1789年以前におけるフランスの労働階級および産業の歴史(10) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

1789年以前におけるフランスの労働階級および産業の歴史(10)

 

Ⅲ コルポラシオン(Les Corporations)

 

(ローマのコレギア)

 ガリアの歴史で知られている最初の産業組合はコレギアであるが、それは少なくともアントニウス帝の世紀にいたるまでローマ皇帝が組合の共和政末期ごろにはデマゴーグにとって民衆扇動の温床を提供したがゆえに常に警戒してやまなかった制度でもあった。3世紀以降になると、今度は皇帝たちはそれを逆に職人層を集団化するのに好都合な制度と見なすようになった。彼らはその普及を奨励し、かくてコレギアは増大する。p.919 パリの船員がティベリウス帝の治世下で記念碑を建てたゆえに、そして、リヨンとナルボンヌの数多くの碑文がアレクサンドル厳格王より前に設立されたゆえに、皇帝の恩賜は急激な変動をもたらしたとはいえない。

 合法的性格をもつと同時に、人格を享受するためにコレギアは元老院の布告によって認可されなければならなかった。これは許可されざる幾つかのコレギアの存在を防止することができず、その結果、このコレギアは人格をもたなかった。コレギアはたいていの場合、同業者の、しかも、ほんの例外的に異なった職種を営む多くの成員から成り、外国人、さらに自由民、奴隷すらも成員として認められていた。コレギアはその集会において行政官としてduumiviri, quinquennalres等を指名した。コレギアは入会費、出資分担金、施与、遺贈などの収入を得て自らの財政を司り、その共同の家スコラscholaと墓地を維持し、成員の埋葬と祭壇のために宴会、食糧と貨幣の分配するかたちでその経費を支出した。なぜならば、コレギアはそれが奉献した神および守護神をもっていたからである。コレギアは有力なパトロン、元老院議員、第二階級の市民、富裕商人のもとに自らを保護した。それは保護者から守ってもらうために彼らを指名し栄誉を与えた。

 労働者と徒弟がこうしたコレギアの成員であったかどうかについては判らない。このような同業組合(corpolations)がその職業に対する何らかの権力も独占権のどちらも保有しない純粋な互助会(confréries)であったかどうか、あるいは、それがそれ自身の産業の警備の任務を帯びていたかどうかについては正確に判っていない。けれども、それがこの種の何らかの機能を帯びていたことは真実とみてよい。

 公共的業務にとって、特にローマと幾つかの大都市の食糧補給にとって必要と見なされたコレギアは明らかに特殊な機能を帯び、それを遂行することに束縛された。そのようなものとして1年分の食糧を運ぶnaviculairesや、これらの都市住民にパンを供給するパン屋が存在した。

 コレギアはその仕事に十分に報いるためと同じ程度に、これら機能から外れるのを防止する目的においてそれに与えられていた名誉と特権を享受した。しかし、コレギアはこれらの機能に厳格に服従させられた。つまり、それらの財産はその職業に対する一種の抵当権であったのだ。パン屋によって獲得されたすべての金銭、コレギアに入会することで取得できたもの、相続に参画するによるすべてのものは、その組織に合体するものであって分離しえなかった。これは制度に付随して共同のものとなった資本であり、パン屋がそれをけっして享受することのない資本であった。成員はその財産として結合されていた。すなわち、彼が代理人を見出さないかぎり、その事業団体に所属しなければならなかった。p.920 もし彼がそれから逃亡するようなことがあれば、彼は力づくで連れ戻された。その子弟らは父親と同じ境遇のもとに置かれ、彼に子息がいないときは女婿がその義父と同じ状態に置かれた。

 4世紀末、君主の意思に命じられた国家術数が幅を利かせ支配した。国家術数は単に食糧関係の職業にとどまることなく、すべてのコレギアを牢獄と化し、そこではその仕事が公益に結合された実業家は強制労働に甘んじた。自らを保護する経済機構の骨組みとして作動し、自由に集まった人間である代わりに、個人はいわば一種の蝕まられた一大人足場にすぎず、そこから移動することはできなかった。そして、それが欠けるようになると、あらゆる制度が崩壊しまいかの懸念から直ちに別のものに取って代わられるはずだった。ゲルマン侵入期には、コレギアは解体し、すべてのローマの諸制度と同じく消滅したが、その歴史はこの消滅に対して正確な日付を与えることができない。その時期は都市の衰退、工業活動の麻痺、人々の奴隷化の結果であった。侵入ののち、封建制度の確立期にはフランスでは11世紀にいたるまで同業組合の痕跡はまったく見出されないのである。

