をとる ― は1664年に始まる。関税は外国との競争を排除しない自由主義的原理にもとづいて確立された。だが、それまでとりわけ毛織物について免税された幾つかの条項が含まれている。コルベールは概してその前任者の諸原理の採用につとめ、1663年6月18日、国王は金銀についてそれが純なものであれ、偽ものであれ国外に持ち出すのを禁じる布告を発令した。だが、1664年の関税率が出現する数か月前に東西インド会社が新たな基礎の上に再建された。p.171 その特権はこの傾向が他の論点について述べる必要はないと考えて差し支えないほどに大きな地歩を占めていた。東西インド会社の浮沈はコルベールが政権に就いている期間中コルベールの心を占めていた。オランダ東インド会社が株主に与える高配当が想起される。この結果から刺激を受けたコルベールは通商または海運に関連するあらゆる行為においてつねにフランスをその仲間入りさせることを目的とした。しかし、彼の努力は東インド貿易に関して極端に走り、あらゆる特権および保護を惜しみなく与えた。

  コルベールが試みた企画は冒険的であり、オランダはまったく落ち着き払って、彼がその目的の達成のために専念する動きについて無関心を装って眺めていた。じじつ、すでに幾たびもフランスは成功を収めなかった会社に対してかなりの特権を与え助成していた。スペイン、ポルトガル、イギリス、そして主にオランダがその植民地から莫大な収益を奪っているというのに。

 1664年5月28日の勅令においてコルベールはまず、西インド諸島の商業開発のための新会社を設立するにつとめた。この勅令は、1628年に設立された会社が1648年に犯した過誤を再び呼び戻した。つまり、同社は将来を見越して堅固に再建するのをやり過ごし、その支配下の領土を細分化して個人に売却することを望んだのだ。強力にして、かつ豊かな会社をつくる目的でコルベールは分譲されたすべての土地を買い戻し、アメリカ農場カンパニー(Compagnie de terre ferm del‘Amérique)の名称のもとに存続していた会社に対してp.172  西インド全体、すなわち、カイエンヌ(Cayenne)、アメリカ全土(アマゾン川からオリノコ川にいたるまでの)、カナダ、アカディア、新土地(Terre-Neuve)諸島、その他。カナダの北からヴァージニア、フロリダに到るまでの島々、ヴェルト(Vert)峡から喜望峰までのアフリカの全海岸において商業をなす排他的特権を与えた。西インド会社はかつて存在した旧会社を継承したものだったが、多くの特権を保持していたため繁栄するのはまちがいないと思われ、やがて隣国の会社にも十分に太刀打ちできると予想された。

 

2.会社設立にあたって彼が懐いた懸念

 東インド会社が設立されねばならなかった。だが、この会社はもはや存在しなかった。3つの会社はすでに完全に破産していたのである。したがって、政府のあらゆる努力はこの面にふり向けられる。

 次々と連鎖的に失敗したという経験は世論の熱意を冷ましてしまった。したがって、コルベールは当時の学者シャルパンティエ(Charpentier)に命じ、旧会社の誤算の原因を明らかにしなければならなかった。シャルパンティエは器用にもこの問題を解き明かした。なぜこれまでの3社が失敗に帰したのか? 彼はこの結果について、その指導者によって執られた誤った施策、特に資金不足のせいに帰した。 p.173  スペインもイギリスも同じような経験をした。オランダはオランダで、4度試みて初めて成功した。他方、その成功はマダガスカルではもはや確実だった。そこでは艦隊は新会社の活動の根拠地を設立することに着手した。取引能力にせよ気候の良さにせよ、また植民の安全性にせよ、バタヴィアの拠点よりも多くの財源を与えた。というのは、マダガスカルの住民は非常に温厚であり、福音書を信奉しやすい気質をもっていたが、これに対し、ジャワ島民は勇敢で戦争に憧れ、イスラム教に執着している国民が多数いて、キリスト教徒を軽蔑していたからだ。マダガスカルの地理的利点については次のような証拠を挙げることができる。じっさい、インド諸島において最も突き出たバタヴィアの位置はオランダ人をして無駄な道を多数つくらせた。ひとたび彼らの倉庫にたどり着くや、彼らは彼らをヨーロッパに導く風を受けて来た道を引き返す、つまり、ベンガル湾、コロマンデル、マラバル、セイロン、スラート、エチオピアへと引き返さなければならなかった。そして、彼らは荷物を手に入れるために再びバタヴィアに引き返すのである。そこから2度、3度同じ経路を辿らねばならない義務が生じた。マダガスカルに主要な倉庫を設置すれば、フランスの会社はこの不便宜を避けることができる。紅海、ベンガル湾、中国、日本、インド洋の最も後進の諸島もマダガスカルからは近い。また、フランスの会社はオランダのそれよりもなおまだ多くの利点をもつことになろう。すなわち、イギリスとの紛争の結果、インドを確保するのにオランダはアイルランドとスコットランドの北方を迂回する経路を辿らねばならず、その航行距離は400~500リュ―も延び、その上に大きな危険を冒さねばならなかった。そして、フランスの会社にとって堪えがたいほどの経費を要した。つまり、これが商品価格に上乗せするため、価格上昇を招くのだ。p.174

