コルベールの生涯と執政の歴史(10) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

 第9章つづき

 

3.マニュファクチュアとギルドに関する法規(1666年

 カルカソンヌの織物業者は以下を要求した。すなわち、もし「いかなるマニュファクチュア経営者といえども、他の町の商標を濫用し、あるいは外国産毛織物の商標を盗用する場合は公設の場所の真只中で6時間のカルカン刑を科すべきである。これは、マニュファクチュアに関する制度の適用が始まる1666年のことだった。この野蛮な刑罰に加えて100リーヴルの罰金を与える優しい気持ちもあるにあった。4年ほど遅れてこの罰金制度はあたりまえとなった。

1669年、市長と助役はマニュファクチュアに関する訴訟と紛争を裁決する義務を負った。これはこの審理のために期間や費用を短縮するという意味で非常に優れた措置だった。というのは、そうした期間や費用は同業組合の数が増えるとともに長引いたり多くなったりしていたからだ。同じ時期に毛織物、サージ、および他の毛織物製品の幅、丈、品質を定めた布告が出された。p.225  この布告は後に有名になるが、あまりにフランスの産業を保護し縛ったため、抑圧しないようにするためあらゆる活力を要するほどだった。同布告は罰金または財産没収という刑罰のもとに毛織物、サージ、カムレ、浮綾織、綿混紡麻織物、平織敷布等々のすべての織物の丈、幅、品質を厳しく規程に従わせた。第32条はマニュファクチュア経営者にその対応期間として4か月の猶予を与えた。この期間が過ぎると、古い機械は破壊され、それらを保持している者は各機械ごとに3リーヴルの罰金が課された。同じような性格のもう一つの布告は絹織物、つづれ織等の製造を規制した。最後に、317条から成る訓令が染物師に与えられた。染物師は2つのギルドをつくった。すなわち、一つは高質染物業者であり、もう一つは並質染物業者である。私はここで、あらゆる職業に関する他の法令の姿勢について語るつもりはない。が、私はここで敢えて理髪師、鬘師、風呂屋、蒸し風呂屋のギルドに関する勅令を引用しておこう。この勅令の第4条はこう述べる。目印のためにその店舗に吊るされた盥は黄色と定められた不許可営業のそれと区別をつけるために白く塗らねばならない、と。第29条は前述の理髪・鬘師が髪を得るのを許可し、その他の者が取引するのを禁じた。同じような児戯にも等しい規制は1674年3月14日の参事会でも議論され、以下のように3月17日にパルルマンに登録された。

p.226  大部分にしてかつ最も重要な規制が現れたとき、コルベールはその執行を監視するための監督官(agents)を設置し、その思想と形が各条文に沿って示されるよう訓令を起草した。同監督官の義務は

 ①各ギルドの記録簿に記帳させること

 ②親方会議を召集して彼らの中から監視員と陪審員を選出させること

 ③各市役所内にギルド会議所を設置させること

コルベールは監督官たちに、商人らが劣悪商品を買うことのないよう諭すことを命じた。それを犯すと、商品が没収された。

 こうして最大の気遣いは専制支配に到達した。そして、すべての者は商業や破壊する者はほとんど皆無となったと認めたため、コルベールは流れを止めるべく最も受け入れやすい政策に引きずり込まれた。p.227  卓越した人々は、知性をもつ鷹揚さがその法律の厳格さを緩和したと考えた。じじつ、そうした鷹揚さのおかげで彼が設立したマニュファクチュアの幾つかは彼の執政以降に飛躍的に発展したのであるが、しかし、それはすぐに多額の費用を費やすにいたった。他方、この鷹揚さは主としてフランスに導入せねばならない製品に差し向けられた。それは板ガラス、絹靴下、クリスタルガラス、つづれ織、ヴェネチア風レースの製造であり、その購入のために毎年1,200万リーヴルが費やされた。しかし、かつて完全に放置されていた新興マニュファクチュアを奨励することは不可能であったのか?

 

4.1480~1620年のフランスにおける産業の繁栄状態

 じっさい、フランスの産業がコルベールに端を発していると信じる必要もなければ、その産業がこの大臣の就任とともに完全に壊滅してしまったと信じる必要もない。18世紀半ばになると最も真摯で経験豊かなコルベール執政の礼賛者で、「財政に関する研究と考察Recherches et considerations sur les finances」の著者は、p.228  この産業がフランスにおいて1480年から1620年までとは同じ程度にはけっして栄えなかったと述べる。少し遅れて、1654年1月、国王の宣言はフランスに輸入された外国商品にリーヴル当たり2スーの税の増徴を課した。この時、パリの6大商人ギルドはルイ十四世に対し、外国商人がイギリスへの輸入を禁じられているわが国の小麦やブドウ酒を買わずにすむことができるのに、フランスは軍隊の維持に必要な金銀を引き寄せるために商業やマニュファクチュアのみをもっていること、フランスは外国にランスやシャロンの亜麻布、サージ、平織り麻布、トロワとリヨンの綿入り麻織物、ボース、ピカルディ、パリ、ドゥルダン(Dourdan)、ボーヴェで作られた絹靴下、毛織物、ウーステッド、糸、木綿、山羊毛の靴下、スペイン、イタリアさらにはインドにおいてさえ売られるあらゆる種の編物、あらゆる種の毛皮、金物、ナイフ・ハサミ類、あらゆる種の小間物…を保有するうえに、ほとんどすべてのヨーロッパ人、場合によっては東洋のインド人すらもが指名するリヨンとトゥールの絹・金銀織物・毛織物、パリとルーアンの帽子を売っているということを述べて建言を終わった。

