1789年以前におけるフランスの労働階級および産業の歴史(11) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

1789年以前におけるフランスの労働階級および産業の歴史(11)

 

(近代社会における手工業ギルド)

 技術的・産業的・貨幣的・経済的・政治的・行政的 一 大革命が始まった16世紀がギルド制度において何らの変化も経験しなかったとはいえない。手工業ギルドと教団は存続したが、一般史において遠方から見れば、それらはかつてと同じ状態にあったように思われる。それを非常に近くから検討すると、時代の所産を発見しうる。

 まず第一に、コルポラシオンの数はかなり増えた。なぜならば、産業が発展したからであり、権勢を増した王権が社会秩序の一要素として恰好の制度を見出したからである。一般に大小の都市において職人たちは力を自覚するにつれて、同盟、特にそのことによって得られる独占の利益を享受するためにギルドを結成することを望んだ。王権がその例で、こうした労働組織において秩序を、王権が法規に与える承認の中に王の権威を確立する手段を、そして王権が自らのために保存する税によって収入を得る手段を見出したのだ。p.926 このような2つの原動力はギルド制度における産業制度を16世紀において一歩前に進めさせるのに貢献した。

 16世紀は近代を開いた。工業 ― その拡大の動きは当時、十分に急速だったが ― はいわば歴史の岐路に立たされていた。工業は一方でギルド的な独占の道に踏み入り、他方で動産資本の形成が招き寄せるところの労働の自由の方向へ(あるいはメティエのより大きな多様化、中世において個人的活動囲繞に保証する処の国王の警察が)導かれる可能性を秘めていた。

 工業は独占の道を選択した。競争を遠ざけることに自らの利害を見出した親方たちがこの選択をおこなったのは別に驚くべきことではない。彼らの懇請に屈服しなかったのは王権に対してである。王権は都市の狭い独占が大国家の統一と両立しがたいこと、コルポラシオンが独占の傾斜を降りてしだいに制約的になったという感情をもっていた。したがって、王権は多くの布告、特に1581年と1597年の布告によってその支配圏を拡大しようとつとめた。かくて、王権はパリ市長にそれを全国に拡大する権限を付託し、あらゆる親方が都市から都市へと渡り歩くことを許可した。しかし、相対的にリベラルなこの狙い以上に、王権は別の目的を懐いていた。それというのは、各親方の就任の際における課税によって、あるいは国王の親方許可証の授与によって収入を確保することであった。

 王権は直ちにとはいわないまでも、少なくとも内乱が抑圧されたときは歳入の増大に成功した。そして、課税範囲の拡大は得なかったか、あるいは極めて限定された程度にしか達成されなかった。というのは、ギルドとして集団化した実業家は飽き足りることを知らない抵抗に反対したからである。自己利益の放棄は、常に援用すべき特別の理由をもつ特権精神の領域に立ち入った。過去にそうだったのと同じく、最初に無知な生産者の参入によって、あるいは製品の低劣な品質によって消費者に与えられた損失が前面に据えられた。競争相手の出現の恐れのそれはほとんど予見されなかった。

 同じ頃におけるイギリスの工業は、ギルド的特許状の与えられていない小村で発展することによって別の方向を辿りはじめていた。

 フランスではその絆が締め直された。もはや一般化し、より複雑化し、より高価となる傾向にある親方試作はもはや十分な柵とは見なされなくなった。親方の息子に対しての試験は甘かった。つまり、すでに見てきたように、このような手心は必ずしも存在したわけではない。最も重要と見なされる多数のコルポラシオンの中心において、パリを模範として権威を集中化することによって独占を強化したヒエラルキーが構築された。親方試作を終えたのち、親方職に就任を許された職人または商人は p.927 部分的な権利しか享受せざる新教徒がそうだったのと同じように、多数のギルドにおいて存在しなかった。新人も旧人も継続して過ごし、国王宣誓ギルドことジュランドの名誉 ― その名誉は同時に力であり、しばしば利益をもたらす機能であったが ― を得ようとすれば、年齢と金銭を必要とした。ジュレと古いジュレは幾つかの場合、交互に任命しあうことで他の成立よりも多くの利益と特権を享受することによってその官職を独占するにいたる一種の寡頭カーストを構成した。