 こうしてコルベールは世論を喚起するようつとめ、彼の願う方向に世論を参画させようとした。この弁護につづいて学者シャルパンティエは実行の問題に取りかかった。彼は言う。幸運をつかむためマダガスカルへ多数の人々を送り込むのに使われる800~1,400トンの船舶を建造し艤装するには600万リーヴルもあれば十分である、また、国王はその10分の1を出資すべきである、そうすれば多数の貴族が300万以上を出資して参画するであろう、と。

 

3.1アカデミー会員によって起草された公衆への訴え

 国王の書簡と共に世論への呼びかけがなされた。書簡の宛先は大都市の市長および助役、パリおよび地方州の官僚たちである。

 新東インド会社においては何らの形式的義務や行為要求はなかった。司法会議所によって税の支払に服した者のなかの幾人かは特別許可を得て彼らの罰金の合計額を出資した。コルベールにとって最初の600万リーヴルは満たせるものと思われた。しかし、国内の9人の有力な商人、マニュファクチュア経営者は彼からこの問題に関し相談を受け、十分な基礎にもとづいて会社を設立するには少なくとも1,500万リーヴルが必要だと述べた。それで、推薦状や懇請文がふたたび出された。ある日、大法官セギエ(Séguier)が国王の命令書に誘われ、司法会議所の全体が東インド会社の設立に参画するよう申し渡された。p.175  司法会議所の幾人かはあまり乗り気ではなく、あるいは傍観していたため、フーケ裁判に関し(コルベールに)悪意を懐いた判事は彼らを横目で睨んだ。さらに、1委員が僅か1千リーヴルしか出資しなかったため、「彼は文句を言い、不十分だと述べたので彼はしぶしぶ3千リーヴルを差し出した。」

 このような強権をもって東インド会社は設立のための準備が整った。設立を謳う勅令は1664年8月に発令された。主な条項は以下のとおり。

・資本総額=1,500万リーヴル

・国王出資= 300万リーヴル

 会社の操業開始10年間に生じた損失は王出資分をもって充当する。

・会社は喜望峰から全インド諸島および東洋の海、すべての南海に亘って50年間の期限付きであらゆる会社を排除して航行し、交易をなす権利を有する。

・勅令は会社に対して永久に次の権利を与える。同社が敵または土着明を征服しうるすべての土地、場所、島嶼について金・銀・鉛鉱山の領主権、奴隷権等々と共にすべての所有権、裁判権、領主権。

・塩の供給

・フランスから運搬されるすべての商品について50リーヴルのトン税を、帰路はその半分を課されものとする。

・マダガスカルに教会および裁判所の設立の義務を有す。

・会社の理事を選任する。

・丸形襟章の使用を許可する。p.176

 

4.パルルマンと都市が応じるよう誘われる  〔略〕

 

5.会社の銘

 以上がこの有名な会社の組織である。不幸にして同社は、熟達した、執拗な、倹約精神旺盛な競争相手と関りあいをもち、長い間、優れた地位は非常に大きな便宜を提供した。一方、鍛錬するのが非常に困難な要素から成る新会社のために、パリから3,000~4,000リュ―も離れたパリ風の風俗(Coutume de Paris)の束縛はとても堪えがたいものであったようだ。そこに首都の宗教、法律、風俗・慣習を持ち込むのは非常に望ましく極めて倫理に適ったものだった。しかし、それははたして可能であっただろうか。マダガスカルの権利を設定する勅令の執行を保証するために会社の理事によって採用される特別法は困難さを増すだけに終わった。法の一つは神を冒涜する者は再犯の場合は6時間のカルカン刑に処されると述べ、さらにいかなるフランス人といえども島の現地人とは、彼らがカトリック教徒でないかぎり結婚してはならないとされた。そして、決闘は死刑に処され、遺体は見せしめのため刑場に放置されるとあった。そして、対決者双方の財産は没収され、会社に帰属するとされた。