 

5.同時代人により評価されるコルベールの制度

 

6.1664年の関税率引き上げ

 一方、それより前の1667年には1664年の関税率の修正がおこなわれた。その頃のフランスはイギリスから800万リーヴルの毛糸を輸入していたが、中太毛糸と粗毛糸の混紡がおこなわれてからフランスはトルコ、スペイン、ポルトガル、イタリア、レヴァント向けに3千万リーヴルを輸出した。このことはこの品目だけで2,200万リーヴルの輸出超過を意味した。p.229 さらに、同時代の史料によれば、1658年にはイギリスおよびオランダに輸出されたフランス産織物はその2国だけで8千万リーヴルに上った。

 最後に、コルベールは最上質の商品に、「工芸・商業の再興王ルイ十四世 Louis XIV, Restaurateur des arts et du Commerce」という銘を刻んだメダルを付けた。したがって、フランスのマニュファクチュアがまちがいなく繁栄したことを認めることができよう。そして同時に、そのマニュファクチュアがそれほど大きくは衰退しなかったため、再建のため、あるいは壊滅のために多数の規制が出されたということもできる。

 〔引用文あり…略〕

p.230  コルベールは商業について協議するためパリの有力商人を召集した。彼らのうち誰一人として発言しようとはしなかった。

「諸君!」と長官は言った。「諸君はオシなのか?」

アザン(Hazan)というオルレアン人は答えた。「いいえ、閣下、われわれは失礼憚りながら国王陛下がわれわれの発言を止めた場合、陛下を侮辱はしまいかを憚っておるのです。」

 長官:「自由に発言しなさい!」「自由闊達になすことは国王およびわが善良な臣民にとってより良い結果をもたらすでしょう。」

 アゾン:「閣下! 閣下はわれわれにそれを要求し、また、われわれが閣下に示すであろうところのものをわれわれにお許しになったので、私は率直に申し上げます。閣下が長官に就任されたとき、閣下は四輪馬車が転覆されたのをご覧のはずです。」

p.231  1664年の関税率が被った修正について今日では、それに思想を与えるのに十分な言葉はほとんどない。この関税率は緩く、かつ十分に保護主義的な基礎にもとづいて設定されたことが想起される。これは少なくとも1664年のコルベールの見解でもあった。その3年後、それは修正を受けた。そして関税はほとんど倍化された。この増徴は1664年の関税以来、外国の工場の主要な商品の輸入関税と原料の輸出関税が非常に僅少であるという認識にもとづいておこなわれた。外国製品の王国内への輸入を抑止し、原料の国内確保という目的において1667年4月18日の宣言は多数の商品についてかなり重い税を課した。

 課税対象の商品は毛織物製品、靴下・編物類、つづれ織、皮革製品、亜麻布、砂糖、魚油・鯨油、レース、ガラス、ブリキであった。

 課税対象の輸出品は皮革・毛皮、山羊革であった。以下に幾つかの課税された輸入品を示しておく。

                    1664年  1662年

蘭・英の毛織物(25オーヌ)         40 (liv.)     80

毛織靴下(100 pesant)            8            20

Oudebardeのつづれ織(100 pesant)     60           100

アントウェルペン、ブリュッセルのつづれ織 120           200

蘭の亜麻布、白麻、カンブレ(15オーヌ)    2              4

精製角砂と粉末砂糖(100 pesant)             15            22

糸レース(フランドル、英経由)(リーヴル)25            60

p.232

7.コルベールの規制に対するマニュファクチュア経営者の反対

ともかくコルベールのうち立てた制度はこの時をもって完成された。彼がぶつかった最初の困難は織物の品質・幅・丈に関しての厳格さに由来する。1669年、1670年、1671年、1672年における往復書簡の記録はこの問題について最も積極的な史料を含む。これはあらゆる分野からの非常に活発な苦情と要求から成っていた。それが混乱を招いたため、製造業や労働者はこの迷惑千万な規制法に服するのを拒絶した。一方、市長と助役たちも彼らは彼らで規制の適用をためらう。オマル(Aumale)、アミアン、ボーヴェ、リヨン、トゥール、ラングドックなどあらゆる機業地から税率修正を要求する声が挙がった。これに答えてコルベールは言う。

「すべての製品の丈と幅の均一性は王国内で非常に大きな富をもたらした。そして、すべての法規や規制は厳格に実施されることが是非とも必要である」と。

しばしば同じような書簡が苦情元に届けられた。しかし、労働者や商人はこの理由づけに納得しなかったため、コルベールは止むをえずマニュファクチュア書記官や助役・市長、知事を通して厳しく執行させざるをえなかった。コルベールによるピカルディ知事バリヨン(Barillon)宛ての手紙はこう述べる。