 監督官(gardes) と宣誓親方(jurés)らは布告・慣行・法規に対して始終違反していること、彼らが貧しい親方に向けられるべき教団の収入を横領していること、彼らが親方志願者、若い親方、国王証書による親方に対して多額の金銭と贅沢な宴会を不正にも要求したこと、彼らが親方を差し押さえると脅迫し、彼らから賄賂を強奪したこと、彼らが悪質商品を売るためにその地位を利用したこと、などを述べた同時代の苦情についてわれわれは知っている。長年培われてきたこの種の濫用は宗教戦争に助けられて十分に花開いた。ブラン(Blanc)氏はその著作Corpolation de métierの中で、全く偶発的な濫用を制度に起因するのは不当だと言っている。しかし、このような害悪が単なる偶発事でなかったことを理解したのは道理あることである。諸害悪はギルド的独占の必然的所産であって、最初こそ萌芽のかたちで16世紀に結実したのである。

 父から子へと受け継がれたパリの肉屋は幾つかのギルド的独占が行き着いた濫用の見本となる。富める家族はもはや仕事をおこなわなかった。彼らは万力を、真の肉屋職人ではあるが、ギルドの見地からすると何の資格も試験も受けることのなかった店子に高い賃料で貸すことによって、その賃料でもって生計を立てた。政府は、金利生活者の肉屋のギルドの下に営業する肉屋の2番目のコルポラシオンを創設することによってのみ諸困難を断ち切ることができた。フランスにおいては今日、タバコ局の正会員はしばしば賃借料を与えている。しかし、これらの局は肉屋がその職業の利益という口実のもとに独占を与えられたのに対し、正規資格者に対してラントを得るために定められたものである。

 幾つかの都市ではしだいにコルポラシオンの寡頭支配が形成された。パリでは15世紀に組合として目立つようになった。6大商人ギルド(Six corps de marchand)は細心の関心を払いつつ維持し、下級メティエに軽蔑を告白する名誉上の特権を保持していた。

 16世紀になると、コルポラシオンは競合関係にあるメティエにおける争いと訴訟とが頻発するようになり、p.928 それは世代から世代へと同じ要求が受け継がれた両派の影響力を限りのないものとした。別のものの中にわれわれはガチョウ焼き鳥屋(oyes-rotisseus) と家禽商(Poulailliers)の訴訟を知っている。それは百年以上も続いた。靴屋は靴直しに抗議する。洋服屋や古着商に挑む。小間物商はつねに多くの職種と抗争状態にあった。

 16世紀になると、教団による組合の運動が普及し、ほとんどすべてのコルポラシオンは一つの教団の下に入った。すなわち、宗教的感情とおそらく集会と祭祀への嗜好は職人をしてそれの結成に向かわせしめた。教団は旧教同盟(Ligue)においてある役割を果たした。つまり、宗教的な過度の熱狂と民衆扇動の精神がそこに活動舞台を見出したのだ。中世以来、それに疑念を懐き、次いで多くの厚情をもって迎え入れた王権は、16世紀になると再び教団に挑戦した。旧教同盟の嵐のような熱狂を前にして王権はパリでそれを禁止した。しかし、王権はその数の増大を停止させ後期ヴァロア朝において濫用を改革するには無力だった。

 大法令以外に16世紀の諸王はギルド独占を座礁させるためにいろいろな手段を行使した。すなわち、宮仕え職人(artisan suivant la cour)の許可証、大事件の折に交付された国王による親方許可証(lettre de maîtrise royale)などは、その歴史の古いものだが、しばしばトリニテ(Trinite)救貧院への恩賜を利用した。アンリ四世以降、ルーヴルに寝泊まりした職人たちが王立マニュファクチュアを成したのもその例である。

 17世紀の絶対王政の王室行政の発展はコルポラシオンの甚だしい濫用にうち勝った。党派と出費の内部的な小さな濫用が消失することはないにしても、教団は外的秩序を乱すのをやめ、したがって、平和裏に存続しつづけた警備を悩ますのをやめた。コルポラシオンは、それが生じせしめた経費とそれがもつ大きな悦びにもかかわらず、この制度はメティエの成員、しばしば雇用主や労働者さえ友誼の祭典にアクセスさせるという利点をもっていた。