 

(中世の手工業ギルドcorps de métier)
 歴史家がガリア=ローマのコレギアと中世の手工業ギルドのあいだに間断のない親子関係を想定するのはまったく根拠がない。また、別の歴史家が商人ギルド(guilde)を手工業ギル(corps de métier)の中核とすることにも証拠がない。ゲルマン的起源はギルドにおいて見出される互助的保護の感情が産業的同業組合(corpolation)にありえたとしても、そのラテン的起源と同じく正当化されえない。

 これとは逆に、領主の館または城下町で生活し、その代官としてのミニステリアーレス(ministeriales)に従属する農奴の職業別集団がかつて存在したという意見を事実上挙げて支持することは可能であり、また、このような集団が手工業ギルドの形成に到達しうるという見解も同様に然りである。じっさい、他の国においてはその臣民に対し労働規則を課すとともに彼の許に自由に訪れた職人を工業村落や同業組合的な集団から保護しうる有力な戦士長の権威によって、そしてその保護下でこのように形成されるのが見られた。現存するAbyssinie ― その社会制度は封建制を想起させるが ― がその実例を提供してくれる。

p.921 しかし、そうした事実が中世に出現したのは、特にフランスにおいてそれを発見できるのは都市よりもむしろ城館と修道院の周囲においてであり、一般に13世紀に大都市に孵化するところの多数のコルポラシオンが発生するのはしたがって、この萌芽からではない。領主館のあるときは同一領主の手中にあるゆえに鍛冶屋に結合されており、またあるときは同じ町に居住するという理由で領主に自発的に結合されている場合もあるが、それは状況に適合し、和協的に幾つかの共通の事がらを律した。このようにして職業別集団が結成されたのである。手工業ギルドは疑いなく種々の要素をもちつつ一方でたいていの場合、自発的にゆっくり形成された制度である。なぜというに、それはその時代の経済状態に適合させられているからであり、それは労働階級の必要―その職務が要求されはじめ、そして数と富において増大しつつあった―に満足を与えているからである。労働階級は組合によって自らを守る必要を感じており、そして、彼らは13世紀にはまだ目立たないとはいえ、彼らが領主から特権の譲渡を獲得する力を保持していた。互助会(confrérie)がある場合において手工業ギルドの原理を混同しているにせよ、互助会は教会の胎内から生まれたとする見解は幻想を内包しているように思われる。

 ローマのコレギアは4世紀になると牢獄となった。そこで職人は国家術数により無理やり強制労働に服させられた。これとは逆に、13世紀の手工業ギルドは職人や商人らを権力者の暴力から保護し、競争を抑止し、消費者の利害得失と並んで同業者の共通の利害において不出来や詐欺を予防するために、生まれたばかりの産業を保護するある種の要塞であった。p.922 領主による手工業ギルドの承認はこの職業についての一種の集合的な所有権を意味したが、それはその成員が享受し、彼らこそが特に保護すべき利害関係をもっていた。コレギアの精神と手工業ギルドのそれとのあいだには深い溝があったのだ。

 封建時代においてはこのコルポラシオンは保護制度(institution tutélaire)であった。それは農奴身分から解放された職人(l’homme de métier)を効果的に保護した。それがなければ、工業は解放のためには非常に多くの労苦を味わわねばならなかった。力が権利を構成するような社会において生きんがためにはかなりの力強さを要した。その腕の労働以外に名前も何らの財産ももたない孤立した個人は生存を脅かされ、抑圧されたままにおかれることになる。連携のみがもち堪えた。孤立した職人層は非常に長いあいだ耕作農民と同じ境遇に置かれていた。集まって団体をなせば、彼らはコミューンおよび国王直轄都市のブルジョアとなり、1789年にいたるまで下層階級のブルジョアとして居残ることになった。