「少しばかりの気遣いと勤勉さを以ていたる処で商人と労働者はマニュファクチュアに関する規制の執行に追い込まれている。アミアンではこれとは逆に、この規制法の執行を監視するどころか、助役たちは敢えて欠陥織物を作る者だれ1人に対しても非難しなかった。しかし、こんな状態が続けば、アミアン産製品を国内全土から没収する命令を発するであろう。そして、こうすれば、この町の労働者は不誠実さに対する処罰を蒙ることになろう。」

最後に、コルベールはオクセールにフランス産レースのマニュファクチュアを設立した。そして、彼はその成功のために私的な利益を許した。というのは、この町の近くにコルベールが多くの土地を所有していたからだ。そこには彼の兄弟の一人が大司教となっていた。p.233 しかし、同マニュファクチュアは繁栄するどころか衰退していった。それで当時、コルベールは助役をこっぴどく叱正し、こう書き送った。もし助役たちがその同胞らをあまり配慮せず、逆に娘たちをマニュファクチュアに雇ってもらうことによって同胞を厳しく処罰するならば、…助役は工業を危殆に瀕させ、そのことが王国の多数の町に暴動を惹き起こす原因になるだろう、と。

このような威嚇や勧告にもかかわらず、1670年末になると、ほとんどの製造業者は依然として規制反対の姿勢を崩していなかった。トゥールの知事がコルベールを説き諭すために、将来、あらゆる欠陥織物は違反者の名前ととともに柱に括りつけられるという賢明な方法を考案した。数日後、コルベールはトゥールの知事の勧告に従い、彼が以前から温めていた方策に舵を切った。彼は言う。「恥辱が規制の遵守に役立つこと、および、監視員が自分らの発見するすべての違反のためにこうした労をとることを入念に監視すべし。」したがって、欠陥製品を柱に吊ることで十分でないかのごとく、彼は偽の商標を貼った者に対しカルカソンヌのマニュファクチュア経営者が要求したかつての刑罰を想起し、この柱に規制に不服従の手工業者を縛りつけることを決心した。これは1670年12月24日の法令に結実する。〔法令条文…略〕

 

8.初犯者に適用された抑圧措置

p.234  制度に引きずられた悲惨な証言としてのこの法令は、行きすぎ ― そこでは情熱が実直にして聡明な長官に与えた ― を監視するための大権を与えられた人間を念頭に措いている。フォルボネ(Forbonnais)はこの法令について言う。それは日本から輸入されたものである、と。日本がこうした判断に抗議すべきでないかどうかはさらに検討しなければならない。件の法令は全体として実施されたであろうか? 違反した労働者や商人は2時間カルカン刑に処されたであろうか? それは私には判らないが、この条項の厳格さはこれに対する市長・助役および履行義務をもつ監視員の抵抗を生じさせたということはできる。ともかく規制に対する反抗は長く続いた。1675年5月5日、コルベールは各州の知事に書き送った。すなわち、幾人かの商人と悪意をもつ他の者たちはマニュファクチュア規制法を執行する義務をもつ吏員に反感をあからさまにしているため、このような喧騒を挫き、本法の執行を監視することが肝要である、と。p.235

 同時に、コルベールは新工場を強化することにも力を注いだ。各染色業者は1,200リーヴルの助成金を受け取り、6ピストルの支給を受けて働く事業所の娘と結婚した職人は第1子が生まれると2ピストルをもらった。徒弟に対してはその年季奉公期間が終わるや、30リーヴルと道具が支給された。さらに、収税吏は特権付与のマニュファクチュアの被雇用者に6リーヴルのタイユ税を免除した。不幸にして、コルベールの品質、染色、丈・幅に関する峻厳な法律はある程度はこの商品の割高の偉大さを緩和した。じじつ、この法律は詐欺を処罰するのみならず、労働者は世論により(遵守を)勧められた。法律は同様に未熟練や過失までも罰した。フォルボネはこの件に関してこういう。「その手触りや生産地に気づいた者は身震いすることなしにこの規制を語ることができないだろう。その原初的な思想は労働している時よりも労働していない時のほうが幸せということだった」と。さらに、彼はこの規制の非常に数多い約束についてふれる。年季奉公期間の長いこと、入会費用、親方試作の試験を実施する親方の欲得づくの厳格さ、親方子弟の特権等。

 コルベールの執政はフランスの工業に対して、その後継者らがなおまだ増やすところの制度をつくり、さらにあらゆる訴訟、あらゆる時間の浪費、あらゆる落胆を通じて国民を疲弊の淵に追い込んだ。p.236 さらに規制に違反した場合には罰金、没収、機械の破壊、商品の廃棄が待ち受けていた。… 1666年8月23日の参事会で承認されたアミアンのマニュファクチュアの法規と規制はこう述べる。もし糸が重さをごまかすために生であったり湿っている場合は慣例に従い、市場で公然と焼却されなければならない、と。ここまでくると、まさに糸を乾かすよりも焼くほうが理に適っているかのように思える。