 17世紀の王権は工芸共同体(communautés d’art et métiers)を存続させた。この名称は通常にはのちの2世紀の間、工業的コルポラシオンを意味した。王権はそれを増やす。すなわち、王権は16世紀に採用した政策にもとづいて大々的にその数を増やした。1581年の布告は旧教同盟の真只中において公刊されたが、ほとんど成果を挙げなかった。アンリ四世が王国の首長になった時代に出された1597年の布告はそれ以上に効果がなかった。オランダ戦争の開始時、資金を調達する必要を感じたコルベールも同じ手段に訴えた。1673年3月の布告は前二者の布告に似た動機に訴えたものであるが、p.929 町や村すべてのメティエを共同体(communauté)に組織することを定めた。その頃非常に力のあった王政は全地域ではなく、多くの場所で従わせ、コルポラシオンの数はその抑圧を正当化する理由のために増大した。
 王権はブルジョアジーの開かれた声に満足を与えたと主張することはできない。なぜなら、三部会が1614年に召集されたとき、第三身分はあからさまにジュランド、親方職、国王許可状すなわち特権の廃止を要求し、特別の官吏による商品の臨検のみを承認したからだ。第三身分の代表は工芸共同体(communauté d’arts et métiers)から多数を引き寄せていなかった。

 パリの法規は前世紀以上にモデルとなり、新ギルドはこれを書き写した。互助会(Confrérie)と同様に多くの濫用が手工業ギルドに残った。しかし、王の警察はこれまで以上に厳しく監視し、無秩序を抑圧もしくは防止した。それにもかかわらず、警察は発生する争いを防ぐことができなかった。すなわち、訴訟はいっこうに減らなかったのである。

 1581年、1597年、1673年の勅令は二重の目的を定めていた。すなわち、ひとつは財政的目的、もう一つは経済的・リベラルな目的であった。入会税によって王室財政に収入を確保すること、定期市に手工業ギルドの門を開くことによって独占の偏狭さを拡大することがそれだ。王権は当事者の抵抗のために後者よりも前者をよりよく達成した。しかし、地方的なコルポラシオンが国家的なものに転換するために、成果がないわけではない多くの尽力をなすという利点もあった。王権は16世紀と同じように、宮仕え職人、ルーヴルの職人、国王親方特許状を発行することによって独占の城壁に幾つかの破れ目をつくりつづけた。

 官職の設置は手工業ギルドに新たな撹乱的要因を導入した。手工業ギルドは仕事場の臨検と幾つかの商品の刻印のために、その成員に共同体(communauté)の問題の良き管理を保証し、公衆に対しては商品の高品質を保証すべく警察をおこなった。ところで、手工業ギルドの外に管理・検査・刻印の義務をもつ官吏を据えることによって国王はその制度に信用を置かなかったといわれ、その権威をぐらつかせた。共同体(Communautés)がその手段をもつときはこうした官職を買い戻したし、国王は特に貨幣を欲した結果を得たのは真実である。

 しかし、すべての共同体(Communauté)がこれらの手段をもたないわけではなかった。それを発見できた共同体は借金によってようやくそれを手にし、元金と利子を支払うために、入会金と成員にのしかかっていた他の諸賦課を増徴した。p.930 そこから、独占の強化が生じた。さらに、われわれは労働の規則という観点からこれらの官職の価値を検討してみよう。

 メティエの記録の保存、製造監視、製品の確証された品質、無能者の営業禁止、法的に確立されたヒエラルキーによる社会秩序の確立、農村から都市への移住の防止など、これらで全部というわけではないが、人々は多くの長所を、そして、政治・経済の著述業者らはコルポラシオンのせいにしている。

 H.Blanc氏はギルド(les Corporation de métier)に関する自著で「忠誠」と「労働の完成」を主張し、その点について彼は「工業制度は相も変わらず絶対的であった」と述べる。「1789年まで生き永らえたこれらの原理はキリスト教だった。なぜというに、彼らは工業活動の中に盗みと隣人を裏切ることを禁じた神の命令の適用と解釈を招き入れたからだ。」明らかに、そうした規制は忠誠を規定し、しかも非常に精細に定めていた。しかし、実際のところ、いかにそうした規制から外れていたかをわれわれは知っている。むろん、コルポラシオンは競争を制限し、製法の伝統を維持する傾向をもっていた。しかし、それゆえにこそ、称賛よりはむしろ批判が生まれた。というのは、製法はそれが採用されたときいかに優れた者であったとしても、世代が変わるともはやそうでありつづけることはなかったからである。ところで、多くの法規は幾世紀ものあいだ、手直しされないままにあった。競争制度のもとではその製品を変化させることへの気遣い、購入者のことを考え、飽満を防止し、ライバルによる追い抜きを防ぎ、顧客を危険な目に遭わせぬようにするため警戒するのは製造者の側である。ギルド制度のもとでは大多数の製造業者はその先達とおなじように事をなすのはいとも簡単であり、危険が少なかった。規則の抵抗をうち砕き、製造業者をして彼の望む製品を委ねさせるのは買い手のほうだった。規則は進歩ではない闘争ののち、破られざることを認めるに行きつく。