 最後に、この法は以下を規定する。

・フランスのあらゆる布告はマダガスカル島および他の場所でもその状況に応じてすべての住民により厳格に遵守されるべきものとする。

p.177  同時に会社はパリおよび王国内他都市の城壁にポスターを貼りつけた。このポスターは非常に美しいものであった。ポスターは言う。この島の気候は非常に温和で1年の3分の2はわが国の春季のようであり、残りの3分の1はフランスの夏季の暑さほどに厳しくない。ここでは100年から120年生き永らえることができる。ここで採れる果実は非常に良好にしてかつ豊富である。栽培されたブドウ樹は極めて上質のブドウ酒を産する。また、現地には多数の牛、子牛、羊、山羊、豚、その他の動物がいる。

 他の便宜の中に会社は旅費、植民地の食物、道具、衣類を前もって支給すると言い、1年後に3期に分割して産物でもって返却すればよいとした。平均して1アルパンごとに9スー、幾つかの場合、彼らが扶養する者のために幾つかの植民地に対して会社は1人当たり30リーヴルを前貸しした。最後に、このポスターは刺激剤としてインドに渡航するすべてのフランス人は8年後に何らの親方試作なしに ― 1664年8月の王布告第38条の規定に従い ― 王国のすべての都市で親方になることができると述べる。p.178 

 しかしながら、こうした奨励策は当初期待された結果を生まず、植民者の数はつねに不十分であった。

 

6.政府がなした努力

 国王は最初に200万リーヴルを出資したが、これは約束額に遥かに足りなかったため、やがて彼はさらに200万リーヴルを追加した。しかし、この例に従うどころか、人々は自分らに割り当てられた金額を完済するのをためらった。そこで、政府は政府の言うことを聞く者をある程度決める必要が生じた。だが、コルベールは彼の計画を支えるために絶望的な努力を傾注した。彼が遺している書簡の記録はすべてこのことを証拠づける。

・1670年12月26日:ブルターニュの知事宛ての書簡は1万エキュの出資を要請。

          リヨンの大司教宛ての書簡は8万リーヴルの出資を要請。

p.179  ・1670年8月:オランダ駐在大使ポンポンヌはコルベールに報告する。つまり、オランダ東インド会社はこの年、株主に40%の配当金を与えた、と。フランス東インド会社に生じた諸困難の真只中のおいてこのことがコルベールの最大の気掛かり事項だった。またもポンポンヌは答える。「オランダがインドから入手した莫大な量の商品はオランダ人が信じているほどに売り捌くのは困難であり、彼らはおそらく大きな配当をなしえないのであろう。」

・1671年5月23日に異なる状況下で国王はマルティニク(Martinique)会社の理事宛てに書き送る。つまり、参画したユダヤ人は土地の耕作のための大きな費用を要したので、私は貴殿に彼らが他の住民と同等の特権をもつよう命じる。そして、信仰の自由を与えよ。そして、彼らが自己の宗教を信奉することによってカトリックの害とならぬよう必要な警戒措置を執りたまえ。

p.180 ・1571年5月、コルベールはマルティニクの理事に知らせるために書簡を送った。彼女の夫の死に直面することなく、ラ・シャリュエル(La Charuelle )夫人は旅先から帰還してきた。…〔中略〕…

・1671年3月13日、コルベールはラ・ロッシェル(La Rochelle)に命じてインド貿易を補佐させた。多くの犠牲、多くの努力にもかかわらず、会社は繁栄するどころではなかった。コルベール自身、全般的な絶望感に浸っている。

p.181 ところで、この取引は約1世紀間のみ利益が多かった。そして、コルベールが1673年に設立したセネガル会社はセネガル海岸、緑の岬、ガンビ川の黒人の排他的交易が与えられ、黒人1人当たり13リーヴルの奨励金が付与され、この会社は東インド会社にとってかなりの救いとなっていた。そして、同社はコルベールが与えた悲しむべき残酷な特権にもかかわらず、僅か20年間しか存続しなかった。

 

7.不成功に終わった要因 〔略〕

 

8.東インド会社に関するコルベールの覚書

 東インド会社については同社に関して懐かれた希望の問題について書き述べるのみにとどめたい。1688年4月5日、最初の結果がすでに多くの希望する余地を与えたとき、コルベール単独で覚書を検討した。その原題は「国王代理官がカナダに適用すべき主要な論点(les principaux points auxquels l’Intendant du Roy au Canada devoit s’appliquer)」となっている。この覚書を通じてコルベールはまず代理官にあらゆる懸念を考慮するよう勧める。その懸念とは、住民の維持と増大、土地の耕作、商業、マニュファクチュア、艦船のための建材等々に関するものだった。倦むことを知らないこの大臣は次に植民地の宗教問題の維持について己の意向を述べる。