 最初の手工業ギルドがいつ形成されたかは正確には知られていない。最初の萌芽的な実在は法規の授与により法的祝聖によりも以前であるはずだ。ところで、12世紀、13世紀における幾つかの職業がその特権について非常に古い時代にまで遡及できると信じたとしても、発見された証書は11世紀後半、すなわち農奴解放、コミューン運動と同じ頃になって初めて現れたのは確実である。筋道の通った考え方に従うと、これら3つの運動は相互に独立したものであったにせよ、同一の社会現象の所産である。その職務がらからいって公共の食糧調達に必要なパン屋や肉屋はつねに公権力の特別な監視下に置かれていたが、この2つが法規を保有した最初のものであるか、あるいは最初のもののうちに含まれるとみてよい。建設、衣料、履物の職業もまた早い時期から法規を獲得した。12世紀にそれを譲渡された証書はすでに古文書の中に多数を数える。証書は13世紀に非常に数が増大した。すなわち、エティエンヌ・ボワロー(Etienne Boileau)がパリ市長の肩書において各職業の慣行と諸権利を固定するためにパリ市の101個の職業の法規を記録させたのはルイ聖王治世の末期である。優れた技術的伝統と同世紀のあいだにおける建築業の強力な制度の存在や、それと同時に焼きガラス絵が幾つかの都市特にシャルトルで呈示するところのゴチック式教会の建造はすぐにそれらの重要な職業になっていたことを示す。しかし、工業がコルポラシオンとして凝集しているような都市の数はなおまだそれほど多くはなかった。

 コミューンにおける手工業ギルドは直接的に都市自治体に従属し、そこから法規を得たが、都市は親方への就任許可と監督官ジュレ(Jurés)の選出を承認した。領主または国王支配の都市においてはp.923 手工業ギルドは領主または領主および国王の代理官に依存していた。特にパリではパン屋に対する支配をめぐって国務大臣Grand Panetierが治安判事Prévôt du Roiと相争っていた。

 手工業ギルドがコルポラシオンとして融合したとき、2つの感情が親方層を駆り立てた。すなわち、その職業の治安を確保し、可能なかぎりこの職業の独占を保持しようというのが2つの感情である。この結果、それらは法規を起草し、その領主、国王、公爵または伯爵、司教または神父に対してそれらの承認を与えることを要求した。その結果、違反をした職人に対して、そして特にギルド特権に攻撃を加えた第三者に対して法的力を与えることになった。こうしてコルポラシオンが結成されたのである。コルポラシオンはいわばその職業の財産であり、したがって、この職業を排他的に営業し、その都市でその営業を承認する権利を保持した。法規は市の立つ日に行商人による類似品の販売までも抑制したのである。

 コルポラシオンは以下の階層を含んでいた。ヒエラルキーの底部においてはコルポラシオンが期間と会費支払の一定条件でのみ一般に許可した徒弟がおり、これについてコルポラシオンは親方にその職業を教えるという義務を以てほとんど父親同然の役割を演じた。ヒエラルキーの第二段目に職人(Valets)または労働者(Ouvriers)が位置し、彼らは徒弟期間を修了し、彼らがコルポラシオンに戻るときには多くの場合、雇用主がギルドの外から労働者を採用すること承認されようとも通常は就職に対する優先権を保持していた。第三段目に親方が位置した。彼らのために徒弟暴行が強要されたのだのだが、親方の子息に対してはごく例外ケースを別として親方試作を課されることはなく、特別の便宜は図られた。親方として認められるためには徒弟奉公期間を満了するだけでなく、しばしばその職位を購入すること、つまり領主またはその派遣者に対して設置税(droit de premier établissement)を支払うこと、コルポラシオンによって承認されること、法規を遵守すべく宣誓することが義務づけられた。幾つかの職業では親方の息子のみが親方に就任することが認められており、その職業は世代から世代へと一族間で移譲された。多くのコルポラシオンにおいて、特にパリのパン屋と肉屋においては親方の承認はその表徴的形式が神秘さを想起させるところの儀式によっておこなわれた。すべて、もしくはほとんどすべてのコルポラシオンにおいて支払うべき税が存在し、新会員の負担で祭典ふつうは宴会が催された。

 法規を起草した親方らは必然的にそれを彼らにとって有利になるよう編成した。親方たちは徒弟にはいかなる人身的権利も付与しなかった。彼らは労働者には極めて稀なケースとして人格を与えたが、幾つかの例外を別として彼らは監視員の指名を専ら自らのために保持した。