 幾世紀ものあいだフランスにおけるギルド共同体の歴史を具に観察すると、労働者の状態はいつも同じではなかったことに気づかされる。p.931 しかし、学識豊かな人物なら、職人が親方と同様に「他のすべてを除外してメティエの財産」を享受したということをその史料においてどのようにして見出すか躊躇うであろう。というのは、幾つかの法規がコルポラシオンの労働者のために優先権を定めていたとしても、このような規定は頻繁ではなく、必要な折りに親方が行商人から引き抜くことを禁止したのではなかったからだ。「宣誓ギルド(métiers jurés)に加入したのは高貴な人々つまりエリート層であった」と断言するのもためらわれる。このことについては何ら証拠がない。というのは、宣誓ギルドにおいて労働者だった全員が徒弟奉公を終えていたからだ。コルポラシオンが都市への移住を妨害したとしても、コルポラシオンは既存の親方に生活の資を保証したわけではない。そうした親方は繁栄の時代においてさえ、おそらく数はずっと少なく、不景気が訪れたときは彼らのメティエの窮乏に釘づけされていた。

 一方、幾つかの不便宜も否認される。すなわち、全体的もしくは部分的独占、発明への障害とルーティンの法的勝利、訴訟の源泉、販売価格の法外な吊り上げと賃金抑制の傾向などがそれらだ。生産者の選別と製品の監視が誉めそやされる利点のために買い手はこの制度からほとんど何も得ることがなかった。貧しく、寄る辺のない労働者や改革者は失う一方にあった。

 独占としきたりは確かにこのギルド制度の根本的害悪であった。しかし、この独占から親方たちは一たび入会を許されるや、その便益に与った。こういうわけで彼らは熱心に、そして信念をもってそれを防護しようとした。彼らは必要な制度のために厳重な要塞をつくり、それは13世紀およびそれ以降の、18世紀に工業がそれを鎮圧するまで自らを保護する避難所であった。

 この制度の端緒について人々は幾度となく攻撃した。18世紀後半、エコノミストの原理が労働の自由に対する理論を提供したとき、その批判はより密度が濃く、より辛辣なものとなった。p.932 一部の世論は征服され、半信半疑の行政はそれが承認しがたい多くの要求を拒絶するまでした。

 ルイ十四世と同じく、貨幣の差し迫った必要を感じたルイ十五世はそれをコルポラシオンから引き出そうと努めた。しかし、彼は少々異なった方法でそれをおこなった。オーストリア継承戦争のあいだ、1745年に手工業ギルドを再び設立し、他方で1755年お1767年に官職を設置したのは、彼がすべてのコルポラシオンに対し報酬との代価で許可証を与えたが、それは職人が所定の試験に合格することなく共同体への入会を認めたのだ。すなわち、これこそ独占の裂け目となった。

 国王宣誓ギルド(Jurande)が存在しない農村または都市において、一般規制に従うという条件のみによって製糸と紡績の営業の自由を認可した1762年の勅令はさらに大きな裂け目を生じさせた。

 手工業ギルドは原則的に当該地域の領主の認可を受けていた。領主による認可はしだいに国王による認可にとって代わる。けれども、封建的荘園においても都市自治体においてもなおまだ幾つかの例外が存在した。国王直轄地でさえ、多くのコルポラシオンは国王官吏すなわち、Lieutenant de Police ou Bailliによって授与され、裁判所または高等法院(パルルマン)の記録簿に保管されているものもあり、またはないものがあるが、法規以外のなんの資格ももたなかった。

 13世紀 ― 例外がないわけではないが ― すでに古い法規集、すなわち王権はきちんと登録された特許状(Lettres de patentes)によってこれら組合に市民権を移譲する力を保持していた。王権はこうしてその権威を十分に確立し、それと同時に不正な独占を無効と宣することで自由に奉仕し、その法規の承認を達成すべくそれを誘い込むことによって国庫に貢献した。