【教権について】「イエズス会はここに破門の恐怖によってその威信を非常に強力にうち立てた。したがって、彼らはその厳格さを少々和らげるようにしなくてはならない。彼らを模範的な敬虔人と見なせ。彼らはその行為が非難されることをけっして自覚していない。というのは、長官はこの場合、国王の業務にとってほとんど無益であるからだ。

p.182 

9.会社設立8年後、この会社は解散のやむなきにいたる

 しかし、西インド会社のためのコルベールのあらゆる努力は失敗に帰した。1671年、彼はその出資金が司法会議所の税から捻出したものを除いて5%の利子を支払わせる措置を講じた。しかし、やがて同社がもはや維持できないと知り、解散する必要が生じた。すでに1670年において同社が蓄えていた200万リーヴルの砂糖によってこの操作をおこなうことが問題となった。株主たちに30%の割合で分配することが問題だった。すなわち、リーヴルあたり3リーヴル6スーで分配し、外国に輸出する者には奨励金を出すという約束をした。

・1672年9月29日のコルベールの理事宛ての書簡によれば、株主に返済するのに商品だけでは不十分である。国王陛下は会社にルーアンに対し、砂糖と蜜蠟に課されていた50スーの権利を与えた。

 会社の解散時には国王は同社に役300万リーヴルを与え、同社が保有するあらゆる施設が国王に帰属した。

 

10.セネガル、レヴァント、ピレネー会社、北方会社もそれ以上の成功を収めなかった

 このように、コルベールが設立した多くの会社のいずれも成功しなかった。彼が設置したすべての大企業はフォルボネ(Forbonnais)の述べるところによれば、p.183  コルベールの死後相次いで倒産していく。北方会社、レヴァント会社、ピレネー会社も良き運命にめぐりあわなかった。

【北方会社】オランダに対抗してフーケが設立。条約に反する特権を享受。コルベールがオランダ駐在大使ポンポンヌに述べるところでは、北方会社の資本金はかなり多大であり、条約に違反することなく経営できる強みがあった。議会が出資することで暫くの間は不安に襲われたが、これもまもなく解消する。

 北方会社と東インド会社の特権には類似点が見られる。つまり、出資総額の3分の1に相当する国王出資分は操業から最初の10年間に蒙った損失はこれをもって引きあてるというもの。また、国外に輸送される火酒について各大樽(300リットル)ごとに3リーヴルの報奨金が与えられ、他の商品についてはトンごとに4リーヴルの報奨金となる。

p.184  設立後2年にして同社はコルベールに増資を要求する。1671年3月27日、コルベールは理事に返答の書簡を送り、国王が14万リーヴルを増資すると言った。

【ピレネー会社】北方会社ほどの成功を収めなかった。1672年9月20日付のトゥールーズのパルルマン宛ての書簡中で、コルベールはこう言っている。国王はその船舶のために多大な援助を与えたが、同社は十分な保護を得ないで不振に喘ぐ。したがって、補助金によって示される保護はもはや十分とは言えず、正義に反しても会社を保護しなければならない。

【レヴァント会社】ピレネー会社ほどの騒動はなかった。

 以上が特権と独占の骨折りの結実の実例である。しかし、フォルボネがいみじくも述べているように、p.185  当時にあっては排他的権利の恩賜はすべての人々の脳裏を支配し、最も理に適った、最もすぐれた経験ですら何の役にも立たなかった。報奨金の制度にとどまるかわりに、当時においてはいかなる場合にも海運の整備が必須だった。コルベールはこの意向を極端なかたちで推進した。会社が解散されるすべての場合に新たな方法、新たな形態が工夫されなければならなかった。

 

11.東インド会社は諸個人があらゆる国と交易をなすことを要求せざるをえなくなる

 会社が設立されたとき、利己主義者たちが僅かの期間で富むことを希望し、また、会社の到達すべき目標も定まっていなかった。また、会社は会社で厳格な法を無視して密輸入したり、廃品動揺の商品を輸入したりした。政府がすべてを規制し、すべてを指揮しようとしたことの必然的な行き着く先は悲しむべき結末だった。政府はあらゆる個人の活動を窒息させ、人民が独占よりも多くの利益を引き出すところの競争を抹殺し、結局のところ、多大な犠牲をはらってなされた経験を払ったのは国民であった。コルベールは多様な制度を採用しフランスのために大きな業績を残した、と公平に認めることはできないのであろうか。事実の力は彼の在任の末期には彼をしてこの真実を証明して見せたように思われる。というのは、1682年1月6日、参事会の法令は東インドについて、私個人が渡航し、商品の運搬に対して責任をもつという条件で通商の自由を承認したからである。

 この措置は少々遅きにすぎたとしても非常に有効であり、多くの人々および会社自体によってすら望まれたところであった。かくて、真理はしだいに日の眼を見、経験は理性を扶けていく。