 ギルド監視員 ― 処によってはギルドの親方という名で呼ばれることもあるが ―Plud’homme, Elus, Jurés, Eswards, Consulsらはヒエラルキーの最上部に位置する。彼らは規則の執行を監視した。p.924 彼らは誓約書を受け取り、収入を司り、警察と一種の裁判をおこなうか、少なくとも違反に関しては、その職業の依存する領主またはコミューンにおける行政官に委ねた。

 パリ=ハンザまたの名を水先案内人組合(Marcchandise de l’eau)は特権を付与されたコルポラシオンであり、前者と同じく領主によって付与された証書の法的叙任を受けた。この領主はパリにおけるフランス王であった。ノルマンのギルドにとっては、これはイギリスの王であった。同じ原理に基礎を置くとはいえ、ハンザはその商業的性格およびその特権の範囲においてメティエの性格とはまったく異なっていた。ハンザはさらに数が少なく、その重要性にもかかわらず、手工業ギルドほどには永続しなかった。

 中世の市民生活の諸行為は宗教生活と深い関係がある。メティエの集団はしばしば教会を基礎とし、職人たちは聖人の保護下にあり、そうした生活は彼らの職業に善を呼びもどすものとされたが、彼らは特別の法規またはメティエ法規に挿入された諸条項により管理された教団を結成した。あらゆる場合において教団はメティエの特質とその明確な目的を掲げていた。つまり、その目的は職業的なものであり、その特質は宗教的・慈善的性格を帯びている。教団はパトロン、ミサ、宴会、そしてそれが貧民一般あるいは窮乏化した親方に分配すべき施物を有した。この役割を果たすため、教団は主にその成員の出資分担額によって補填される固有の収入を保持した。中世の全体を通してメティエと教団はキリスト教とともに多くの貧民にとって愉しみの源泉であり、彼らの生活の主要な関心事でありつづけた。ところが、教団と手工業ギルドの協調がその頃支配的だった感情と完全に適合するものであったにせよ、職業的教団の極めて限定された数の痕跡は13世紀になって漸く認めることができる。当時にあっては教会と王権は猜疑の眼を振り向けたと確言できる。

 手工業ギルドの害悪の一つは、親方たちが獲得するに困難なものを求めていたある特権において営業する権利を要求した独占である。この害悪は13世紀においてはさして大きなものではなかった。なぜというに、工業上の競争は工業がそれから多くの害を受けるほどには未発達の状態に置かれており、商人と職人は工業が反対するところの障壁に妨げられるよりはむしろそれが保護するところの障壁によって保護されることが感じられていたからだ。にもかかわらず、ひとつのメティエから別種のそれへ、このような障壁は隣接する職業のあいだで必ずしも尊重されたわけではなく、隣接職種への蚕食はつねに抗争と訴訟の因となった。p.925 履物業者(chaussiers)と古着屋の争い、縮絨職人、染色職人、ラシャ商人の争い、バッグ製造業者、鞍具業者、パリその他におけるバックパック業者(lormiers)の争いを例挙することができる。

 このような独占は14世紀、15世紀になると大きくなった。コルポラシオンの数はより精細な規則を付加することで法規を改定した。多数の新コルポラシオンが国王の承認を得て結成されたが、その多くはパリのコルポラシオンの法規を模倣する。パリの規則は南仏の手工業ギルドのそれよりもふつう制約的性格を強くもっていた。

 13世紀には稀な例外だった親方試作は15世紀になると、一般規則となった。多くのコルポラシオンがそれを採用した。

 13世紀に親方試作以上に頻繁に見られる制度としての教団は数が増えた。ほとんどのメティエはメティエ監視員によって、あるいはそれ以上にこの職務のために特別に任命された人物によって司られた自らの教団をもつこと願っていた。これは慰安の源泉であると同時に、工業階級にとって出費の要因でもあった。これはまた、貧乏になった親方にとって窮地を脱する手段ともなった。

 手工業ギルドに従属し、教団において親方ほどに十分に安楽に耽ることのなかった労働者は一般にその需要に適合させられ、特殊的に労働者が「フランス巡歴修行の旅(Tour de France)」を結成するにいたる慣習に適合させられた一種の協会を設立した。すなわち、労働者は親方や王権から常に承認することを拒絶した互助会(Compagnyonage)の秘密結社を組織したのである。