 ギルド共同体 ― 全部が全部というわけではないが ― はしばしば大多数の成員をもつ13世紀の大都市を観察してみると、ギルド体制の完全な思想は形づくられていなかった。しかし、小集落(bourgades)では必然的に極めて少数の親方が存在し、共同体は漸く3,4人の成員を数えるのみで、その同じコルポラシオンは5~6種の異なった職業を掻き集めていた。前者においては(または後者のケースでも)独占は消費者を厳しく締めつけており、後者においてはジュレの監視は管轄権の違いにより無効だった。18世紀ともなると、これら小集落の住民はこのような隷属状態について苦情を申し立てた。

 改革の精神は18世紀半ば以降、政府閣僚内にも浸透した。その精神はテュルゴーとともに荘厳に入った。エコノミストの指導者の短期間の政治への関与は孤立した一般的な現象ではなかった。これは自由主義軍隊の隊長による権力の稜堡へのいわば支配ともいうべきものだった。p.933 自由主義は20年来、その稜堡の攻略を練っていたのだ。保守派軍隊の策略の回帰はやがて外で跳ねつけられた。硬直なまでに誠実にして意志堅固なテュルゴーは熟達した政治家ではなかったし、ルイ十六世は意志をもたない国王であった。それゆえ、1776年2月の勅令によって宣せられたギルド業動態の廃止はたちまち暗礁に乗り上げた。

 高等法院の反響を心に懐いてこの勅令を古い制度への侵犯として、そして王政の基礎を揺るがすにいたったとして徹底的に非難する歴史家がいる。また、コルポラシオンそのものを廃止することなく、その濫用を防止することで満足しなければならなかったと考える者もいる。われわれはこれとは全く違った見解をもつ。時代が変われば政策も変わる。コルポラシオンすなわち中世の保護制度は、とりわけコルポラシオンが王政の逆の努力にもかかわらず、近代社会において疑う余地のない有用性をもっているがゆえに、そして一般的警察が非常に効果的に労働の安全を保証したがゆえに、より自然的な傾斜によってより制約的なものとなった。コルポラシオンは工業が大いに発展し、多様化した18世紀の末頃になるとまったく厄介な代ものと変わった。時が熟せば独占と自由のあいだで逡巡する者はいなくなった。

 手直しされたコルポラシオンにおいて濫用は、切断された枝がなおまだ生き生きとした幹のうえに再び芽を出していくように、さらにネッケルの改革に見られるように、再現した。歴史家Drozの見解に従って、ルイ十六世はその治世の初め頃、この種の改革がおそらく大革命を予防するか、または少なくともフランスが19世紀のように共和政、王政、帝政と幾度となく繰り返して暗澹たる動乱の淵に投げ込まれることなく平和裏に国民の中に入っていく可能性の残っている時代でもあった。ルイ十六世はこのような仕事を達成するに相応しい威厳をもっていなかった。ネッケルは保守・革新のあいだに国家が徴収すべき負債から解放された新しいギルド共同体(Communautés d’arts et métiers)の設置によって均衡を保とうとした。新しいギルドにおいては規則は単純化され、親方の権限はより弱められ、隣接の職業は結合された。パリ向けの1776年8月の勅令とプロヴァンス向けの1771年から1781年にかけての勅令はこのような再建を可能とした。しかし、それらは一般にあまり歓迎されなかった。親方たちは昔の古い法規のほうを懐かしがった。廃止勅令を登録しなかった高等法院は再建勅令を登録するために諸困難を起した。それまで宣誓ギルドの存在しなかった都市はその制度の導入に要求した。その古い親方職について補償を得なかった親方たちは彼らから新しい親方のために付加税が要求されたことに悪意を感じ取った。多くの者は上官職という厄介な資格を取得するよりは有資格者として下級の地位にとどまるほうを選んだ。p.934 このことは他の町、他の職人が古い独占の弛緩に関し抗議するのを防ぎきれなかった。さらに、古い共同体はその伝統を維持し、新しい共同体もしだいに慣習の考えに嵌った考えの中に入り込み、アメリカ独立戦争の期間中、国庫の要求に応えるべく借金をし、その借金を返済するのに税を増徴し、コルポラシオンへの入会に障害を設け、行商人と発明家たちを苦しめ、訴訟を刺激した。分枝は幹の上にまた芽を出しはじめたのである。

 テュルゴーの制度に戻ることによってその根を引き抜いたのは立法議会である。